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今日中に書き終わった……奇跡です。
どこまでも広がる青い空間。空より深く、海よりは薄い青。慣れて、もうほとんど感じなくなった鉄臭さ。ログインした時、最初に恵子が現れるのはパソコンのデスクトップである。
勿論、宙にはアイコンが並んで浮かんでいる。某大規模検索サイトへ繋がるeのアイコン、様々なファイルを保存してあるフォルダ、その他様々な機能を有したアイコンが並んでいる。
恵子はそれらに目もくれず、ホロキーボードでアドレスを入力し、いつものようにギルドホームへ。太智がまだいるか分からないが、いなかったらメールを送れば済む話だ。
アバターの転送が終了し、視界が開ける。果して太智はそこにいた。複数のディスプレイを操作し、情報を集めているようだ。
「ただいま」
太智の目の前に――ディスプレイの裏側に顔を出し、声をかける。
それを聞いた太智は初めて恵子に気付いたように、おかえり、と返した。そして、すぐに意識をディスプレイに向ける。
なにかあったのだろうか、いつにない集中力である。太智は特別なことがない限り、ディスプレイに掛けている覗き防止のプロテクトを解除しない。今も、恵子が太智の後ろに回っても、ディスプレイはどれも砂漠状態で、彼が何に集中しているのかがまったくわからない。
そういえば、と恵子はここ一年の出来事などを思い出すが、彼女は太智のことをほとんど知らない。というのも、最大の原因はダイバー同士の暗黙の掟なのだが。
『仮想世界に現実を持ち込むな』
掟の一つにこれがある。これが原因で長い間ギルドを組んでいても、メンバーの住んでいる地域はおろか、連絡先さえ知らないギルドもある。もっとひどいところでは、本名さえ知らないところもある。
余計な詮索はしないのがよいのである。
とりあえず、バグウィルスに関する情報だけならばリアルでの出来事でも流通許可されているので、さっきのコンビニでの事を伝える。
しかし、大した反応を見せない。どころか、
「そーだね」
という上の空のような答えしか返ってこなかった。
その態度に恵子は、ピクリ、と片眉を跳ね上げる。
「せっかく入手した情報を、そんな軽く扱っていいのかな?」
「だってそれって、超基本的な情報じゃんよ。風邪薬の話しただろ? それで充分」
「じゃあ、その大量のディスプレイはなに? 何を調べてんの?」
「ゲームだ」
「…………………………」
ああそうですか。
ゲームが好きなんですね。
恵子は呆れて言葉を失ってしまう。
「バグウィルスの情報は?」
「見つからん、だからこうしてゲームして待っていたんだが、もうちょっと待ってくれ。もうすぐミッション達成だから」
熱くなっていた自分がアホらしくなってきた。
精神的に疲れた恵子は、ギルドルームの内装と同じ白黒のチェック柄のベッドを作ってそこに横になった。
ただ寝転がっているのも退屈である。恵子もディスプレイを一つ展開して、2ch掲示板に繋げた。いわずと知れた大規模掲示板である。老若男女、年齢関係なく集まるこの掲示板は時折、有力な情報を入手することができる。
ただ前のとおり、大規模なのである。
足を運ぶと、普通にディスプレイを通して見るよりも数倍の時間がかかる。だから、掲示板などは仮想ディスプレイを出現させて確認したほうが楽で早いのである。
と、怪しげな書き込みを発見した。
「ん」
524 名前:銀:2030/8/4(土) 18:31:39 ID:???
そういや、最近物価がありえないくらい高くね?
525 名前:名無しさん:2030/8/4(土) 18:32:13 ID:???
ああ、わかる!ありえねーよな!結局フツーの値段で買えるんだけどなwww
526 名前:名無しさん:2030/8/4(土) 18:33:54 ID:???
マジで!?てっきりその値段で買わねーと行けねーのかと思ってた
527 名前:銀:2030/8/4(土) 18:34:06 ID:???
それらの原因って、ネット中に変なウィルスが発生してるらしいよ
しかも発生源がどうも新富里の総合病院らしいよ
「これって!」
ベッドから跳ね起きる。
ちょうどゲームが終わったのか、ディスプレイを消している途中で、太智は飛び上った。
「なんだどうした?」
「これこれ! これってバグウィルスのことじゃない?」
ディスプレイを指で弾き、太智に転送する。受け取った太智は、とても嫌そうな表情になった。
まるっきり信じていない顔だ。暫く眺めるとディスプレイに触れ、縦にスライドさせる。
太智は鼻で笑うと、ディスプレイを閉じた。
「ガセだろ。んなとこに巣食われてたら、物価がどうこう以前に、死人が出てんだろうが。そんなニュースは聞いてないぞ」
「でも、これから出るかもしれないじゃない。手掛かりがないんだから、行ってみてもいいんじゃない?」
渋る太智の手を引きながら、恵子は強引に彼を連れだした。
所詮2ch掲示板に書かれていることなんて、どこかのビッグマウスが流したガセネタだろう。または単なる妄想だ。
そんな情報を鵜呑みにする恵子もどうかしている。そんなに熱くなりすぎると、見つかるものも見つからないというのに。確かに、友人の意識が回復しないというのは精神的にも厳しいことだろう。だが、そればかりに囚われていると、周りが見えなくなってしまう。
そう思っている太智であるが、手掛かりがないのは確かだ。だから恵子を引き止める良い口実が見つからない。
だが、どうせガセネタだろう。行くだけ行って、現実を見れば恵子も少しは落ち着くだろう。
現に、ここは新富里総合病院のネットワークの中である。
ホームページ、看護士の個人パソコン、管理ネットワーク、医師の個人パソコン、これらのどこにも、違法に改変されたところは確認できなかった。
最初は自信満々だった恵子も、流石におかしいと感じ始め、あらゆる行動が遅くなり始めた。
「なんもみつからない……」
しょぼくれて、ため息のようにそう呟いた。
あらゆる医学知識や患者のカルテが保存されているデータバンクを調べ終えたが、特に変わっているところはなかった。
「諦めて情報収集しに行くか?」
手にしていた資料を閉じ、元の場所に戻す。
提案を聞いた恵子は落胆し、深いため息を吐いた。
「まだ、調べてないところはあるわ。次は、院長のパソコンを探しに行きましょう」
この期に及んで、まだ諦めないつもりだ。
今度は太智がため息をついた。
それもそのはず、新富里総合病院はその名前から想定したとおり、新富里市中最大の病院で、千葉県の中でも二、三位を争う規模なのである。総合病院の名は伊達ではない。
そして、そこの院長のパソコンとは、それはそれはぶ厚いセキュリティによって守られ、その頑固さは警察署のものに匹敵する。つまり、危険を伴ううえに面倒くさいのだ。
ガセネタだというのはもう、ほとんど決定したようなものだ。どこの誰とも分からぬホラ吹きにこれ以上振りまわされてたまるものか。太智は恵子を呼び止めた。
「恵子、いい加減にしろ。これはガセネタなんだよ、事実無根の大ウソ、これ以上は本当に時間の無駄だ。お前の気持ちはようくわかった。確実な情報を集めて、早急にデリートしよう」
恵子はじっ、と太智を見つめた。
太智も見つめ返す。視線を外そうとしない。
情報が二人の頭上で行き交う。微動だにしない二人。そこだけフリーズしたように、一切データが動かない。行き来しているのは、データで表せない瞳に込められた思念のみ。
先に視線を逸らしたのは、恵子だった。
「わかった……。でも、最後に院長のパソコンにハッキングして! お願い!」
太智は零しそうになった溜息を呑みこむと、仕方なく了承した。
ヘッドセットはなかなか面白い機能を有している。人の意識をネットに投影するのは勿論、バグウィルスの禍々しい容姿や、目の前に立ちはだかるこのセキュリティの物々しい壁。下手なデザイナーよりよっぽどセンスのあるデザイン性を持っていると言える。
ヘッドセットが脳に送り込んでくるセキュリティのイメージは、赤黒い、生物めいた気持ち悪い扉である。表面はしっとりと湿っていて、微妙に温度がある。扉の縁には先の鋭い牙のようなものが並んで生え、まるで大きく開いた、巨大なバグウィルスの口の前にいるようだ。
ヘッドセットは、その危険性を読み取り、形状が不確定のオブジェクトに合うイメージを作りだす。弱ければより弱々しく、強ければより荒々しく、といった具合にだ。
生物的なオブジェクトは、危険性が最も高いクラスに振り分けられる。並のダイバーなら、命惜しさに逃げだすだろう。だが、この二人、特に恵子にとっては、どうってことはないのだ。
ログインダイバーとなる前の恵子は、暇つぶし兼スリル満点の遊戯としてセキュリティレベル最大と呼ばれる政府サーバーに何度もハッキングを仕掛けていたのだ。勿論、書き換えたりすると世界中に迷惑がかかる為、何も手を付けず、ひたすら深く潜っていただけだが。
その恵子からすれば、総合病院程度のセキュリティを突破するなどパソコンのセッティングよりも簡単である。
太智と恵子が目で合図する。
生温かい扉に手を触れる。すると、扉の中央に細い切れ目が生まれ、上下に伸びていく。
それぞれが天井と床に達すると、重低音を響かせて扉が左右に開いた。その奥には、通常の青い回線とは色の異なった、黄色い回線が広がっていた。危険のカラーだ。
政府サーバーだと回線が赤で見えにくいのだが、ここは黄色い。おかげで警報を鳴らす体侵入者用レーダーが見え易い。しかも、その本数は少ない。
キーボードでは手間取る作業も、ヘッドセットで可視化したセキュリティの隙間に身を滑り込ませれば終わるのである。
運良くセキュリティホールを見つけたおかげで、想定以上に体力も時間も掛からず目的の院長パソコンに辿り着いた。
デスクトップ上からは何処にどんな違和感があるのかはわからない。疑わしい場所を優先的に捜索する。まずは院長専用のデータバンク。
入った途端、その違和感を二人が感じたのは同時だった。
ここ数ヶ月、アクセスした形跡が全くない。更に、保存されているデータのほとんどが文字化け、壊れていた。
古いパソコンから移動したわけでもないのに、こんなことが起きるとすれば、原因はただ一つ、バグウィルスである。
「いる……っぽいね」
「ああ、恵子がゴリ押ししなければ見落としてたぜ」
恵子は大刀を、太智はオートマグを抜いて慎重に歩きはじめた。
ここに入れる時点で、相当レベルの高いバグウィルスということは容易に想像できる。完全にレベル3以上だ。
《部屋》を作っている可能性が高いのだが、時々不意打ちに特化した進化をした種がいる場合があるので、時間は掛かるが慎重に進まざるを得ないのだ。
ゆっくり、三六〇度に注意を払いながら歩を進める。誰もいないはずの空間、動いたものが見えたらそれがおそらくバグウィルス。殺られる前に殺る。その精神でいなければならない。
緊張は体力を使う。せっかく温存していた体力も、周囲に注意するために使われる。サーバーや個人パソコンで恵子の索敵スキルが使えないのがその原因である。
太智のハッキングによる探索も同様である。
進んだ先に、小さなドームが見えてきた。データバンクの隅にポツン、とある。
今までにないパターンであるが、このドームの中が《部屋》であるとみていいだろう。ただの屑データなら何も起きない。《部屋》なら手をかざせば数秒後、自動的にアクセスされる。深呼吸を一回入れ、二人同時に手をかざす。
……約三秒後
太智と恵子の姿は掻き消えていた。