モーズ・カフェ
フォルサム通り。
インターステート80号はハリソン通りを五番と四番街の交差点にそれぞれ出口を構えている。北東へと伸びる一方通行のハリソン通りはサンフランシスコのダウンタウンを斜めに横断するフリーウェイと連結している為、日中は車の流れが殆ど絶えない。
ハリソン通りの一つ西隣を通っているフォルサム通りはフリーウェイ入口を六番街まで見逃した慌て者が操る車で賑わう。だが、そこから更に南の方へ進んで大通りの番号が上がるにつれて道路は閑散とし始める。そして、物乞いも素通りする十番通りに佇む喫茶店は束の間のコーヒーブレイクを楽しむにはある意味お誂え向きの場所であった。
そんな十番通りとフォルサムの角に面した「モーズ・カフェ」にテオ・リン刑事はいた。
窓側の特等席に陣取り、テーブル脇には店のロゴが入ったトールサイズのペーパーカップを置き去りにしたままサンフランシスコクロニクルを広げる。無意識の内に手がネクタイへ伸びるが、その手はふと思い出したようにネクタイから離れ、ペーパーカップへと辿り着いた。一口、淹れ立てのフレンチ・ローストを啜り、刑事はオールバックの黒々とした襟足を首筋に撫で付けた。身嗜みの整った男性はようやく日の光を浴びて輝く外の景色を眺めた。
交差点対角線上に見える酒場がある。マジェンタ色に染められた壁が一層赤く見えた。そしてその入り口付近にはビニール袋で満杯になったショッピングカートとその横に毛布で体を包んだ人間が横たわっている。男か女か区別などつきそうもない。そして、それは日常の中ではさしたる問題でもなかった。
交通量の多い道路を挟んで歩道に寝そべっているホームレスが今年の冬を越せるか。
それが由々しき問題の一つだった。暦が変わり、また一年が巡ってくる時にあのホームレスは相も変わらず同じ場所で寝そべっていることができるだろうか?地元新聞紙が連載形式の社説に掲げる問題の一つにホームレスの死亡率が年々上がっている点を指摘している時期があった。
ホームレスのある一定数が元受刑者だ。
その受刑者がサン・クエンティンから釈放され、辿り着く先はこの寂れたコンクリートジャングルなのだ。ホームレスが路上で見取られることなく、孤独な最期を迎えるその一端は司法に携わる人間に少なからず関与している。そう思うととてもやりきれない。
働き盛りの刑事はテーブルの縁を握り、そのホームレスとショッピングカートが佇む姿をじっと眺めていた。新聞紙は第二面を開いたままになっていた。信号が青になり、車の群れが南へ向けて一斉に流れ始めた。路地に寝そべったままのホームレスは自然、左から右へと過ぎ去る車の裏手に隠れてしまった。リンはそれでも視線を紙面に戻そうとはしなかった。
その時だった。
窓の横を黒い人影が通り過ぎて行った。目が覚めるような思いだった。黒い上着に豊かなブロンドの後ろ髪がゆったりと揺れた。肩越しに見せる彼女の笑顔がいつになくはにかんでいる様に見えて愛おしかった。出会った頃と何一つ変わっていない素振りだった。
いつの間に見なくなってしまったのだろうか?
広いマンションに移っていつしか妻との間に互いが自然に了解しあった距離が出来ていた。そしてその距離は自分が想像した以上に遠かった。
リンはテーブルから右手を離し、その手で額を撫で上げていた。額に垂れた一房の前髪が指の合間にしな垂れていた。その時、出入り口のドアが開かれた。刑事が顔を上げたその先にはまだ東の空を昇りつつある日を背に立つ人影があった。
だが、その人影は明らかに妻のものではなかった。