交渉
タイロン・ギャロット。
同僚の顔を見間違えるはずはなかった。
テーブルから腕が滑り落ちた。リンは窓際の壁に身体を凭れ掛けさせた。失望に呼吸が奪われていく。店員のダミ声と再び遠ざかる靴音が別世界で発生しているかのように聞こえた。だが、それもほんの短い間にすぎなかった。
「どうだ?信頼していた仲間に裏切られた気分は。あの野郎、人の女を寝取りやがって俺が何も知らねぇ振りしてたら、こうほざきやがった。『前々から憧れてたんだ。白人とやるのと、美人の人妻とやるのを。それをまとめてやってのけられたんだからあの黄色いアホ面に足を向けて寝れんな』ってな」
ネクタイを締め直しながらほくそ笑むギャロットの仕草がリンの脳裏に浮かんだ。
「野郎は俺の足になって動いてたバリーっていう三下を手なづけて俺を市場から締め出そうとした。そこで一つ芝居を打ってみるとお前のアバズレまでおまけに釣れたって訳だ。後は俺を然るべき連中に売りとばしゃあ万事丸く収まるって寸法だった」
「お前、ギャロットをどうしたんだ?」
「さぁな。今ごろ鮫の餌にでもなってんじゃねぇか?」
リンは終にネクタイを緩めた。シャツの第一ボタンを毟り取るように外す。それでも呼吸の乱れは収まらなかった。
「どこで箍が外れちまったんだろうな?いくら仕事とはいえ自分の信念とか貞操とか、そういった大事なものまで仕事の為に失っちまうなんて警察官も因果な商売だよな?」
「あいつとはただ情報交換をしていただけに過ぎん!」
「その代わりに同朋の悪事には目を瞑ろうって訳だ?」
「それは必要悪というものだ。貴様のような輩をこの街から吐き出すための…」
「その必要悪の末路がこれか?」
彼の太い人差し指が乱交の様子を写す写真を穿つように突き立てた。テーブルに鋭い音が響いた。リンは口を噤んだ。そして口を拭い、視線を逸らした。ジョーシュはディキャフを啜り、もう一方のポケットに手を突っ込んだ。
「あんたのご大層な理念に免じて今日は一つ選択肢をくれてやる」
そう言ってジョーシュは鍵を一つテーブルに置いた。それは番号札がキーチェーンについているものだった。彼は組んだ両腕をテーブルに預けた。
「メリッサ・バーグマン-リンはサンタローザのあるモーテルに預けてある。午後二時に取引先がそのモーテルで落ち合わせる予定になってる。お前の大事な奥さんはそれがどんな取引か全く知らない。ブツがないと知った奴らは面識の無い女が騒ぎ出したりしたら、そいつをどう処理するだろう?」
そうしてジョーシュは右掌を見せ、錠剤の詰まったオレンジ色のピルケースをテーブルに置いた。
「もう一つの選択肢だ。これから一時間後に俺は別取引をここでやる。俺を捕まえればギャロットより上の蔓を引きずり出せる」
リンは上着を開き、ホルスターの止め具を外した。
「お前のやっていることは脅迫だ。何が選択肢だ!両手を頭の後ろに回せ!」
ジョーシュは呆れ顔で椅子の背凭れに腕を預けた。
「あんた、俺が言ったことを全く理解していないな」
「これ以上一体何を理解しろと言うんだ?」
ジョーシュは溜息をついて頭を振ると、相手を憐れむような表情でジャケットの内ポケットに手を伸ばした。
「動くな!」
リンは相手を威嚇した。だが、ジョーシュは片頬を歪めて笑い、ゆっくりと内ポケットから手を出した。
その手には四つ折りにされたA4紙が握られていた。ジョーシュは含み笑いを湛えたまま手にした紙に目配せした。
「それは何だ?」
ジョーシュは肩を竦めて紙を開くとテーブルにそれを放り投げた。それは新聞の一面をコピーしたものだった。タイトルには航空機墜落の文字が掲げられていた。数年前、南カリフォルニア沖に墜落したものだ。
「ザックは親友だった」
「何?誰の話だ?」
「お前が助けてやった若い男の話だよ。そのザックがその後何をやったか分かるか?空港で奴は俺の彼女だった女と待ち合わせて駆け落ちしたんだよ。俺の金をくすねてな」
「何だと?」
「奴らはカンクンで身を潜めた後、更に逃げようとしていた」
「それとこの話に何の関係がある?」
ジョーシュは財布を抜き取り、一枚の写真を取り出した。男はリンにその写真を手渡した。そして、 リンはその写真を見て愕然とした。
写真には妻が微笑む姿が写されていた。いや、妻ではない。もう少し若い。だが、本当に妻そっくりだった。リンは顔を上げた。ジョーシュは俯いたまま組んだ両手の親指を見つめていた。
「それが俺の恋人だった女だ。あの時、空港でザックの野郎と高跳びしなきゃその事故に巻き込まれることもなかった」
リンはよろめいた。テーブルに手をつく。息が苦しかった。ジョーシュは顔を上げた。
「お前には時間が無いんだよ。安モーテルがサンタローザにどれだけ散らばってるのか考えてもみろ。俺をしょっぴいたところでその後はどうする?180号線を前面封鎖するか?4号線に検問所でも置くか?殺されてもいない妻の為に?お前自分で言ったよな?警察は殺しが起こるまで動けねぇって。黒幕が夫だって誰もが分かっていたのに、レーシー・ピーターソンが赤子を腹に抱えたままリッチモンドの浜に打ち上げられてた事件をよく思い出してみろ」
リンは真一文字に口を結んだまま震えていた。震えている理由が怒りのせいなのか恐怖のせいなのか彼にはもう分からなくなってきていた。ジョーシュはサングラスを掛け直し、仰々しくテーブルに置かれた二つの品を選ぶよう手振りで示した。
「さぁ選べ。サンフランシスコ市警の腐敗を暴く時の人となるか?それとも不貞を働く妻を赦すか?」
「なぜ俺なんだ?なぜ俺の妻なんだ?」
「さぁな。ただ、俺達は関わっちまった。俺達は交渉しているんだ。世間を撒き込む決断についてな」
リンは踵を返し、ドアの取手を引いた。その瞬間は彼の人生の中で最も長く焦燥感の募ったスローモーションだったに違いなかった。