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交渉  作者: 塚本亮悟
3/7

遅れて現れた客

 6フィートはある背丈に分厚い筋肉をレザージャケットで包んだ男がそこには立っていた。アクアブルーのサングラスを掛けた男は悠々と辺りを眺めていた。頬から顎に掛けて褐色の髭がうっすらと見て取れる。おそらく昨日から剃刀を当てていないのだろう。だが、黒いスラックスには皺一つすら寄っていない。ジャケットの下に見える同色のドレスシャツに至ってもそうだった。徹夜したことを覗けば意外と小まめに身の周りのことをやる性格だと見て取れる。

 そんな職業病とも取れる刑事の観察などその男性には関わりのないことだった。一日が既に始まっている中でその喫茶店に姿を現した客はリンが陣取っているテーブルに視線を止めると、サングラスを掛け直した。

 そして、その背の高い客は歩き出した。その歩き方には形容しがたい癖があった。肩をいからせた相手を威圧するような歩き方だ。恐らく若い時は街の路地が教室だったような生き方をしてきたのだろう。リンは背中を丸め、コーヒーカップを手にした。極限まで存在感を消し、疑わしい存在を監視する方に回る…それが長年積み上げてきた彼の経験、いや習性といっていいものであった。

 男性は歩みを止めない。リンはそのまま男が通り過ぎていくものだと思い、新聞紙のページをゆっくりと捲った。

 ところが、男はリンが座るテーブルの前で立ち止まると、「やぁ」と、笑顔で先客にそう挨拶した。無防備に長い両手を揺さぶらせたままで。リンは表情を動かさず頷いて見せ、新聞を二つ折りに折り畳んだ。全身黒ずくめの男性は笑って上唇に人差し指を添えた。道話を切り出したものかと思案している素振りであった。

 「ここ座ってもいいかな?」

 中国系アメリカ人の片眉が動いた。

 「それとも待ち人ありとか?」

 リンは畳んだ新聞をテーブルに戻した。

 「いや、私一人だが」

 「じゃあ相席でも構わないだろ?」

 「別に構わんが、どうして相席なんだ?」

 リンは辺りを見回してみせた。空席はまだいくらでもあった。男は不意に椅子の背凭れを軽く叩いた。

 「ここが俺の特等席だからさ。ここでディキャフを飲みながらサンフランシスコ一旨いドーナツを食う…」

 言葉を区切ると、とびきりの笑顔が零れた。

 「それが日課なんだ」

 その笑顔に思わずつられてしまい、刑事は表情を崩した。リンは空いている席を勧めた。若い男は一礼して椅子に座った。だが、その挙動は荒々しかった。

 「よかったらドーナツ食べないか?席を譲ってくれた礼にでも」

 「いや、そいつは遠慮しとくよ」

 男性は笑顔のまま席を立つと、カウンターへと去っていった。灰色の長髪を後ろで束ねた初老の男性が椅子から立ち上がりカウンターに姿を現した。老いたチェッククラークは隣のショウケースへと歩み寄り、そこに上半身を預けた。店員である白人はいつも交わすような会話を切り出し、客である若い白人はショウケースに両手を預けてドーナツを眺めていた。暫くケースを眺めたまま、あれこれ指差した末に彼は、「やっぱりいつものでいいや」と、言い放ち、店員の笑いを誘った。それを見つめていたリンは再び新聞を広げ、ページを捲った。急に疎外感が背中を掠めていったが、それに慣れてしまっている彼にとってはこの一瞬は何の変哲もないものにすぎない。

 窓際には一層強い光が差し込みだしていた。差し込んでくる光がカウンター反対側に掛けられた抽象画の一つ一つがそれぞれの色を仄かに浮き立たせた。サンフランシスコ市警殺人課の刑事は両目を細めながら体の向きを変え、足を組んだ。

 先程の青年はトレーを両手に持って席へと戻ってきた。刑事はテーブルに放置していた自分のサングラスを手元に引き寄せた。その仕草に気がついていない青年は椅子に体を落ち着け、話に上ったディキャフを一口啜った。そうして彼は椅子に背中を預け、窓の外に聳え立つ建物を見やっている。表情を動かすことなくリンはその様を一瞥した。

 サングラス越しに見える瞳に動きがなかった。

 新聞を捲る音が殊更大きく聞こえた。

 「ここにはいつも来るのかい?」

 「たまにね」

 記事を目で追いながらそっけない答えを刑事は返した。いくら体格が違おうとも、額の部分がいくらか後退し始めていようとも、相席を望んだ男は自分よりも若いだろうとリンは読んでいた。

 「この席から夕方の風景を眺めたことあるかい?」

 「いや、ないね」

 太陽はいつしか空を駆け上がり始めていた。カフェの中は光の差し込み具合から暗がりに転じて行き、代わりに通りの向かい側に建っているビルが嵌めこみの窓全面を白く照らし始めていた。

 「向い側のビルがあるだろ?その時間、あのビルに反射する光が眺めている内に変化して行くんだ。綺麗なもんだよ」

 「夜のネオンやミラーボールよりもか?」

 白人の青年は反応を示すことなくコーヒーを啜った。

 「あぁ違うね。自然の輝きに勝るものなしってところだな」

 そう言って彼はドーナツの薄い包み紙を剥がし始めた。

 「で、おたくは何をやってんの?」

 「『何を』って?」

 「何して生計立ててんの?」

 「あぁそういう意味か。例えて言うならストーキングだな。色んな人の」

 ドーナツを咀嚼する様が良く見えるえらの張った顎を動かしながら青年は肩を竦めてみせた。リンは背広のポケットからペンを取り出した。

 「で?君は何をやってるんだ?」

 「トレーディングだね」

 「ほう、何を取引してるんだ?」

 「色々さ」

 「仕事の向きはどうだ?」

 「上々だよ。ただ、忙しすぎて休暇を取ったのなんていつが最後だったか覚えちゃいないけどね」

 リンは手にしたペンで記事の一つを大きく丸で囲んだ。

 「暇なしか。しかし、そうやって暇がないのは誰かの忙しさを盗んでいるというわけだ」

 「どういう意味だ?」

 ガサガサと包紙が擦れる音が聞こえた。男は最後の一かけらを口に放り込んだ。

 「物の取り様さ。君は人がやりたがらない、やらなければならないことに気がつきもない仕事をやっている。見方によっては他人の仕事を盗んでいるじゃないのか?」

 テーブルの反対側に物を口に詰めた笑い声が上がった。やがて咀嚼されたドーナツが飲み下される音が聞こえた。

 「あんた中々面白いな」

 「物事の裏側を見るのが癖になっているだけさ。大したことじゃない」

 「その裏側を覗いて『これは…』と思うようなことはあったかい?あんたのようにスーツ着てやる高尚なストーキングが仕事ならそういう話はごまんとあるだろう?」

 「多すぎて思い出せんな」

 「この街はそういう話に事欠かねぇって聞いてたが、どうも違うみてぇだな。通りの向かいにいるオタクみたいな奴とホームレスが日和見的な話をして談笑してるのを見るとそう思っちまう」

 「あの二人がそんな日和見的なことをやっているように思うか?」

 「さぁね」

 「そっちはどうなんだ?取引相手からそういった類の話は聞くだろう?」

 「相手の話を又聞きするのが関の山だな。そうだ、一つだけ気味悪ぃ話があったな。取引先の客が出くわした出来事だったんだが、ポーク通り上がっていったところに『Hertz』があるだろ?客が用事でサンノゼまで行かなくちゃならなくってさ、そこでレンタカーを借りようとしてたところに見たことねぇ不気味な仮面をつけた野郎が入ってきたんだ」

 リンは新聞をテーブルに置いた。

 「その男が車を借りたいと受付の姉ちゃんに言うんだ。『車が借りたい』と。当然、免許証を見せろって話になって免許証を見せる。けど受付は残念そうな顔をする。あそこは25歳以下の利用者には貸せない規約だろ?野郎の拙かったところは『それは弟のを間違えて持ってきたんだ。こっちが俺のだ』って言ったところだ」

 リンは手にしていたペンを上着の内ポケットにしまった。

 「結局、お面を取ってくれってことになった。顔の照合が出来なきゃ免許見せる意味がねぇだろ?そしたら野郎がキレた。『これが取れるくれぇならわざわざこんなところに来るわけねぇだろ!』って言ったかと思うと、隠し持ってた包丁を取り出して何の罪もねぇ姉ちゃんを脅し始めた。『俺は今日中にサリナスまで行かなきゃならねぇんだ!』って喚きながらな」

 「それで周りの連中は?」

 「勿論止めに入ったさ。ガタイのいい整備士が三、四人出てきて野郎を取り押さえやがった。そしたら、その男が絶叫して床に倒れちまったまま動かなくなった。よく見りゃ整備士の一人の手が真っ赤に染まってやがる。『血だ!』、『頭からだ、マスクが頭に食い込んでる!』ってことになって大騒ぎさ。救急車が来て…もう後はあんたの想像に任せるわ」

 リンは顎を撫でた。

 「それで男はどうなった?」

 「得意先が車を返しに行ったら現場に居合わせた奴が『あの時の事件は内密にしてくれ』って頼んだんだとよ。消えたらしいんだ。病院から」

 「消えた?」

 「要人のボディガードみたいな黒スーツ姿の男が何人もきて野郎を掻っ攫って行ったんだと。知らないかい?結構有名な話だぜ?」

 「残念ながら管轄が違う」

 「へぇ、死体が出てくれば違うか?」

 「ただの野垂れ死にじゃダメだな」

 相手は両の掌を開いて口を曲げた。リンはテーブルに広げた新聞の上で拳を跳ねさせていた。

 「お得意先は妙な場所に居合わせたな」

 「そうだな。意外に無いようであるもんだ。その手の話は」

 「どうだね?あの界隈で働く連中は車の一台くらい持ってそうだがな?ガレージ付きの自宅がパシフィックハイツ辺りにあったりしてな」

 「さぁな。金持ちだろうとバスを使う偏屈はいくらでもいるぜ?」

年上の男は片頬を歪めて笑った。が、その目は笑っていなかった。

 「君はどこに住んでいるんだ?」

 「バーナルハイツだ」

 「そうか。…そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」

 「ジョーシュ。ジョーシュ・カニングハムだ」

 「そうか、リンだ。よろしく」

 「リン…」

 男は告げられた名前をもう一度口にして俯いた。右手を口に当てて男はその名前を反芻しながら何かを思い出そうとしていた。リンは眉を顰め、相手の顔を覗きこもうと背を丸めた。次の瞬間、ジョーシュと名乗った男は顔を上げた。その表情は思い出せない何かを探し当てた時の晴れやかなものに変わっていた。

 リンは身体を仰け反らせなかった。

 だが、瞬時に右手が無意識に左脇にぶら下がっているホルスターへと伸びていることにはっとした。それはもう無意識の中で行われる習性そのものであった。リンは相手にそのことが悟られないようにゆっくりと右腕を下ろしにかかった。

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