逆襲
再びジャケットの軋む音が聞こえた。青年は溜息をつきながら窓際に顔を向けていた。そして、暫くの間を置いた後、彼は人差し指を突き出し、その指を左右に振り始めた。
「さっき披露して貰った持論には一つ抜けてるところがあるな」
リンは微動だにしなかった。全神経が聴覚に集中している。相手が切り出す話の中からどんなボロを引っ張り出してやろうかと思案しながら。
「それが何だか分かるか?」
そう言い放った青年は顔を相手に向けた。その顔には微笑みすら浮かんでいた。刑事は微かに首を横に振った。
「当事者とそいつを巻き込む第三者の関係さ。あんたの言う四種類の人間はその第三者に踊らされている可能性を捨てきれていない」
「じゃあ何か?お前は舞台裏で糸を引く側だって言いたいのか?」
「いや、引かれる側になりかけたってところだな。間を仲介させられているといったところかな?」
音楽はいつしか鳴り止んでいた。刑事の眉間に寄った皺は深くいつまでもそこに残ったままであった。対面に座る男は組んだ両腕をテーブルに預けていた。
「あんたは詳しいかもしれんが、ハードボイルドの小説には『危険な女』が欠かせない。フェン・ファタールってやつだ」
リンは黙っていた。
「実際そんな女と縁持っちまったらそりゃ酷いもんさ。おまけにそういうのが決まってとびきりの上玉だってんだから世の中、皮肉なもんだよな」
「…何か?今度はお前の色恋沙汰を聞かされるのか?」
「その通りさ。あんた言ったろ?『きっかけは誰にでも用意されてる』ってよ。そりゃ最初は素晴らしいもんだったぜ?見ての通り俺は派手に遊ぶ。今朝だってこの有様だ。20代後半の女は脂が乗り始める。そういうのが夜の快楽にハマり始めると凄いことになる。でもな、そういうのに限って男の仕事にちょっかい入れてくるもんだ。甘い汁を吸うためにな」
「つまり何が言いたい?」
「俺にある知り合いがいた。女だ。世に言うアバズレさ。そのアマは俺のパートナーを手玉に取った。取引先を少しずつ奪っていこうっていう魂胆があった。事実、あいつらは頭の悪い一人を捕まえた」
「その情報が私の何の関係がある?唯一分かるのはお前がろくでもないものを取引していそうなことぐらいだ」
「…仮に俺があんたの思い描いているものを売り捌いているとしたらどうする?」
ジョーシュは黄色くなった前歯を見せて笑った。リンは皺の目立つ浅黒い右手を背広のボタンへ持っていった。そしてボタンを外した。明らかに自分を挑発している対面の若造に気付かれることなく。
「もしそうだとしたら、散歩にでも付き合ってもらうか。私もお前の友人を知っているかもしれんしな」
ジョーシュは無抵抗を示すように両手を上げた。ただ、彼の口からは笑い声が漏れていた。
「全くそうかもしれねぇ」
そう言って彼はレザージャケットのポケットに手を伸ばした。リンはスーツの内側に右手を忍ばせた。
「よく考えろ。慎重になった方が身の為だぞ?」
ジョーシュは動きを止めた。が、彼がゆっくりと内ポケットから取り出したのは携帯電話だった。機先を削がれた刑事は自然、右手を下げた。相手は携帯のメモリ登録をローミングしている。
「さて、おたくは誰を知ってそうかな?」
そう言いながら携帯を操る青年を前に刑事は首を振り立ち上がった。ジョーシュは顔を上げた。
「もう帰っちまうのか?」
「場所を変えよう。話次第なら署まで送っていってやる」
刑事は両手を下げ、相手を見下ろしていた。遊び人だと言い張った青年は刑事の方に身体を向け直した。テーブルと椅子に両肘を預けて。
「まぁ慌てなさんなって。人と待ち合わせてるんだ。電話の一本ぐらい入れさせてくれよ」
そう言って彼は携帯を掲げてみせた。外の通りは早い昼食を求めて人通りが多くなった。
刑事はその場に立ち尽くしていた。
めっきり皺が多くなったその顔は表情を失っていた。インターフェースに表示されている番号には見覚えがあった。妻は最近携帯を紛失して新しいものを購ったばかりだった。
「あいつ、最近携帯を買ったばかりでな。これからお仕置きをしに行くんだ。あんたも来るか?」
リンは口を開こうとしていた。だが、唇が震えていた。
「どういうことだ?」
ジョーシュは溜息をついて電話をテーブルに放った。
「刑事ってのは割に合わねぇな。時間を選んじゃくれねぇし、死体を相手にするのがざらだ。知ってるか?警察官の離婚率は他の職業より群を抜いてるって話だぜ?」
リンは両目を大きく見開いた。レザージャケットの襟を掴みに掛かる。が、それよりも先に刑事はネクタイを引っ張り寄せられていた。間近に寄った顔には怜悧な笑みが浮かんでいた。
「お仕置きはもう始まってんだ。俺をぶち込んだらあんたの奥さんは二度と戻って来ねぇぜ?」
引っ張られた反動で窓枠に手を掛け、全体重を支えたままリンは目を閉じた。荒い鼻息が革の匂いを放つジャケットにかかった。
「アーヴ、ディキャフ二つ追加だ」
リンは思わず足を引いた。その反動で身体が椅子に当たり、椅子が大きな音を床に残した。
「まだ話は終わってねぇ」
鋭い口調の言葉がリンの耳を貫いた。とジョーシュは立ち上がり、後退りするリンの肩に手を置き、有無を言わせない力で彼を椅子に座らせた。リンはサンフランシスコクロニクルの上に腕を投げ出し、空虚を見つめた。第一面にはバスがハザードを焚き停車している写真、その上に『電気伝導機落下 通行人一名死傷』という見出しが載っている。売人は物言わぬ刑事に微笑みかけ、身を翻した。そしてその足で店の奥にあるトイレへと姿を消した。
奥でドアの閉まる音が聞こえた。
それを合図にリンは無表情のまま自分の携帯を取り出した。
『はい殺人課』
「マイク、俺だ」
『テオ、一体どこにいるんだ?』
「急ぎで一つ身元を調べて欲しい。ジョーシュ・カニングハム、歳は20代後半、住所はバーナルハイツ近辺で白人だ。麻薬の売買をやってる可能性が高い。一回ぐらいはしょっぴかれてる筈だ」
『おいおい、白人のジャンキーがあの辺にどれだけ屯っていると思ってんだ?』
「麻薬課のタイロン・ギャロットに訊け。このガキは末端じゃない。パイプを持ってる」
『何だって急ぐんだ?これから聴取が・・・』
拳がテーブルに振り落ち、空のペーパーカップが一瞬、宙に浮いた。
「頼む!妻が危険なんだ!」
トイレのドアが開いた。リンは相手が出てくる様を確認し、何事もなかったように携帯をしまった。ローカットブーツの靴音が一歩ずつ近づく中、リンは組んだ両手に額を預け、目を閉じた。店員のアーヴが悠々と店内を横切っていくジョーシュに声を掛けた。
「もうちょっと待っててくれ」
「いや、そんなに急がなくてもいい」
靴音は一定のリズムを崩すことなくどんどん大きくなっていく。
リンの口元は微かに動いていた。…打開策はまだ残っている。このろくでなしの居場所が突き止められなくても必ず叩けば埃が出るはずだ。ギャロットならば…思考は外の光に薄らぐ暗闇を縦に切り裂いた黒影に分断された。
目を開かずにはいられなかった。テーブルには何かが放り出されていた。
それは一葉の写真だった。
それを見た我が目をリンは疑わずにはいられなかった。スナップ写真には男の一物を握ってレンズに呆けた笑顔を向けるブロンドの女、そしてその脇に禿げ上がった褐色の顔を近づけて別の男のアップが写されていた。女の顔はよく見知った顔だった。
リンは両腕を下ろし、天井を仰いだ。自分の妻に対して事に耽っている変態の顔にも見覚えがあった。