尋問
「思い出した。あんた、テオ・リンっていう刑事じゃないかい?」
リンは再び眉を顰めた。
「そうだが、何故私の名前を?」
「親友から聞いたんだ。あんたの名前を」
「親友?」
「そうさ。あんた何年か前に車をレッカーすると言い放ってきかなかった警官と若い男の仲裁をやったことがあるだろ?」
今度はリンが俯く番だった。そんなことがあったか?リンは年を重ねてインクが剥げ始めた記憶のページを辿っていった。だが、思い出せない。リンは整髪料で固められた髪をきつく撫で上げた。それが彼にとって何かを思い出そうとする時の癖だった。対面の席に座る男はコーヒーをまた一口啜って上半身をテーブルに預けた。
「ヴァンネスとポストの辺りだったって話だったな」
相手の言葉にリンははっとした。
そういえばそんなことがあった。ちょうど自宅マンションのガレージから車を出すところだった。目の前にはセダンが停まっていて、その脇で警邏警官とロングスリーブのTシャツを着た若者が言い争っていた。若い男の方は「空港へ急がなきゃならないんだ!」と、訴えかけていた。警官はそれをにべもなく跳ねつけていた。
待っていたら分署へ向かう時間が損なわれてしまう。
そう思案しながらリンは溜息をつきながら自分の車を出て、巡羅警官に言い含めた。その若い男と車を見逃してやるよう促したのだった。その時、その若い男は自分が名を名乗って巡羅警官がしぶしぶ条件を飲む様を憶えていたに違いない。
「ザックっていうんだが、本当に感謝していたって言っていた。そこであんたの名前が出てきたってわけだ」
「そうか。じゃあ、そのザックはちゃんと空港に辿り着けたわけだな?」
「あぁ、幸か不幸かね」
二人は初めて面と向き合い会釈した。その笑顔はお互いから中々消え去ろうとしなかった。やがて訪れるであろう気まずい沈黙を払拭するようにリンは肩を上げ下げして息をついた。そして両手を組み、相手を見据えた。
「面白い話の礼に一つ話をしておこう」
リンは笑顔を浮かべたままそう言った。
「さっきも言ったが仕事柄、私は色んな人間に接する。生きているか死んでいるかはさほど問題じゃない。その経験則から私はある種の定義を打ち立てた。人は大きく四つに区分できる。それが何だか分かるか?」
「さぁ?おたくの話が何処に行くのか見当さえつかねぇからな」
ジョーシュは表情を変えずにそう言い放った。年よりももっと若く見られがちの刑事は自分のペーパーカップをテーブル中央に据えた。
「これを一人の人間だと見立てる」
そういって彼はカップをテーブルの中央に置いた。
「一見何の変哲もない一個人があるきっかけをもって二つに区分される。それが事件だ。これをもってこの人間は被害者か加害者になる」
リンは両手でカップの左右に線を描いた。
窓越しに道路反対側のビルが淡い灰色から白い輝きを放ち始めた。
「被害者は更に二つのカテゴリーに分けられる。意図した殺意に値する者と全くの不遇に付き合わされる者だ」
リンはそう言ってカップの上下に両手でもう一つの線を引いた。
店内に流れるラジオのDJが次の曲を紹介する。間髪を入れず、ボンゾのドラムロールから始まってジミー・ペイジの奏でる、どこかカントリーチックなギターリフが流れてきた。
「そして加害者の方も同じことだ。二分される。その行為を強いられた者とその素質を先天的に植えつけられた者に」
晴天が雲間に隠れ、辺りは覚めるほどの暗がりに包まれた。店内は絵画を照らすライト以外、カフェの中は白昼のシルエットと成り果てた。やがてロバート・プラントがキーの高い声で『Rock and Roll』を歌い出した。
ジョーシュは親指を舐め、残りのドーナツを口へと運んだ。リンは上半身を椅子に預け、スーツのボタンを片手で一つ掛け直した。
「さて、君は一体どれに入るだろう?」
聞き手は咀嚼を続けながら人差し指を上げた。
「イマイチ理解できねぇな。運命的に犯罪者になるって決められた人間がいるっていうのか?」
「ああ。一人だけいたよ」
「どんな野郎だ?」
「外科の医者だった」
「外科医?」
「あぁ。優秀な外科医さ。異常な生活習慣を除いては。君は丸一年、点滴だけ過ごせるか?」
ディキャフを啜り、サングラスに覆われた目元が眉を吊り上げた。
「無理だな」
「その医者はそうやって生きてた。だが、その変わった生活習慣はある日を境に異常習性と結びついた。いや、もしかしたらその逆かもしれない」
「異常習性?」
「奴は周期的にあるものを欲した。それが何か分かるか?」
ジョーシュと名乗った男は口元を歪めて首を横に振った。
「人の肉だよ。柔らかい女の肉が食いたくなるとな。死体は見事なほど見つからなかった。失踪事件の件数が増すばかりでな。その殆どが加害者の胃の中に消えてたんだからな」
「イカれてるな」
「それが七年ほど続くと奴は次第に見境が無くなっていった。大家の50代の女性が失踪してな、それから三日経つと、野犬がゴミを漁っているという通報からアパートのゴミ捨て場から彼女の小指が見つかった。令状持ってそいつのアパートに踏み込んだ時、奴は食事を始めようとしていたよ」
…想像してみる。
二人の警察官を従えた刑事がリビングに入って行き、外科医に逮捕状を見せる。テーブルはオードブルが広がっている。どれも肉料理ばかりで美味しそうな匂いを漂わせている。医者は残念そうに目の前のステーキを見下ろす。『今日が一番美味しい太腿の所だったのに』と、呟く。その一言で警官の一人が噎せて口元を両手で押さえつけながらその場を離れる…
太陽が雲間から抜け出し、再び窓で隔たれた景色に暖かな日差しが落ちてきた。
「で、その変態は今何処にいるんだ?」
「知らんよ。公判が始まる前に精神病院から脱走した。そして、今も逃走中だ。もしかすると、ここを出たらばったり出くわすかもしれん」
コーヒーを飲み終えた青年はせせら笑った。
「今の話じゃ残念ながら俺が的になることはないだろ?」
「言ったはずだ。奴は『見境がなくなっていた』と」
サングラスの男は笑いながらコーヒーを啜った。
「ここは本当に退屈しない街だな」
「退屈に埋もれている方が意外と幸せかも知れんぞ?」
刑事はペーパーカップのリッド中央に左の人差し指を置いた。黒ずくめの青年は椅子に座り直した。革の軋む音が聞こえる。眉間には皺が寄っていた。
「どうして?」
リンはカップを左手前に引き倒した。乾いた音を立ててカップはテーブルに短い弧を描いた。
「事件には何事にももののはずみというものがある。君や私、外を歩いている人々も、さっき話をした医者も、きっかけ一つで暗がりに身を窶す羽目に遭う」
聞き手は肩を竦めた。
「機会は誰に対しても平等って訳だ。ある意味おっかねぇな」
「下手すると、そう他人事みたいに言っていられんかも知れんぞ?」
レザージャケットを羽織った男は相手を訝しがる目つきになった。
「何が言いたい?」
リンはスーツの襟を直した。
「窓際でもそのサングラスじゃ暗かろう?どうだ?外してみないか?」
「いや、日の光には滅法弱い方なんでね」
「それは元からなのか?それとも夜が派手すぎたせいか?なぁ、さっきから気になってたんだが、偉く鼻を啜り上げてるな?」
反射的にジョーシュは鼻頭に指を添えた。
「風邪か?だが、病気しているようには見えないがな?至って元気そうだ」
椅子に身体を預けたまま刑事は背広の下に右手を忍ばせた。その顔に浮かぶ微笑みは勝利を確信していた。