プロローグ
夜景は霧に包まれてから久しかった。
マンションが林立するヴァンネス通りとポスト通りの一角は部屋の灯りが点々と闇に映えるばかりだった。その交差点に黒いアキュラが静かに歩道の路肩へ寄せて止まった。スポーツカーから酒に酔った女性が出てきた。両足のヒールを片手にぶら下げたまま冷たい縁石の上を歩いて行く。平均台の上を通り過ぎるように歩いていた女性はすぐにバランスを崩し、ふらついた自分がおかしいのか声高らかに笑い始めた。恋人らしき背の高い青年が両手を上げて彼女の後を追っていく様がその通りには在った。
その様を九階は一番東側のマンションの一室から誰かが見下ろしていようなどとそのカップルには想像さえつかなかっただろう。
その一室は大きな間取りのキッチンが構え、やや小さめだが黒を基調にしたシンプルなデザインのダイニングテーブルが注意を引く。ソファーも黒張りの高級なもので壁には大きな液晶テレビが備え付けられていた。広い間取りのリビングは揃えられた家具と共に大人の雰囲気を醸し出していた。
「それで?どんな様態なのかも教えてくれないの?」
窓際に片方の脚を預けていた男性は徐に立ち上がった。
「残念ながら我々も詳しいことは知らされていないので」
そう言い放った男性は背広のボタンを掛け直すと、手振りで声の主を玄関へ向かうよう促した。黒いタートルネックの裾を直しながら、その女性は相手を冷めた目で見据えた。
「だからそんなに悠長に構えているのね?」
声には棘があった。
スーツ姿の男は肩を竦め、指を鳴らした。背中に『SFPD』のロゴがプリントされたウインドブレーカーに制帽を深く被った巨漢が玄関のドアを開けた。片手を腰の警棒に添え、肩の辺りに備え付けていたトランシーバーが連絡事項を伝えるのを無視しつつ、制服姿の警官はゆっくりとした足取りで廊下に足を運んだ。
女性は椅子に掛けたままのコートを小脇に抱えた。額が禿げ上がったスーツ姿の男性は両手を前で組んだまま、その女性が部屋の灯りを消そうとする様を眺めた。
「一つ分からないことがあるの」
女性は照明のスイッチに手を伸ばしたままそう尋ねた。
「何でしょう?」
「主人は…リンはどうしてデーリー・シティなんかにいたの?管轄が違う筈よ?」
「殺しは、人はおろか場所も時間も選ばないものですよ?」
「『殺しは』ではなくて『悲劇は』でしょう?」
女性は肩に掛るバッグのストラップを直しながら、スイッチを切ろうとした。年嵩の刑事は手を上げてそれを制した。彼女は怪訝そうに年嵩の男性を見つめた。
「どうです?御同行願えないでしょうか?」
刑事は片頬を歪めた。笑ったつもりだったのかもしれない。
「病院でも事情聴取はできるんじゃない?」
「だったらそれでも構いません。とにかく御同行いただけますかな?」
「警官の決り文句なんて何処の国へ行っても同じなんでしょうね」
刑事は頭を下げ、左手をホールウェイの方へ振ってみせた。「お先にどうぞ」というジェスチャーだった。軽い溜息をその場に残し、女性は照明のスイッチを切って外へ出た。やがてドアは静かに閉じられた。