access 1-2
軽い浮遊感を経て、急に体の感覚が戻ってくる。
仮想世界がいいとは思わないが、こっちはこっちでいろいろと不便だと思う。まず体重があるのが嫌だ。体脂肪率やら体重やらを乗るだけで数値として表わすあの機械を使って一喜一憂するのはなかなか疲れる。だが、習慣というのはカレーうどんの汁よりも拭い難い。今日もきっとお風呂上りに乗ってしまうんだろうなあ。
……と考えているうちに、足の先まで感覚が戻ってきた。
指が動くのを確認して、頭に乗っている装置をゆっくりと外す。
正規の、元の影は見てとれない。半球体のカバーが取り除かれ、赤と青のコードがむき出しになった基盤と基盤を繋ぎ、更に部屋の隅にある八〇立方センチメートルほどの白い正方形の箱に繋がっている。
この箱は、個人PCでは容量が足りなくなったときにPCと接続し、容量を補うためのメモリーバンクである。恵子ら《ログインダイバー》にとっては必須アイテムである。
部屋の壁に立ててある鏡を覗き込むと、まだ――いや、本当に真っ赤な顔をしている。ずっと眺めていると、息苦しいことに気付いた。なにかこう、胸の中がもやもやするような、心臓のあたりが抑えられているような感じがする。
もう見ていられなくなり、目を引き剥がすように視線を外した。
すぐに何かを行動する気になれず、ベッドに飛び込んで枕に顔を伏せた。しかし、それで気が収まるはずもなく、足をバタバタとばたつかせる。
それでも落ち着かず、半機械化した机の上から携帯電話を手に取る。表示された時間は午後八時四〇分。朝からダイブしていたから、半日と四十分はダイブしていたことになる。
そう思った途端、お腹の虫が情けない声を上げた。……恵子は別の意味で顔を赤らめた。
「とりあえず…………なに食べようかな」
恵子は一人暮らしである。それも一軒家。五人から六人は普通に暮らせる広さだ。
一人では持て余す家に最初は戸惑ったものの、半年も暮らしたら十二分に慣れたものだ。むしろログインダイバーとなった今では一人でよかったと思う。でなければ今頃大容量メモリーバンクの持ち込みやヘッドセットの改造など流石に黙っていないだろう。だが、一人暮らしのダイバーなりに苦労はある。例えば食事や食事や食事などだ。
ダイバー、特にログインダイバーとなったものは下手をすると一日以上ダイブしてしまうことがしばしばあるのだ。
今日の恵子は半日のダイブだが、慣れたとはいえ戦闘を行ったり、……ちょっと慣れないことがあったりで精神的に疲れていた。
台所を漁ってみるが、カップラーメンや焼きそばが見当たらない。そういえば一昨日ぐらいに最後の味噌ラーメンを食べた記憶がある。
仕方なく冷蔵庫に顔を突っ込む。ひんやりとした冷気が顔を包むが、それ以上に冷蔵庫の中はさみしかった。残りわずかなイチゴジャムと、ミネラルウォーターが二、三本転がっているだけ。
正直動きたくないのだが、食べないのは健康に悪い。不健康は仮想世界にも影響が出るのであまりよろしくない。
「食べないからって痩せるわけでもないし……」
ぼそりと独り言をつぶやく。
無駄な肉が少ない、なかなかに引き締まった四肢は太っている部類には到底見えない。事実痩せている方だ。それでも彼女が「痩せる」と口にするのは、ストン、と視線を落として分かるように、特別な下着を必要としない、正直シャツ一枚でも……と思ってしまうほど胸部の盛り上がりが残念だからである。
その問題の胸部をちらっと見て、すぐに目をそらす。
扉を開けると、夏特有の微妙に生温い風が家に侵入してくる。恵子は外に出ると同時にそれ以上の夜風の進入を拒み、更に空き巣予防に鍵をかける。電子と指紋による二重ロックだからそう簡単に開けられないだろう。……一応改造してハッキング防止も組み込んである。十分やそこらでは到底不可能だ。
自転車のロックを解除して、道路が鈍く発行する道路に躍り出る。
家から自転車で三分も漕げば二十四時間営業のコンビニエンスストアが見えてくる。ずいぶん古くからあるコンビニで、『七・十一』という。読みは『ななてんじゅういち』。新千葉県富里市はハイテク都市とは言えないが、まんざら古いわけでもない。なのにここだけは昔の日本といった感じがする。
いまどき自動ドアではない。押し開けた時に聞こえる「いらっしゃいませ」の声は無機質なロボットのものではなく、温かい人間の声だ。恵子はこの店のこういうところが好きである。
カゴを一つ取って、店内を回る。
――明日の朝ごはんと牛乳も買っておこう。
そう思っていながら、足は自然とスイーツ類の並ぶ棚へと向かってしまう。
買うでもなく手に取ったイチゴのムースは、赤と白のコントラストが鮮やかでさらに、イチゴが大きくて甘そうだ。
値段を見ると――
「なっ……!」
咄嗟に口を押さえ、辺りを見渡す。幸い、誰も恵子の声を聞いていないようだ。
「一〇〇万円だと…………?」
イチゴのムース。普通の値段は三九八円程度だ。だが、この値段はどうしたことか。知らないうちにイチゴの稀少値が上がりでもしたのか。そもそもこんな無茶苦茶な値段のラベルを真面目にはる従業員はどういう人なのだろう。
いやいや、そうじゃないだろう。と阿呆な考えを打ち切る。間違いなくバグウィルスの仕業だ。それもちょうど恵子たちが追っているレベル4以上の。
一〇〇万円のイチゴムースを棚に戻しながら頭を切り替える。
――とりあえず、今は腹ごしらえが先だろう。腹が減ってはなんとやらやってね。
夏休みとはいえ、睡眠を怠る――夜通しでダイブをするのは、褒められたものではない。だが、彼女は平気でそれをする。
体力をつけるため、カツ丼や塩カルビ焼きそばというボリューム満点の商品が並ぶ棚に来た恵子は、絶句した。
カツ丼――六五万円。
牛丼――五〇万円。
総平均――約五五万円。
恐る恐る手に取ってレジの人に聞いてみると、
「ああ。これは何かしらのバグが原因だというので、貼りかえずに並べておりますが、レジにお持ちになれば通常のお値段でご購入できます」
という答えが返ってきた。
当然か、と少しとはいえパニックに陥っていた恵子はカツ丼を二つ、躊躇うことなく持っていった。
痩せるだのなんだの言っていた割には、あっさりと高カロリーなものを選んだ。
女としての生活を優先するか、ログインダイブ後のハンターとしての修羅を選ぶかと聞かれれば、恵子は迷わずハンターと答えるだろう。
「お箸は二膳でよろしいですか?」と言いながら割り箸を二膳袋へいれようとする店員に、恵子は
「いや、ひとつでいいです」
と返したものだから、店員はやや不審げな視線を一瞬向けた。だが、その後は何事もなかったかのような仕草でお釣りを数え、恵子を送り出した。
自転車にまたがり、急ぎ足で家に帰ると、電子レンジにカツ丼二つを突っ込み、タイマーを設定した。電子レンジが温まり始めるよりも速く恵子は駆けると、髪を留めていたゴムを取り着ていた衣服・下着から白い肌を抜き、抜け殻となったそれらを洗濯機に放り込んでバスルームに飛び込んだ。
ザ――――、と熱湯が降り注ぎ、バスルームが湯気に包まれる。自転車を漕いだあとの汗がお湯と共に流れるのが心地よい。
体を包む湯気とお湯が体を火照らせる。余計なことまで流して蒸発してくれそうだ。
急いでいるゆえ、鴉の行水の如く頭体を洗うと、新しいバスタオルで体を伝う水滴を拭う。髪から水が滴らなくなる程度まで乾かすと、一糸纏わぬ姿で体重計に乗る。
「………………」
今回は残念な方だった。――恵子も一人の女性ということを配慮して、体重を伏せることにする。
手早く寝間着を着ると、十分温まったカツ丼を複雑な気持ちで睨みつけた。
やがておなかの虫が、出掛けに鳴いたのと同じ声をもう一度発した。それと同時に意を決し、プラスチック製の蓋をはねのける。
バスルームの湯気に負けずとも劣らぬような湯気が立ち上り、恵子の顔を襲う。脂っこい湯気に、思わず顔を避けてしまう。
しばらくカツ丼から立ち上る湯気に自由演技をさせてから、ちょうど良い温かさになったカツ丼を頬張る。
噛み締める度に溢れる肉汁に頬が落ちそうになりながらも、心の奥の方では抑え込んだ《痩せる》という願望がばたばた暴れていた。
食べ終えたプラスチック容器をゴミ箱に放った頃には、時計の短針が九と長針が二を指していた。
仮想世界での寝オチや夜明かし……などは関係なく、洗面台から歯ブラシと歯磨き粉を取って、そろそろ買い替え時かな……と思いつつ口に銜えた。
長針が四になるかならないかの内にダイブしよう、と考えつつ電源をつけっぱなしにしていたパソコンのスリープモードを解除する。つい癖でヘッドセットを被ろうとしてしまったが、今ログインしたら口から涎と歯磨き粉の混合液が垂れてログアウトした時に大変なことになってしまう、と気付き、それをベッドの上に壊さぬよう、そっと置いた。
半分を機械に占領された机の上で埃をかぶっているキーボードに触れる。仮想世界でホロキーボードは使っていたが、現実のこれを使うのは久しぶりだ。だが、今さっき言ったとおり、仮想世界でもホロキーボードを使っていたので、小学校の頃からの腕は落ちていない。左手で歯ブラシを前後左右に動かしながら、右手でパスワードを入力する。
一秒足らずの読み込みを経て、真っ青な背景に幾多のアイコンが並ぶデスクトップがディスプレイいっぱいに表示される。その中の一つをダブルクリックすると、すぐにウィンドウが開かれて大規模検索サイトに繋がった。恵子には珍しく、ハッキングでなく普通に検索をするようだ。
検索ワードは、『仮想世界を潜る者たちの隠れ家』。…………隠れ家と堂々と言っている時点で、もはや隠れ家とは言えないが、この掲示板は通常ハッカーやダイバー、ログインダイバーまで集まるので、情報交換にはもってこいな場所である。……チャットの方もあるのだが、ダイバーたちがダイブして話しまくっているのでディスプレイ越しで見ると次々に言葉が重ねられて、高速で文字が流れていく。なので今の恵子からすると、とてもじゃないが――ただ単に面倒くさいというのもある――掲示板で有力な情報を手に入れる方が確実なのだ。それでも有力な情報、今恵子たちが追っている、世界の経済を幼稚な悪戯のようなもので狂わそうとしているバグウィルスのことは、噂やリアルでの出来事が多く、特に良い情報といえるものはなかった。
ウィンドウを閉じると、恵子は口を濯ぎに洗面所へ向かい、口中の液体を吐き出す。念入りに口を濯ぐと、その足で冷蔵庫に向かい、ミネラルウォーターを一本抱えて自室へ戻った。
喉を潤した後、ベッドに寝転がってヘッドセットを装着する。
ダイブ中に外れたらどうなるんだろう、と思いながらヘッドセットを固定するベルトをしっかり締める。下に空いた僅かな隙間から電気の明かりが侵入してくる。恵子は手探りで電灯のリモコンを見つけ出し、灯りを消した。
そのまま寝てしまいそうになるが、意識が遠退こうとする前に恵子の口が動き、
「ヘッドセット起動」
と命ずる。
音声を認識したヘッドセットが軽い起動音を出してランプが点灯する。一瞬スタンバイ状態を表す赤になり、起動中を表す緑に変わる。
その時恵子は、明滅する空間を自由落下していた。落下していると言っても、それは意識だけであり、落ちているうちに彼女の思考をヘッドセットが読み取り、アバターを意識に定着させて形作っていく。
アバターが完成すると、体の感覚が現実世界の肉体から仮想世界の仮想体へ足、腰、胸……そして頭へと移っていく。
自由落下――ダイブの速さがゆっくりになると、今度は目の前に見慣れた警告板が現れた。
『ログインしますか?』
『YES/NO』
それだけ表示された無機質な看板。恵子は現れるや否や『YES』の文字に触れる。と、ウィンドウが閉じた。さっきのダイブ時と比にならないような、電撃が体中に走るような感覚がしてから、体中が分解されて引きずり込まれるような……否、引きずり込まれた。
恵子はもう流石に慣れてきているが、体が引きずり込まれるあの感覚だけはどうにかしたいものなのだ。