帝国公爵令嬢は辺境子爵に嫁ぎたい~剣の天才は、恋する令嬢の魔法に気づかない~
セシリア・フォン・エーレンフェルトが、人生で初めて本気で結婚したいと思った相手は、帝国の大貴族でも、名高い将軍でもなかった。
アルヴェリア王国の北の端で、雪の降る季節には道が閉ざされることもあるという、小さな子爵領の跡取りだった。
しかも、その青年は彼女がどれほど勇気を振り絞って好意を伝えても、なかなか気づいてくれなかった。
後年、子どもたちに馴れ初めを尋ねられるたび、セシリアは微笑んでこう答えることになる。
「お父様はね、剣のことなら何でも分かるのに、恋のこととなると、驚くほど鈍かったのよ」
けれど、そこに至るまでには、少しばかり長い話がある。
*
帝都の春は、窓を開けるにはまだ冷たかった。
公爵邸の三階。磨き上げられた大理石の床に朝日が差し込み、薄い金色の帯を作っている。セシリアはその帯の端に立ち、机の上に並べられた三通の書状を眺めていた。
いずれも縁談に関するものだった。
「一人目は財務卿の甥。二人目は西部軍の若い将校。三人目は……お父様のお仕事のお相手、ですわね」
セシリアは最後の封筒を裏返した。豪奢な紋章が、朝日にきらりと光る。
「三人とも、わたくしの好きなものを一つもご存じないのに」
侍女のヘルタは、結い上げる途中の淡い金髪から櫛を離した。
「お嬢様のお好きなものは、少々、殿方には難しゅうございますから」
「そんなことありませんわ。術式の安定性についてお話しするだけですもの」
「先日の伯爵令息は、三十分で顔色を失われました」
「だって、火炎術式の出力と燃焼効率を混同なさるのです。危険でしょう?」
「普通はお茶会で爆発の危険性を論じません」
ヘルタは容赦がなかった。幼い頃から仕えてくれている彼女の率直さを、セシリアは嫌いではない。
セシリアはヴァルディア帝国の公爵家に生まれた四女だった。姉たちはそれぞれ、家にふさわしい婚姻を結んでいる。彼女にも当然、同じ道が用意されていた。
それが不幸だと決めつけるつもりはない。姉たちはそれぞれの場所で幸福を築いている。ただ、自分も同じ形の幸福を望むかと問われれば、答えに迷う。
幼い頃、初めて水の術式を成功させた日を覚えている。指先に浮いた小さな水球は、宝石よりも美しかった。誰かに褒められたからではない。自分の知らない世界が、目の前に開いたからだ。
それ以来、魔法を学ぶことは彼女の喜びになった。
けれど最近、教師たちは決まって言う。
『公爵令嬢としては、もう十分な腕前でございます』
十分とは、何に対してだろう。結婚するために必要な腕前なら、ずいぶん前に超えているらしい。けれど、学びたいことはまだ山ほどある。
「お嬢様。本日の午後は、お父上がお呼びです。王国との親善行事について、お話があるそうで」
「親善行事?」
「帝国の剣聖様もお出ましになるとか」
「ラインハルト様が?」
セシリアは顔を上げた。
帝国剣聖ラインハルト・フォン・アイゼンヴァルト。その名は、魔法を専門とする彼女でもよく知っている。帝国随一の剣士でありながら、気取らず豪快で、剣の話を始めると日が暮れるという人物だ。
「王国からも剣の名手が招かれるそうです」
「まあ。どなたかしら」
「そこまでは存じませんが……お嬢様、どうか今回こそ、初対面の殿方に魔力循環の欠点を指摘なさいませんように」
「約束はできませんわ」
ヘルタが深いため息をついた。
*
親善行事は、帝都の離宮を会場に三日間にわたって催された。
帝国とアルヴェリア王国は、互いに警戒を怠らない隣国だった。それでも国境の交易は続き、北方の魔物への対処では情報を分け合うこともある。戦わずに済む理由を一つずつ増やすための、華やかで、どこか緊張した宴だった。
初日の舞踏会。大広間には何百もの灯がともり、弦楽器の音が高い天井に柔らかく反響していた。
セシリアは淡い青のドレスをまとい、父に付き添って来賓へ挨拶して回った。父は有能な外交家だったが、娘の将来については、まるで帳簿の数字を揃えるように考える癖がある。
「今夜は王国の貴族とも話しておきなさい。人脈は財産だ」
「承知しております、お父様」
「それから、帝国の若い伯爵も来ている。先日の返事はまだ保留にしてある」
「……承知しております」
二度目の返事は、少しだけ小さくなった。
父が別の客に呼ばれた隙に、セシリアは壁際の卓へ逃げた。果実水の杯を手に取る。冷たい雫が指先を伝った。
「逃げ足はなかなかだな」
背後から声がした。
振り向くと、赤みを帯びた髪を後ろへ撫でつけた大柄な男性が立っていた。剣聖ラインハルトである。
「ラインハルト様。ご機嫌よう」
「堅苦しい挨拶はいい。さっきから見ていたが、ずいぶん疲れた顔をしている」
「外交は、魔法の訓練より疲れますの」
「ははっ、違いない。ところで、面白い男を紹介してやろう」
「また縁談ですの?」
「いや、剣の話だ」
それならば、とセシリアが杯を置いたとき、ラインハルトは人波の向こうへ手を振った。
「グレゴール! こっちだ!」
やって来たのは、濃い茶色の髪をした青年だった。派手な装飾のない濃紺の礼服を着ている。背筋は真っすぐだが、宮廷に慣れた貴族特有の、周囲へ自分を大きく見せようとする気配がない。
「何でしょう、ラインハルト殿。先ほどの試合についてなら、もう十分に話したはずですが」
「お前は三十分話しただけで十分と言う。俺はまだ半分も話していない」
「残りは明日の朝にしましょう。今日は親善の宴です」
「おいおい。剣の話こそ立派な親善だろう」
二人のやり取りは、長年の友人同士のように自然だった。
「セシリア嬢。こちらはアルヴェリア王国のグレゴール・リーヴェルト。北方の子爵家の跡取りだ。こいつは剣が強い。腹が立つほど強い」
「その紹介は誤解を招きます」
「今日、俺と引き分けた男が何を言う」
セシリアは思わず青年を見つめた。
「ラインハルト様と……引き分け?」
「模擬戦です。勝敗がつかなかっただけですよ」
グレゴールはまるで、庭の散歩が長引いたことを報告するように言った。
剣聖と引き分ける。それがどれほど異例のことか、彼は分かっているのだろうか。
「グレゴール・リーヴェルトと申します。お目にかかれて光栄です、セシリア様」
「セシリア・フォン・エーレンフェルトですわ。こちらこそ」
礼を返したとき、彼の袖口に細い焦げ跡があるのに気づいた。
「その袖は、どうなさいましたの?」
「ああ。模擬戦のあと、訓練場の魔導灯が不調で。修理を手伝ったら、少し」
「魔導灯を?」
「私は魔法には詳しくないのですが、固定具を外すくらいならできますから」
セシリアの関心が、瞬く間に別の方向へ向いた。
「不調というのは、光量の変動ですか。それとも魔力の逆流?」
「両方だったようです」
「それでしたら、供給側の調整だけでは再発しますわ。古い灯具は、内部の循環路が摩耗すると――」
そこで、はっとした。ヘルタの忠告が脳裏をよぎる。
「……失礼いたしました。つい、魔法の話になると」
「いえ。続けてください」
「え?」
「私には分からない部分もありますが、修理に来た技師も同じようなことを言っていました。あのとき、もっと聞いておけばよかった」
グレゴールは真剣だった。彼女の知識を、社交の飾りとして褒めるのではなく、役立つものとして受け止めている。
「……お聞きになりたいのですか?」
「もちろんです。領地にも古い魔導灯が多いので」
セシリアは、気づけば笑っていた。
それから十分ほど、二人は魔導灯の構造について話した。彼は専門用語をすべて理解したわけではない。それでも分からないところでは質問し、領民の暮らしにどう役立つかを考えていた。
ラインハルトは途中から口を挟まず、ひどく愉快そうに眺めていた。
「……なるほど。冬場の故障が多いのは、温度差のせいもあるのですね」
「ええ。特に北方では、結露による術式板の劣化に注意が必要ですわ」
「帰ったら職人に相談してみます。ありがとうございます」
その素直な礼が、なぜだか胸に残った。
「お前たち、すっかり意気投合したな」
ラインハルトが口を挟む。
「グレゴール、セシリア嬢は帝国でも指折りの魔法の使い手だぞ」
「そうなのですか。道理で説明が分かりやすい」
「……説明が?」
「はい。私のような門外漢にも、仕組みを順序立てて話してくださる」
セシリアは少し困った。
魔法が上手だと褒められることはあった。美しい、優雅だと言われたこともある。けれど、自分の説明が分かりやすいと喜ばれたのは、初めてかもしれない。
舞踏会の音楽が変わった。周囲で男女が踊り始める。
グレゴールは窓の外に目を向けた。
「帝都の夜景は美しいですね。私の領地では、こんなに灯が並ぶことはありません」
「寂しくはありませんの?」
「いいえ。冬は星がよく見えます。森の向こうの山まで、月明かりで白くなる夜もある」
言葉を選びながら語る横顔が、ふと柔らかくなった。
「私は、ああいう場所で暮らせれば十分です」
セシリアは窓の外の無数の灯を見た。
これまで、自分が住む場所を選ぶという発想はなかった。嫁ぐ先は家が決める。そこがどんな場所でも、ふさわしく振る舞うのが務めだと思っていた。
けれど彼は、雪の森と星の見える空を、自分の言葉で好きだと言う。
「……いつか、見てみたいですわ」
「白銀の森ですか?」
「ええ」
「機会があれば、ぜひ。春は若葉が美しいですよ」
それは誰にでも言う親切な招待だったのだろう。
セシリアには、少し特別に聞こえた。
*
翌朝、セシリアは普段より早く目を覚ました。
朝食の席で姉に「昨夜は楽しそうだったわね」と言われ、慌てて紅茶を飲み込む。
「何のことでしょう」
「王国の青年と、ずいぶん長く話していたでしょう。お父様も気にしていたわ」
「魔導灯についてですわ」
「まあ。舞踏会で?」
「……ええ」
姉は笑った。セシリアは耳が熱くなるのを感じた。
その日の親善行事では、剣術の公開演武と魔法技術の展示が予定されていた。セシリアは展示側の説明役を任されている。
会場の庭園には仮設の術式台が並び、王国と帝国の技師たちがそれぞれの研究成果を紹介していた。セシリアの担当は、魔力消費を抑えた水の浄化術式である。
説明を終えたところへ、グレゴールがやって来た。
「昨日のお話が気になって。こちらも拝見してよろしいですか」
「もちろんですわ!」
思った以上に大きな声が出た。近くにいた技師が振り返る。
セシリアは咳払いして、術式板へ手をかざした。
「こちらは、汚れを含んだ水から不純物を分離する仕組みです。大規模な設備には向きませんが、村の共同井戸などであれば――」
淡い青の光が水槽を包む。濁った水がゆっくり澄み、底に細かな沈殿物が集まった。
「素晴らしい」
グレゴールは即座に言った。
「これなら北の村でも使えそうです。冬は井戸の管理が難しいので」
「でしたら、寒冷地用に術式を少し変えた方がよいですわ。凍結したときの負荷が――」
また話し始めそうになり、セシリアは自分で笑ってしまった。
「わたくし、また長くなってしまいますわね」
「構いません。私は聞く方が好きです」
さらりと言われた言葉に、胸が跳ねた。
「……そうですの」
「はい」
彼は少しも気づいていない。
セシリアは術式板を握り直した。相手の魔力の揺らぎなら、目を閉じていても感じ取れる自信がある。なのに、自分の胸の内に起こるこの奇妙な乱れを、どう制御すればよいのか分からなかった。
その午後、公開演武が行われた。
ラインハルトとグレゴールの模擬戦は、昨日の非公開試合を見られなかった人々の強い希望で組まれたという。
セシリアは観客席の前列に座った。
開始の合図とともに、木剣が交わった。
最初の一撃で、彼女は息をのんだ。
速い。けれど、ただ速いのではない。ラインハルトの重い踏み込みを、グレゴールはほんの半歩で外す。木剣が風を裂き、返す刃が相手の肩先へ走る。
剣聖が笑った。
「いいぞ!」
「まだ始まったばかりです!」
二人の動きは、激しいのに無駄がなかった。魔法を学ぶ者として、セシリアにはその正確さがよく分かる。術式も剣も、余計な力を削ぎ落とすほど本質が見える。
やがて二人の木剣が同時に相手の急所の手前で止まった。
引き分け。
歓声が庭園を揺らす。
グレゴールは剣を下ろし、先に頭を下げた。ラインハルトは肩を叩き、何か楽しげに言っている。
セシリアは、自分が拍手するのも忘れていたことに気づいた。
その夜、ラインハルトに会うと、彼は開口一番こう言った。
「どうだ。あいつは変わった男だろう」
「……ええ。少し」
「剣ではあれほど鋭いくせに、ほかのことには妙に疎い」
「そうなのですか」
「例えば、誰かが自分に会うためにわざわざ展示会場へ来たとしても、技術に興味があるだけだと思うだろうな」
「な、何をおっしゃるのです!」
「俺はまだ、誰の話とも言っていないぞ」
ラインハルトは声を上げて笑った。
セシリアは、帝国の剣聖がこんなに意地悪な人だったとは知らなかった。
*
三日目、親善行事の一行は北方の交易路へ向かった。
王国との協力で整備が進む街道を視察し、国境近くの村で住民の話を聞く予定だった。グレゴールは王国側の案内役として同行し、ラインハルトは帝国側の護衛のまとめ役を務める。
セシリアも魔法設備の視察を名目に参加を許された。
父は渋い顔をした。
「お前が行く必要はあるのか」
「浄化術式の寒冷地での運用を確かめたいのです。机上の計算だけでは不十分ですわ」
「……それだけか?」
「もちろんです」
嘘ではない。少なくとも、半分は。
馬車が帝都を離れると、石造りの建物は次第に低くなり、畑と林が広がった。遠くに雪を残した山々が見える。空気は冷たいが、木々の芽には春の気配があった。
セシリアは窓から景色を眺めながら、胸の高鳴りを隠そうとした。
隣に座るヘルタが小声で言う。
「お嬢様。窓の外に、そんなに珍しいものが?」
「山が美しいのです」
「先ほどから、王国の騎馬隊が通るたびにご覧になっていますが」
「……山の向こうを見ているのです」
「さようでございますか」
ヘルタの声には、明らかに笑いが混じっていた。
昼過ぎ、一行は王国側の北方街道へ入った。
白銀の森は、名前ほど白一色ではなかった。細い銀色の樹皮を持つ木々が陽光を反射し、芽吹いた若葉が淡い緑の霞を作っている。森の奥にはまだ雪が残り、溶けた水が小川を走っていた。
「本当に、銀色に見えますのね」
セシリアがつぶやくと、馬車の脇を進んでいたグレゴールが顔を向けた。
「気に入っていただけましたか」
「ええ。想像していたより、ずっと美しいですわ」
「冬はまた違う景色になります。雪が積もると、木の枝まで白くなって」
「では、冬にも見に来なくては」
「道が悪くなりますから、旅は大変ですよ」
「それでも、見たいのです」
彼は少し考え、穏やかにうなずいた。
「でしたら、雪が深くなる前がいいでしょう」
――そうではありませんの。
セシリアは心の中でつぶやいた。
冬にもう一度会いたい、と言ったつもりだったのに。彼は旅程の相談を始めてしまった。
けれど、その真面目さがおかしくて、嫌いにはなれない。
森の中ほどで、馬車の列が止まった。
前方の橋が破損しているという。小さな谷を渡る木橋で、欄干の一部が落ち、車輪を通すには危険な状態だった。
グレゴールは馬から降り、橋を調べた。
「新しい傷ですね。昨夜の雨だけでは、こうはならない」
ラインハルトもしゃがみ込み、木材の断面を指でなぞる。
「刃物の跡がある。妙だな」
セシリアは馬車を降り、周囲の魔力を探った。
森の奥から、かすかな違和感が流れてくる。水の術式に混じったような、ひどく不規則な揺れ。
「グレゴール様。少し、お待ちください」
「何か?」
「森の奥に、魔力の乱れがあります。自然のものではありません」
言い終えるより早く、茂みが激しく揺れた。
灰色の魔狼が飛び出してくる。続いて二頭、三頭。通常より大きな体躯を持ち、目には赤い光が宿っていた。
護衛が剣を抜く。
「馬車を下がらせろ!」
ラインハルトの声が響いた。
セシリアは即座に水の術式を展開する。地面の湿り気を集め、細い水の帯を狼たちの前に走らせた。足元を絡め取られた一頭が転ぶ。
グレゴールはその隙に前へ出た。
剣が閃く。動きは公開演武のときよりもずっと静かだった。獣の爪を受け流し、首元へ正確に刃を運ぶ。危険な一撃を避けながら、護衛たちが立て直す時間を作っていく。
「セシリア様、後ろへ!」
「わたくしも戦えます!」
「存じています。ですが、まず馬車の方々を守ってください」
その言葉に、セシリアは一瞬、目を見開いた。
下がれ、ではない。守ってほしい、と頼まれたのだ。
「……承知いたしました!」
彼女は馬車の周囲に風の壁を作り、魔狼の跳躍を鈍らせた。護衛の負傷者を水の術式で洗い、出血を抑える。
戦いは長くは続かなかった。
だが、最後の一頭が倒れたあとも、グレゴールは剣を納めなかった。
「……誰かが、ここへ追い込んだようですね」
森の奥に、低い金属音が響いた。
ラインハルトが顔を上げる。
「人がいるな」
セシリアも感じていた。魔力の乱れは、魔狼のものではない。もっと奥から、細い糸のように伸びている。
「誘導用の魔導具かもしれません」
「調べられますか」
「ええ。ただし、近づかなければ」
グレゴールはすぐに答えた。
「私が同行します」
ラインハルトは護衛隊を見回した。
「俺はここを守る。二人で行け。ただし、無茶はするなよ」
「分かっています」
「特にグレゴール。お前は自分の無茶に気づかん」
「……それは、ラインハルト殿に言われたくありません」
緊迫した場面なのに、セシリアは思わず笑ってしまった。
*
森の奥は、街道よりもずっと静かだった。
湿った土が靴底に柔らかく沈む。木の枝から落ちる水滴が、葉を叩いて小さな音を立てる。セシリアは片手に淡い光球を浮かべ、魔力の流れを追った。
グレゴールは半歩前を歩いていた。
「足元にお気をつけください。ここは根が多い」
「ありがとうございます。でも、野外訓練には慣れておりますのよ」
「それは頼もしい」
「意外でした?」
「少し。ですが、先ほどの魔法を見れば納得です」
セシリアは横顔を見上げた。
「わたくしの魔法、どう思われました?」
「的確でした。護衛が動く場所を残して、狼の足だけを止めていた」
「……そこまでご覧になっていたのですね」
「戦場では、味方の動きを見ないと危険ですから」
彼は当たり前のように答えた。
その当たり前が、嬉しかった。強い魔法を見て褒めるのではなく、彼女が何を考えて術式を組んだかを見てくれている。
「グレゴール様は、どのような方がお好きなのですか?」
質問は、気づけば口からこぼれていた。
彼は立ち止まった。
「……どのような方、とは?」
「その……将来、お傍にいてほしいと思われる女性です」
グレゴールはしばらく真剣に考えた。
「一緒に食事を楽しめて、無理に自分を飾らずに済む方でしょうか」
「それでしたら、わたくしはいかがでしょう?」
「セシリア様は、食事の作法も完璧ですからね」
「……そういう意味ではありませんわ」
「違いましたか?」
「ええ、少し」
彼は困ったように眉を寄せた。
セシリアは笑いをこらえた。ここまで来ると、鈍感さも一つの才能ではないだろうか。
そのとき、彼女の光球が揺れた。
「……見つけました」
倒木の根元に、掌ほどの黒い金属板が埋め込まれていた。表面には細い溝が走り、赤黒い魔力が脈打っている。
「魔狼を引き寄せる誘導具です。しかも、かなり乱暴な術式……」
セシリアはしゃがみ込み、術式を読む。
獣の感覚を刺激し、恐怖と怒りを増幅する仕組みだった。魔物を操るというより、苦痛を与えて進行方向を変える装置に近い。
「ひどいことを」
思わず声が低くなる。
「解除できますか」
「できます。ただ、無理に壊せば周囲に魔力が散ります。獣がさらに集まるかもしれません」
「では、時間をかけましょう」
「危険ですわ。誰が仕掛けたかも分かりません」
「だからこそ、放置できません」
彼は剣を握り直し、周囲を見渡した。
「あなたが解除する間、私が守ります」
その声には、少しの気負いもなかった。
セシリアはうなずいた。
魔力を細く伸ばし、金属板の循環路へ差し込む。赤黒い光が指先へ絡みつこうとした。セシリアは水の術式で流れを包み、逆流を防ぐ。
一つ、二つ、三つ。
結び目をほどくように、術式の接続を切っていく。
背後で枝が折れた。
「そのまま続けてください」
グレゴールの声。次いで、剣が風を切る音。
セシリアは振り向かなかった。彼が守ると言ったからだ。ならば、自分は解除をやり遂げる。
最後の接続が外れた瞬間、金属板の光が消えた。
「終わりました!」
振り返ると、グレゴールは新たに現れた魔狼を二頭、すでに退けていた。肩口の布が少し裂けている。
「お怪我は?」
「かすり傷です」
「見せてくださいませ」
「この程度なら――」
「見せてください」
セシリアが一歩近づくと、彼はおとなしく腕を差し出した。
傷は浅かった。彼女は水で洗い、簡単な治癒補助の術式を施した。
「ありがとうございます」
「わたくしこそ。信じて任せてくださって、嬉しかったです」
「あなたならできると思いましたから」
また、胸の奥が熱くなる。
帝国の公爵令嬢だからでも、魔法の才能を褒められたからでもない。ただ、自分という人間を信じてもらえた。
彼の肩に残った小さな傷跡を見ながら、セシリアは思った。
この人の隣に立ちたい。
守られるだけでも、守るだけでもなく、同じ景色を見て、同じ問題を考えて、共に歩きたい。
その願いは、初めて見る術式のように鮮やかで、恐ろしいほど確かなものだった。
*
街道へ戻ると、橋の修復が始まっていた。
魔狼に襲われた村人たちも、近くの避難所へ集められている。幸い命を落とした者はいなかったが、子どもが一人、震えながら母親の腕にしがみついていた。
グレゴールは膝を折り、その子と目線を合わせた。
「怖かったな。もう大丈夫だ」
「……おおかみ、また来る?」
「来ないように見張るよ。もし来ても、今度はもっと早く気づけるようにする」
「ほんと?」
「ああ。約束する」
大げさな言葉ではなかった。できないことを軽々しく誓わず、できることを一つずつ積み重ねようとする声だった。
セシリアは少し離れた場所から、その姿を見ていた。
彼は剣聖と互角に戦う力を持っている。けれど、その強さを見せつけるためには使わない。怖がる子どもが安心して眠れるように、村人が明日も井戸の水を汲めるように、必要なときに剣を抜く。
ラインハルトが隣へ来た。
「どうだ。あいつの領地は、地味だろう」
「……ええ」
「退屈か?」
「いいえ。とても、素敵ですわ」
剣聖は満足そうに笑った。
「そうか」
夕方、グレゴールが橋の修復を手伝う姿を見て、セシリアは思い切って声をかけた。
「グレゴール様。わたくしもお手伝いします」
「ですが、お疲れでしょう」
「わたくしの魔法は、こういうときのためにあるのです」
彼女は水の術式で濡れた木材を乾かし、風で細かな木屑を払い、作業する人々の足場を整えた。
グレゴールは感心したように言った。
「本当に器用ですね」
「もっと上手な方はいらっしゃいますわ」
「そうなのですか」
「ええ。わたくしの知らないことは、まだたくさん」
「それは楽しみですね」
「……楽しみ?」
「これから学べることが、たくさんあるということでしょう」
セシリアは言葉を失った。
自分がいつも感じていたことを、こんなに簡単に言葉にしてくれる人がいるなんて。
夜、宿営地に灯がともった。村人たちが持ち寄った温かなスープの匂いが漂う。セシリアはグレゴールと並んで木の椅子に座り、粗末だが美味しい食事をいただいた。
「こういう食事も、お嫌いではありませんか」
「大好きですわ」
「よかった」
「……グレゴール様」
「はい」
「わたくしと一緒にいると、気を遣われますか?」
彼は少し考えた。
「いいえ。不思議と、話しやすいです」
セシリアはスプーンを落としかけた。
それは先ほど彼が語った、将来傍にいてほしい女性の条件ではなかったか。
「それでは……」
「それに、魔法の話を聞いていると勉強になります」
「……そうですわね」
彼は微笑んだ。
セシリアは心の中で、帝国のどんな難解な術式より、この人の心を理解する方が難しいかもしれないと思った。
*
事件の調査で、魔狼誘導具は交易路の混乱を狙った何者かによって仕掛けられた可能性が高いと分かった。
装置には製造者を特定できる印がなく、犯人も見つからなかった。帝国と王国の担当者は、互いを疑うより先に証拠を共有し、周辺の街道を点検することで合意した。
セシリアは解除した装置の構造を報告書にまとめた。グレゴールは村人の証言を集め、危険箇所を地図に記した。ラインハルトは護衛の配置を見直し、夜遅くまで現場に残った。
誰か一人が英雄になって終わる事件ではなかった。
だからこそ、セシリアはこの数日を忘れられないと思った。
帝都へ戻る日の朝、グレゴールは街道の分岐で見送りに来ていた。
「セシリア様。今回のご協力、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。とても勉強になりましたわ」
「また機会があれば、ぜひ北へ」
「……お招きいただけますの?」
「もちろん。父も母も、魔法に詳しい方を歓迎すると思います」
「お母様も魔法を?」
「ええ。私より、ずっと」
「どの程度の腕前でいらっしゃるのですか?」
「私は詳しくありませんが、母が少し手を動かすだけで、屋敷の灯も庭の水路も調子がよくなるんです」
セシリアは目を輝かせた。
「まあ。ぜひお会いしたいですわ」
「母も喜ぶでしょう」
グレゴールは何気なく答えた。
セシリアは、心の中でそっと決めた。
必ず、もう一度この人に会いに来よう。
馬車が動き始めると、彼は道端で手を振った。
姿が見えなくなるまで、セシリアは窓から離れられなかった。
ヘルタが隣で言う。
「お嬢様。山の景色は、もう見えませんよ」
「……分かっております」
「では、何をご覧に?」
「未来ですわ」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
*
帝都へ戻ると、現実は待ってくれなかった。
公爵家の応接室には、以前より立派な封筒が並んでいた。父はそのうちの一通を持ち上げ、満足そうに言った。
「北方視察の報告は聞いた。よく働いたようだな」
「ありがとうございます」
「だが、いつまでも魔法研究だけをしているわけにはいかん。こちらの縁談を進めようと思う」
相手は帝国の有力侯爵家の嫡男だった。家格も財産も申し分ない。父の立場からすれば、娘の将来を案じて選んだ良縁なのだろう。
セシリアは書状を見つめた。
少し前の自分なら、断る理由をうまく説明できなかったかもしれない。相手が悪い人だという証拠はない。家のためになるという父の言葉も、理解できる。
けれど、今は違った。
「お父様。わたくし、この縁談はお受けできません」
父の眉が動いた。
「理由を聞こう」
「心に決めた方がおります」
部屋の空気が止まった。
「……誰だ」
「アルヴェリア王国のグレゴール・リーヴェルト様です」
「子爵家の跡取りだと?」
「はい」
「帝国の公爵家の娘が、王国の辺境子爵家へ嫁ぐというのか」
「そう望んでおります」
父は椅子の背に深く身を預けた。
「先方から正式な申し入れがあったのか」
「いいえ、まだ」
「本人とは約束したのか」
「いいえ」
「では、何を根拠に」
「わたくしが、そうしたいからです」
父は言葉を失った。
セシリア自身、胸が震えていた。父に反抗することは怖い。家族を悲しませたくもない。けれど、言わなければ自分の人生が、自分の手から離れていく。
「お父様。わたくしは、公爵家の娘であることを恥じたことはありません。育てていただいたことにも感謝しております。でも、誰と生きるかだけは、自分の心で決めたいのです」
「……その青年は、お前に何を約束した?」
「何も」
「何も?」
「わたくしを信じて、共に働く場所をくださいました。知らないことを学べるのは楽しみだと、言ってくださいました」
父は長く黙った。
「それだけで、国を離れる覚悟ができるのか」
「それだけではありません。わたくしは、あの方といると、自分が自分でいられるのです」
窓の外で、庭師が枝を剪定していた。小さな鋏の音が、妙にはっきり聞こえた。
「……すぐには許可できん」
「承知しております」
「相手の家柄、領地の事情、両国の外交上の問題。調べることが多すぎる」
「はい」
「それに、何より本人の意思が分からん」
そこは、セシリアも反論できなかった。
父は少し声を和らげた。
「セシリア。お前の幸せを軽んじているわけではない」
「分かっております、お父様」
「ならば、時間をくれ」
セシリアはうなずいた。
けれど、時間を待つだけでは足りないことも分かっていた。
グレゴールの気持ちは、まだ聞いていない。
彼女の恋は、そこからが本当の始まりだった。
*
最初の手紙には、白銀の森の事件についての礼を書いた。
次の手紙には、寒冷地用の浄化術式の改良案を添えた。
三通目には、帝都の菓子店で見つけた焼き菓子の話を書いた。彼が村の食事を美味しそうに食べていたことを思い出したからだ。
返事は、毎回きちんと届いた。
『ご提案の術式について、領内の技師が大変喜んでおります』
『こちらでは雪解けが進み、森の小川が増水しています』
『焼き菓子は、母も好物です。お心遣いありがとうございます』
丁寧で、温かくて、まったく恋文らしくなかった。
「お嬢様。これは領地運営の往復書簡では?」
ヘルタが四通目を見て言った。
「……わたくしも、少しそう思います」
「思い切って、お気持ちを書かれては」
「書きましたわ」
「どこに?」
「『またあなたと星空を見たいです』と」
「お返事は?」
「『北の星は夏も美しいので、ぜひ』ですって」
ヘルタは額に手を当てた。
「手強いお方ですね」
「ええ。剣聖と引き分けるだけのことはありますわ」
「恋文と剣術は、関係ないかと」
セシリアは机に頬杖をついた。
会いたい。
手紙では、彼の声の温度が分からない。何を考えて微笑んだのかも、分からない。
そして何より、父が縁談を保留にしている間にも、帝国の社交界では様々な噂が広がり始めていた。
『公爵家の四女が、王国の子爵を追いかけている』
『相手にされていないらしい』
『魔法の研究に夢中になりすぎて、良縁を逃した』
噂は、誰も責任を取らない言葉でできている。
ある夜会で、若い貴族が遠回しにグレゴールの家格を笑った。
「北方の小領主では、帝都の暮らしに慣れたご令嬢を満足させられますまい」
セシリアは微笑みを崩さずに答えた。
「満足とは、誰が決めるものなのでしょう。わたくしは、雪の森でいただいた温かなスープを、帝都のどんな晩餐より美味しく感じましたわ」
相手は言葉に詰まった。
けれど、その夜の帰り道、セシリアは馬車の中で拳を握りしめていた。
人の価値を、領地の大きさだけで測る人たちに、彼を笑わせたくない。
同時に、彼自身の望みを聞かずに、勝手に自分の未来を重ねてよいのかという不安もあった。
彼は静かな暮らしを望んでいる。帝国公爵家との縁組は、外交の問題や余計な注目を持ち込むかもしれない。
自分の恋心が、彼の平穏を壊すのなら。
そう考えた途端、胸が痛んだ。
セシリアは窓の外を見た。帝都の灯は相変わらず眩しい。
けれど、彼女が見たいのは、遠い森の星だった。
*
その数日後、帝都へ来ていたラインハルトが公爵邸を訪れた。
父との用件を終えた剣聖は、庭で魔法の訓練をしていたセシリアを見つけると、にやりと笑った。
「相変わらず、難しい顔で術式を組んでいるな」
「難しい顔にもなりますわ」
「グレゴールのせいか?」
「……どうして分かるのです」
「分からん方がおかしい」
セシリアは小さな水球を指先で転がした。気が散っているせいか、形がわずかに歪む。
「手紙はくださいます。でも、あの方のお気持ちが分からなくて」
「本人に聞けばいい」
「簡単におっしゃいますわね」
「剣でもそうだ。相手の構えを眺めているだけでは、分からんことがある」
「恋愛を剣に例えないでくださいませ」
「お前も魔法に例えるだろう」
図星だった。
ラインハルトは少し真面目な顔になった。
「あいつはな、自分が人に何を与えているか、あまり分かっていない。強い剣を持っていることも、誰かの支えになっていることも、本人には大したことじゃないんだ」
「……はい」
「だが、相手の気持ちを軽く扱う男じゃない。お前が本気で話せば、必ず聞く」
「断られるかもしれません」
「そりゃそうだ。だが、聞かずに諦めるよりはいいだろう」
セシリアは水球を消した。
胸の奥で、何かが静かに定まっていく。
「……ありがとうございます、ラインハルト様」
「礼はいい。代わりに、あいつが妙な返事をしたら教えてくれ。笑ってやる」
「それはお断りいたします」
剣聖は声を上げて笑った。
翌朝、セシリアは父の書斎を訪ねた。
「お父様。王国へ行かせてください」
「……まだ話はまとまっていないぞ」
「だからこそ、本人にお会いして、お気持ちを確かめたいのです」
「公爵家の娘が、男を追って国境を越えるというのか」
「はい」
父は目を閉じた。
「まったく、お前は誰に似たのだ」
「お母様ではないでしょうか」
「……否定できん」
その言葉に、セシリアは少し笑った。
母は静かに聞いていたが、最後に一つだけ尋ねた。
「セシリア。もし彼があなたを選ばなかったら?」
「悲しいと思います」
「それでも行くの?」
「はい。わたくしは、知らないまま後悔したくありません」
母はしばらく娘を見つめ、それからそっと手を握った。
「ならば、礼儀を忘れず、でも自分の言葉で話していらっしゃい」
父は長いため息をついたあと、条件を出した。正式な護衛と侍女を伴うこと。王国側へ事前に訪問の連絡を入れること。相手の意思を尊重し、無理に話を進めないこと。
セシリアは一つずつうなずいた。
「約束いたします」
「……そして、無事に帰ってこい」
その最後の言葉が、何より温かかった。
*
リーヴェルト子爵領へ着いた日は、よく晴れていた。
白銀の森の木々は初夏の光を受け、銀と緑を重ねていた。街道沿いには小さな畑が広がり、石垣の間から野の花が顔を出している。
セシリアは馬車の窓を開けた。
帝都とは違う、土と若葉の匂いがした。
「本当に、来てしまいましたわね」
ヘルタが隣で微笑む。
「ええ。お嬢様は、決めたらお止まりになりませんから」
「呆れている?」
「少し。でも、嬉しくもあります」
子爵家の屋敷は、想像していたより質素だった。古い石造りの建物を丁寧に手入れし、庭には季節の花が植えられている。門番は一行を礼儀正しく迎え、すぐに客間へ案内してくれた。
だが、肝心のグレゴールは不在だった。
「若様は朝から領内の巡回に出ておりまして」
執事が申し訳なさそうに告げる。
「夕刻にはお戻りになる予定です」
「そうですのね。急な訪問で、こちらこそ失礼いたしました」
事前の連絡は届いていたが、到着が予定より早かったらしい。
セシリアは客間で待つつもりだった。けれど、ほどなくして、一人の女性が迎えに現れた。
柔らかな銀灰色の髪を結い、落ち着いた色のドレスを着た婦人だった。姿勢は美しく、穏やかな微笑みには、不思議と人を安心させる力がある。
「遠いところを、ようこそいらっしゃいました。マリアンヌ・リーヴェルトです」
「セシリア・フォン・エーレンフェルトと申します。突然お邪魔してしまい、申し訳ございません」
「まあ、そんなにかしこまらないで。グレゴールから、お手紙であなたのお話は伺っています」
セシリアの心臓が跳ねた。
「……どのような、お話を?」
「魔法の説明がとても分かりやすくて、村の人たちにも親切な方だと」
「……そうですか」
嬉しい。嬉しいのだが、やはり恋愛の気配がない。
マリアンヌは、彼女の表情を見て小さく笑った。
「うちの息子、剣のこと以外には少し鈍いところがあるでしょう」
「……少し、でしょうか」
「まあ。ずいぶん正直なお返事」
二人は顔を見合わせ、笑った。
マリアンヌは庭へ案内してくれた。古い屋敷の裏手には、薬草と花が区画ごとに植えられ、小さな水路が走っている。
「この水路、術式で循環させていらっしゃるのですか?」
セシリアはすぐに気づいた。
「ええ。少しだけ手を加えています」
「少し……?」
水の流れは驚くほど安定していた。細い溝を巡り、必要な場所へ必要な量だけ水を送っている。土が過度に湿ることも、乾くこともない。
「魔力の供給源は、どちらに?」
「庭の端に小さな蓄積石があります。でも、今日は調子が悪いみたい」
マリアンヌは水路の一角に近づいた。
「ちょうどよかった。少し整えましょうか」
彼女が指を軽く動かした。
それだけだった。
セシリアは息を止めた。
水の流れが変わった。風が葉を撫で、土の中に滞っていた水分がゆっくり移動する。魔力の糸が何本も伸び、それぞれ異なる速度で、異なる術式を支えている。
しかも、どの流れも互いを邪魔しない。
水の循環、風による湿度調整、土の保水、蓄積石への魔力の補充。
四つの操作が同時に行われているのに、魔力の揺らぎはほとんど感じられなかった。
セシリアは帝国で名高い魔導師たちの術式を見てきた。大規模な魔法も、複雑な研究用の陣も知っている。
けれど、これは違う。
力を誇示するための魔法ではない。庭の花を傷つけないために、必要なだけの力を、限りなく正確に使っている。
「……信じられませんわ」
「どうかしました?」
「今、四系統の操作を同時に……しかも、術式同士の干渉を、ほとんど完全に抑えて……」
「あら。よく見ていらっしゃるのね」
マリアンヌは少し驚いたようだった。
「わたくしには、何をなさったかは分かります。でも、どうしてあれほど滑らかに制御できるのか……」
「長年の癖のようなものですよ」
「癖でできることではありません!」
思わず声が大きくなった。
ヘルタが後ろで小さく咳払いする。けれど、セシリアにはもう止められなかった。
この魔法を学びたい。
強大な魔力を扱うことなら、これまでの自分にもできた。けれど、目の前の婦人は、力を細く、優しく、必要な場所へ届けている。
その技術の先に、まだ見たことのない世界がある。
「マリアンヌ様!」
「は、はい?」
「お願いがございます。どうかわたくしを、お弟子にしてくださいませ!」
庭に、しばし沈黙が落ちた。
風が花を揺らす。どこかで鳥が鳴いた。
「……あなた、グレゴールに会いにいらしたのでは?」
「もちろんですわ! ですが、それとこれとは別問題です!」
マリアンヌは目を丸くしたあと、声を立てて笑った。
「まあ、まあ。そんなに真剣な顔をしなくても」
「真剣ですわ。わたくし、まだ学びたいことが山ほどあるのです」
「それは素敵なことね」
マリアンヌの声が、少し柔らかくなった。
「では、一つだけ、試してみますか」
「はい!」
彼女は花壇の前にしゃがみ込んだ。小さな白い花が、朝露を葉に載せている。
「この葉についた水滴を、一粒だけ取り除いてください。葉も、ほかの水滴も、動かさずに」
セシリアは課題を聞いて、思わず瞬きをした。
魔法の訓練としては、あまりに小さい。
「一粒だけ、ですか?」
「ええ。力を出すより、出さないことの方が難しいときもありますから」
セシリアはうなずき、指先に魔力を集めた。
水滴を持ち上げる。簡単なはずだった。
だが、葉がわずかに揺れた。
「あっ」
「惜しいですね」
もう一度。今度は風の影響を抑えようとして、隣の水滴まで動いてしまう。
三度目は、魔力を絞りすぎて術式が途切れた。
セシリアは唇を噛んだ。
こんなに小さなことが、できないなんて。
けれど、不思議と悔しさよりも喜びが大きかった。自分にはまだ、こんなに学ぶ余地がある。
「もう一度、お願いいたします」
「どうぞ」
マリアンヌは急かさなかった。
セシリアは深く息を吸った。水滴を動かそうとするのではなく、その重さと葉のしなりを感じ取る。魔力を強く押し出さず、細い糸のように添える。
水滴が、ほんの少し浮いた。
葉は揺れない。
セシリアは慎重に指を引いた。透明な粒が宙を渡り、彼女の掌へ落ちた。
「……できました」
「ええ。とてもよくできました」
マリアンヌは、まるで幼い子どもの初めての魔法を喜ぶように微笑んだ。
セシリアは掌の水滴を見つめた。帝国の競技会で賞を取ったときより、胸が満たされていた。
「わたくし、今まで力を出すことばかり考えていたのかもしれません」
「力を持つことは悪いことではありませんよ。ただ、何のために使うのかを忘れないことです」
その言葉は、白銀の森で見たグレゴールの姿と重なった。
剣を抜くのは、誰かを守るため。
魔法を使うのは、花を傷つけずに水を届けるため。
この家の人たちは、きっと同じものを大切にしている。
「マリアンヌ様。改めて、弟子入りをお願いできますでしょうか」
「もちろん。ただし、魔法の勉強は一生終わりませんよ」
「望むところですわ!」
「それから、帝国の公爵令嬢だからといって、特別扱いはしません」
「はい!」
「庭の草取りも、一緒にしていただきます」
「喜んで!」
マリアンヌは目を細めた。
「魔法を学ぶのに、帝国も王国も関係ありませんものね」
セシリアは深く頭を下げた。
恋する相手に会いに来たはずなのに、未来の義母になるかもしれない人へ、先に弟子入りを願い出てしまった。
それでも、不思議と間違ったことをした気はしなかった。
*
夕刻、グレゴールが戻ってきた。
馬の蹄の音が庭の向こうから近づき、玄関先で止まる。セシリアはマリアンヌと一緒に出迎えた。
「母上、ただいま戻りました。……セシリア様?」
グレゴールは、珍しく目を見開いた。
「お帰りなさいませ、グレゴール様!」
「どうして、こちらに?」
「あなたにお会いするためですわ。それから、マリアンヌ様に弟子入りさせていただくことになりました!」
「……母上?」
「とても熱心なお嬢さんなの。水滴を一粒動かすのに、ずいぶん真剣になっていらしたわ」
「そうですか。それは……よかったですね」
彼は本当に嬉しそうだった。
セシリアは少しだけ肩を落とした。そこではないのだ。
マリアンヌが微笑む。
「それでね、グレゴール。この方、あなたのお嫁さんになりたいんですって」
「お、お母様!」
セシリアの声が裏返った。
グレゴールは完全に動きを止めた。
「……え?」
「違ったかしら?」
「……違いませんけれど!」
言ってしまった。
セシリアは頬が熱くなるのを感じた。けれど、もう引き返せない。
マリアンヌは二人を交互に見て、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい。先に言ってしまったわね。私はお茶の用意をしてきますから、二人でお話しなさい」
そう言って、驚くほど軽やかな足取りで屋敷へ戻っていった。
庭には、セシリアとグレゴールだけが残された。
夕陽が石畳を橙色に染める。遠くの森から、鳥の帰る声が聞こえた。
「……セシリア様」
「はい」
「今のは、本当ですか」
「はい」
セシリアは逃げずに答えた。
「わたくし、あなたが好きです。白銀の森でご一緒した日から、ずっと」
グレゴールは口を開きかけ、また閉じた。
「突然で、驚かせてしまいましたわね」
「……驚きました」
「ご迷惑でしょうか」
「いいえ。迷惑だなんて、そんなことは」
彼は困ったように額へ手を当てた。
「ただ、私は……あなたが魔法の研究のために手紙をくださっているのだと」
「それも本当です。でも、焼き菓子のお話や星空のお話は、あなたとお話ししたかったからです」
「……そうだったのですか」
セシリアは思わず笑ってしまった。
「グレゴール様。わたくし、ずいぶん頑張ったのですよ」
「……申し訳ありません」
「謝ってほしいわけではありませんわ」
笑いながらも、胸は苦しかった。
彼が困っているのは分かる。身分差も、国境も、彼の望む静かな暮らしも、すべて簡単な問題ではない。
「お返事は、今すぐでなくても構いません」
セシリアはゆっくり言った。
「わたくしの気持ちを知っていただきたかったのです。あなたが望まないのなら、無理に結婚を進めたりいたしません」
グレゴールは顔を上げた。
「……セシリア様」
「ただ、一つだけ。わたくしは、帝国の公爵家を捨てたいからここへ来たのではありません。自分の人生を、自分で選びたいのです。その隣に、あなたがいてくださったら嬉しい」
風が二人の間を通り抜けた。
彼は長く黙っていた。セシリアは、その沈黙を急かさなかった。
やがて、グレゴールが口を開いた。
「私は、あなたにふさわしい暮らしを用意できるか分かりません」
「わたくしにふさわしい暮らしは、わたくしが決めますわ」
「冬は雪が深い。帝都のような劇場も、大きな商店もありません」
「星が見えるのでしょう?」
「……はい」
「それに、魔導灯を直す必要も、井戸を整える必要もある。学ぶことが山ほどありますわ」
グレゴールは、ようやく少し笑った。
「確かに、退屈はしないかもしれません」
「ええ。まったく」
彼は庭の花へ目を向けた。
「私は、あなたと話す時間が好きでした」
セシリアは息をのんだ。
「手紙が届くと、ついすぐに読んでしまう。村の井戸を見れば、あなたならどう考えるだろうと思う。……それが、どういう気持ちなのか、考えたことがありませんでした」
彼の声は、いつものように飾り気がなかった。
「あなたが来てくださって、嬉しいです。驚きましたが……嬉しい」
セシリアの目の奥が熱くなった。
「それでは……」
「ただ、軽々しく約束はしたくありません。あなたのご家族にも、私の家族にも、きちんと話したい」
「はい」
「それでも、待っていただけますか」
セシリアは、今度こそ笑った。
「もちろんですわ。わたくし、待つこともできます。でも、必要なら何度でも会いに参ります」
「……それは、心強いですね」
グレゴールは少し照れたように微笑んだ。
その顔を見た瞬間、セシリアは思った。
この人を好きになって、よかった。
*
その夜の夕食は、思いがけず賑やかなものになった。
リーヴェルト子爵家の当主アルフレッドは、若い頃に王国の騎士団で高い地位を務めた人物だという。背筋の伸びた姿には威厳があったが、食卓では驚くほど気さくだった。
「ほう。帝国から一人で息子を追いかけてきたのか」
「護衛と侍女も同行しております、お父様」
マリアンヌが訂正する。
「それでも大した度胸だ。気に入った」
「あなた、まだ本人の返事も決まっていないのよ」
「ならば、グレゴールがしっかり考えればいい」
アルフレッドは息子を見た。
「剣の間合いを測るのは得意だろうが、人の心まで同じようには測れんぞ」
「……分かっています、父上」
「本当か?」
「努力します」
マリアンヌが笑い、セシリアもつられて笑った。
食卓には、焼いた肉と根菜の煮込み、香草入りのパンが並んでいた。帝都の豪華な晩餐とは違う。けれど、誰もが同じ皿を囲み、今日あったことを話している。
「セシリアさん。母上の弟子になるそうですね」
グレゴールが尋ねた。
「はい。まずは庭の水路から学ばせていただきます」
「それは大変だ。母上は優しいですが、魔法のことになると厳しいので」
「グレゴール。あなたに剣を教えたお父様ほどではないわ」
「いや、私より母さんの方が怖い」
「あなた」
マリアンヌが微笑むと、アルフレッドは咳払いした。
セシリアは吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
この家で暮らしたい。
思いは、もう揺るがなかった。
食後、マリアンヌはアルフレッドと二人きりになったところで、小声で言った。
「グレゴールのお嫁さん、私が先に決めてしまったかもしれません」
「ほう?」
「魔法を学びたいと、目を輝かせていたの。あの子が初めて剣を握ったときと、そっくりな顔だったわ」
アルフレッドはしばらく考え、やがて笑った。
「ならば、うちに合うだろう」
「ええ。でも、決めるのはあの二人よ」
「分かっているさ」
窓の外では、若い二人が庭を歩いていた。
*
翌日から、セシリアは短い滞在の間だけ、マリアンヌの指導を受けた。
朝は庭の水路を調べ、昼は領内の魔導灯を点検し、夕方には術式の記録をつける。公爵令嬢にしては泥のついた靴で歩く時間が長かったが、セシリアは少しも気にしなかった。
マリアンヌの教え方は厳密だった。
「大きな術式を使う前に、何を守りたいのか考えなさい」
「はい」
「失敗したとき、誰に影響が及ぶかも」
「……はい」
「そして、できることを一人で抱え込まないこと。魔法使いにも、助けを求める勇気が必要です」
セシリアは何度も頷いた。
帝国では、優秀であることを求められた。失敗しないこと、誰よりも速く術式を完成させること、家名に恥じない成果を出すこと。
ここでは、失敗しても理由を考える時間が与えられた。分からなければ尋ねてよいと言われた。
ある日、村の共同井戸で、セシリアは浄化術式の調整に手間取った。
「申し訳ありません。思ったより、水の流れが不規則で」
「謝ることはありませんよ」
マリアンヌは井戸の縁に手を置いた。
「この村の水は、季節によって流れが変わるの。だから、図面どおりにいかなくても当然です」
「……現場を見ることが大切なのですね」
「ええ。魔法は、紙の上だけで生きているわけではないから」
その日の夕方、グレゴールが井戸の様子を見に来た。
「助かりました。村の人たちも喜んでいます」
「まだ改良の余地がありますわ」
「それでも、今日から水が使いやすくなる。十分ありがたいことです」
彼は井戸のそばに置かれた桶を持ち上げた。
「セシリア様。少し休みませんか」
「……わたくしと?」
「はい。森の見える丘に、よい場所があります」
セシリアは頬が緩むのを止められなかった。
ようやく、魔法の話ではない誘いが来たのだ。
丘へ向かう小道には、背の低い草花が咲いていた。二人は並んで歩き、遠くの山を眺めた。
「こちらでの暮らしは、いかがですか」
「とても楽しいですわ。朝から夕方まで、学ぶことばかり」
「母も、あなたが来てから嬉しそうです」
「わたくしも嬉しいです」
グレゴールは少し黙り、それから言った。
「……あなたが来る前、私はずいぶん考えました」
「何を、ですか?」
「帝都へ戻られたあと、手紙が届くのを待っている自分に気づいて。けれど、なぜ待つのか分からなかった」
セシリアは足を止めた。
「……今は?」
「少し、分かってきました」
彼は彼女をまっすぐ見た。
「あなたと一緒にいると、明日が楽しみになるんです」
風が吹いた。
セシリアの髪が頬にかかる。彼は手を伸ばしかけ、途中でためらった。
その不器用な仕草が、たまらなく愛おしかった。
「グレゴール様」
「はい」
「わたくしもです」
彼女は、自分から一歩近づいた。
「あなたと一緒なら、明日が楽しみです」
グレゴールは静かに微笑んだ。
そして、ようやく彼女の手を取った。
剣を握るために鍛えられた手は大きく、温かかった。
*
もちろん、恋が通じ合ったからといって、すべてが簡単に進んだわけではない。
帝国公爵家の四女と、王国の辺境子爵家の跡取り。国境を越える婚姻には、両家の同意だけでなく、様々な確認が必要だった。
セシリアは一度帝都へ戻り、父にグレゴールの意思を伝えた。
「……本人も、同じ気持ちだというのか」
「はい」
「正式に話を進めたいと?」
「はい」
父は書類を机に置いた。
「では、ここからは大人の仕事だ」
「わたくしも大人ですわ」
「そうだったな」
父は少し笑った。
だが、その日の夕刻。父は執務室に残った腹心の家令に、別の指示を出していた。
「リーヴェルト子爵家について、帝国側の記録も含めて調べ直せ。家系図だけでは足りん。軍歴、騎士団への推薦記録、旧い戦役の報告までだ」
「婚姻をお認めになるための調査でございますか」
「娘が自分で選んだ相手だ。だからこそ、私が知らぬままで済ませるわけにはいかん」
父は窓の外を見た。セシリアが幼い頃、書斎の隅で魔法書を開き、難しい術式を解いては得意げに見せに来た日のことを思い出していた。
娘の眼差しは、あの頃と同じだった。誰かに言われたからではなく、自分の意思で答えを見つけた者の目だ。
それでも、帝国の公爵家と王国の子爵家では、立場も暮らしも違いすぎる。愛情だけで越えられない壁があることを、父は知っていた。
*
最初の報告が届いたのは三日後だった。
家令は分厚い綴じ書類を抱え、普段より幾分硬い表情で執務室に入った。
「旦那様。ご指示の件ですが……軍務局に残る記録の一部を確認する必要がございました」
「何か問題でも?」
「問題というより、私どもの認識に誤りがあったようでございます」
父は眉をひそめ、書類を受け取った。
最初の頁には、北方の小領地、古くからの子爵家、堅実な財政といった、予想どおりの言葉が並んでいる。だが、次の頁で指が止まった。
「……アルフレッド・リーヴェルト?」
名前の横には、王国騎士団での指揮歴が記されていた。国境で起きた複数の紛争における部隊の撤退支援、補給路の確保、損害を最小限に抑えた戦術判断。帝国の軍事記録にも、敵味方を問わず兵の命を無駄にしない指揮官として言及があった。
「待て。この名は覚えがある。昔、退却路を守り抜いた王国の騎士がいると、老将が酒席で話していた。あれが……」
「同一人物と見られます。現在は騎士団を退き、領地で後進の指導をされているそうです」
「なぜ、それほどの男が辺境の子爵家に戻っている?」
「昇進の打診を断ったとの記録があります。ただし、理由は確認できませんでした」
父は答えず、次の頁をめくった。
「マリアンヌ・リーヴェルト。元宮廷魔導師……魔法部隊の術式構築に関与?」
彼は書類を顔に近づけた。
複数の魔法を同時に制御し、味方の退路だけを守ったという記録。大規模な術式を発動させながら、周辺の民家にはほとんど被害を出さなかったという記述。その精度を、帝国側の観測官が「再現困難」と評していた。
「……これは戦場の記録か。それとも、魔法学の研究報告か」
「両方でございます」
「冗談だろう」
父は低くつぶやいた。セシリアが魔法を学びたいと願ったとき、帝国でも腕利きの教師を探した。その娘が、王国の辺境で師と仰ぐ女性。まさか、こういう人物だったとは。
家令はさらに別の束を差し出した。
「驚くべきことは、それだけではございません。王国騎士団の名簿と、古い任官記録を照合しましたところ、リーヴェルト領で訓練を受けた騎士が複数名、要職に就いております」
名簿には、出身地を大きく掲げない騎士たちの名前があった。辺境の守備隊長、騎士団の教導役、魔物討伐隊の指揮官。家の名を借りて出世した者ではない。訓練を受けた後、それぞれの腕で地位を得た者たちだった。
「一人や二人なら偶然だ。しかし、これほど続くのか」
「表立った記録に残らぬ者もいるようです。功績の多くは本人名義で、子爵家は後援者としてもほとんど名を出しておりません」
父は椅子の背にもたれた。
領地は小さい。爵位も高くない。だが、人を育てる土壌がある。強さを誇るのではなく、必要な場所へ送り出す家なのだ。
「……王国は、とんでもない家を北の端に置いているな」
「ご懸念が増えましたか」
「逆だ。私は娘が身分を下げて嫁ぐことばかり考えていた。どうやら、相手の家を知らなすぎたらしい」
父は一度、口元を緩めた。
「それに、セシリアがあれほど目を輝かせて語った魔法の師が、マリアンヌ殿だというのなら……あの子が帰りたがらない理由も分かる」
「では、婚姻については」
「前向きに進めよう。ただし、先方の功績を外交上の道具にするような真似はするな。彼らが名を隠してきたのなら、そこには理由があるのだろう」
「承知いたしました」
「そして娘には、まだ言わなくていい。あの子は私の調査結果で結婚相手を決めたわけではないのだからな」
そう言って父は報告書を閉じたが、しばらくするとまた開いた。
「……しかし、このアルフレッド殿の指揮記録は実に興味深い。軍務局に問い合わせれば、当時の戦場図も見られるか?」
「旦那様。先ほど、功績を外交に利用なさらないと」
「利用はせん。勉強だ」
家令は慎重に頭を下げた。父の目が、魔法書を前にしたセシリアとよく似た輝きを帯びていたことは、口にしなかった。
*
翌朝、父はいつになく上機嫌で朝食の席に現れた。
「セシリア。王国の北方は、冬が厳しいそうだな」
「ええ。ですから、寒さに強い外套を用意しようと思っております」
「馬車の車輪も、雪道用のものを考えねばな。向こうの領内には、優秀な騎士の訓練場もあるとか」
「……お父様?」
「いや、よい環境だと思ってな。魔法の研究にも向いているだろう」
セシリアはパンを持ったまま、父を見つめた。
「昨日までは、辺境は不便だとおっしゃっていたのに」
「不便であることと、価値があることは別だ」
「……何か、お調べになりました?」
「親として当然のことを少しな」
父は澄ました顔で茶を飲んだ。だが、セシリアには分かる。何かを隠しているときの父は、いつもより背筋を伸ばすのだ。
「お父様。まさか、グレゴール様に剣の勝負を申し込むおつもりではありませんわよね?」
「なぜ私が剣を抜く」
「だって、急に楽しそうになられましたもの」
「娘の幸福を願う父親が、楽しそうではいけないのか」
正論を返され、セシリアは言葉に詰まった。
母だけが、二人の顔を交互に見て静かに笑っていた。
*
その後、両家の間で何度も書状が交わされた。財産の取り決め、帝国に残る親族との往来、セシリアの研究活動の継続、国境を越える際の安全。
グレゴールは、彼女の魔法研究を続けられるようにしたいと、繰り返し書いた。
『彼女が学びたいことを諦めずに済むよう、私もできる限りのことをしたいと思います』
セシリアはその一文を何度も読み返した。
彼は自分を守るために、自由を狭めようとはしない。
むしろ、彼女が望む道を歩けるように、隣で支えようとしてくれる。
ある日、父はセシリアを呼び、静かに言った。
「リーヴェルト家からの返書を読んだ。領地は大きくないが、堅実な家だな」
「はい」
「お前の研究についても、よく考えている」
「……はい」
「一つだけ、確かめたい」
父は娘を見た。
「向こうで苦労することがあっても、誰かのせいにしない覚悟はあるか」
セシリアはすぐには答えなかった。
雪の深い冬。慣れない土地。帝都の友人たちと簡単には会えなくなる日々。華やかな社交界とは違う責任。
すべてを想像できるわけではない。
「苦労しないとは思っておりません。でも、困ったときには一緒に考えられる方です。わたくしも、そうありたいと思います」
父は長く息を吐いた。
「……分かった」
その一言で、セシリアの目に涙が浮かんだ。
「お父様」
「幸せになりなさい。ただし、何かあれば帰ってきてよい。お前の生まれた家がなくなるわけではない」
「……ありがとうございます」
母は隣で、そっと目元を拭っていた。
セシリアは初めて、家を離れることと、家族を失うことは違うのだと実感した。
*
婚約が正式に整った頃、ラインハルトがまた二人の前に現れた。
場所はリーヴェルト家の庭。グレゴールは剣の手入れをしており、セシリアはマリアンヌから借りた術式書を読んでいた。
「おお、ようやく決まったか!」
剣聖は、まるで自分の勝利を祝うように声を上げた。
「ラインハルト殿。声が大きいです」
「これくらい言わせろ。お前が気づくまで、何度ひやひやしたことか」
「……そんなに分かりにくかったでしょうか」
セシリアは本から顔を上げた。
「グレゴール様。わたくし、星空を一緒に見たいと三度も書きましたわ」
「……あれは、天体観測のお誘いかと」
「ほらな!」
ラインハルトが腹を抱えて笑った。
グレゴールは珍しく、耳まで赤くなった。
「それなら、もう少し早く教えてくだされば」
「何度も教えましたわ!」
「……申し訳ありません」
セシリアは笑いながら首を振った。
「いいのです。今は、ちゃんと伝わっておりますもの」
ラインハルトは二人を見比べ、満足そうにうなずいた。
「よし。祝いに、久しぶりに一勝負するか、グレゴール」
「なぜそうなるのです」
「めでたいからだ」
「理由になっていません」
結局、二人は庭の訓練場で木剣を交えた。
セシリアはマリアンヌと並んで見守った。
「本当に、剣がお好きなのですね」
「ええ。あの子は小さい頃から、剣を握ると周りが見えなくなるの」
「……少し、分かります」
「でもね、セシリアさん。あなたが来てから、あの子は剣以外のことで笑う時間が増えたのよ」
セシリアはマリアンヌを見た。
「そうでしょうか」
「ええ。ありがとう」
その短い言葉が、胸の奥に深く染みた。
セシリアは目を細めた。
「こちらこそ。わたくし、ここへ来てから、毎日が楽しみです」
「それなら、よかった」
訓練場では、グレゴールがラインハルトの一撃を受け流していた。木剣が高く鳴り、二人の笑い声が風に混じる。
セシリアは思った。
この人たちの輪の中に、自分も加わるのだ。
それは、帝都のどんな栄誉よりも、胸が弾む未来だった。
*
結婚式は、初秋のリーヴェルト領で行われた。
帝国からはセシリアの両親と姉たちが訪れ、王国からは親族や領内の人々が集まった。遠い国境を越えてやって来た客人たちが、同じ庭で笑い合っている。
セシリアは白いドレスの裾を整えながら、窓の外を見た。
庭の花は、マリアンヌの魔法で瑞々しく咲いている。けれど、その一輪一輪を育てたのは、日々の手入れと、ここに暮らす人々の手だった。
「お嬢様……いえ、奥様とお呼びする日が来るのですね」
ヘルタの声が少し震えた。
「まだ式の前ですわ」
「失礼いたしました」
二人は笑った。
「ヘルタ。ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
「当然でございます。お嬢様がどちらへ行かれても、私はお仕えします」
「でも、これからはわたくしも、少しずつ自分でできることを増やしますわ」
「……まずは、朝のお支度からでしょうか」
「そこからですの?」
「大切なことです」
セシリアは思わず吹き出した。
扉の向こうから、音楽が聞こえた。
式場へ向かう廊下で、父が待っていた。
「……綺麗だ、セシリア」
「ありがとうございます、お父様」
「本当に、あの青年でよいのだな」
「はい」
父は娘の手を取り、静かにうなずいた。
「ならば、胸を張って行きなさい」
扉が開く。
庭の向こうで、グレゴールが待っていた。
濃紺の礼服に身を包み、いつもより少し緊張した顔をしている。彼の隣にはアルフレッドとマリアンヌがいて、ラインハルトは早くも泣きそうな顔で笑っていた。
セシリアはゆっくり歩いた。
帝国公爵家の四女として生まれ、たくさんのものを与えられて育った。自分で選ぶことが怖かった日もある。
けれど、今は違う。
この道は、自分の足で歩いている。
グレゴールの前へ着くと、彼はそっと手を差し出した。
「セシリア」
初めて、敬称のない名前で呼ばれた。
「……はい、グレゴール」
声が震えた。けれど、恥ずかしくはなかった。
誓いの言葉を交わすとき、グレゴールはまっすぐに彼女を見た。
「あなたが学びたいことを、これからも一緒に学んでいきたい。私が知らないことも、たくさん教えてください」
「ええ。わたくしも、あなたの大切なものを一緒に守りたいです」
彼の手が、少し強く彼女の手を包んだ。
風が吹き、庭の花びらが舞った。
セシリアは笑った。
帝国の公爵令嬢は、辺境の子爵家へ嫁ぐことを選んだ。
それは何かを諦めるためではなく、これからの人生を、もっと豊かにするための選択だった。
*
結婚してからの暮らしは、もちろん、楽しいことばかりではなかった。
初めての冬、セシリアは雪の深さに驚いた。帝都で着ていた外套ではまるで足りず、屋敷の者たちに笑われながら厚手の服を用意した。
領内の魔導灯は思った以上に古く、浄化術式の改良も一度では成功しなかった。
けれど、困ったことがあればグレゴールと話し、マリアンヌに相談し、アルフレッドの知恵を借りた。
魔法の訓練は結婚後も続いた。
「セシリア。今日は少し、魔力を出しすぎましたね」
「……はい、お義母様」
「でも、前よりずっと安定しています」
「ありがとうございます!」
師弟のやり取りを聞きながら、グレゴールが苦笑することもあった。
「母上。私の妻を、あまり厳しくしないでください」
「あなたが剣の訓練をするときと、何が違うの?」
「……何も言えません」
そんな日々が積み重なり、屋敷には一人、また一人と子どもが増えた。
長男ヴィクトルは、幼い頃から物事をよく見ていた。木剣を握れば誰より真剣で、年下の兄弟の世話となると、妙に慎重になる。
長女クラリスは、魔法の術式を眺めるのが好きだった。母の手元をじっと見つめ、小さな指で空中に線をなぞっては、どうしてその形になるのかと尋ねた。
三番目のエレナは、歩けるようになった頃から家中を駆け回った。父の剣にも母の魔法にも同じように目を輝かせ、転んでも泣く前に立ち上がる子だった。
そして、四人目のリリアが生まれた。
*
リリアが生まれて、ひと月ほどが過ぎた春の日。
北の冬を越えたリーヴェルト子爵邸の庭には、まだ冷たい風が残っていた。それでも窓辺の花は開き始め、陽の差す居間には、暖炉の火を弱めてもよいほどのぬくもりが満ちている。
セシリアは長椅子に腰掛け、生後ひと月の末娘を腕に抱いていた。
リリアは小さな口を時折動かしながら、眠りと目覚めの間を行き来している。柔らかな髪にそっと触れると、指先に温かな命の気配が伝わった。
その周りには、十一歳のヴィクトル、八歳のクラリス、四歳のエレナが、まるで小さな守備隊のように集まっていた。
「エレナ。もう少し下がって。リリアが驚いてしまうよ」
ヴィクトルが静かに注意する。
「だって、リリアのおてて、ちっちゃいんだもの」
エレナは長椅子の端から身を乗り出し、妹の握った拳をじっと見つめていた。
「お兄様、リリアはいつ剣を持てるようになるの?」
「まだずっと先だよ。まずは自分で座れるようにならないと」
「じゃあ、座れたら?」
「それでもまだ早い」
「ええーっ」
クラリスが小さくため息をついた。
「エレナ。赤ちゃんは、何でも剣の練習につなげなくていいのよ」
「でも、私が教えてあげたいんだもん」
「教えるなら、まずは優しく抱っこする方法でしょう?」
「それはお母様が教えてくれるよ」
その答えに、セシリアは思わず笑った。
「そうね。でも、エレナも最初は、抱っこされる側だったのよ」
「私もこんなに小さかった?」
「ええ。今のリリアより少し大きいくらいだったかしら」
「うそだあ。私、こんなに大きいよ?」
エレナは両腕を精いっぱい広げた。その勢いで袖が花瓶に触れそうになり、ヴィクトルがさっと手を伸ばして支える。
「ほら、だから落ち着いて」
「……お兄様、すごい」
「褒めても、花瓶を倒していいことにはならないよ」
ヴィクトルは真面目な顔を崩さなかったが、口元には笑みが浮かんでいた。
クラリスは妹の隣に膝をつき、リリアの寝顔をのぞき込む。
「お母様。リリアの指、さっきから動いています。夢を見ているのかしら」
「どうでしょうね。まだ、どんな夢なのか聞けないもの」
「魔法で分かったりしませんか?」
「分からないわ。魔法は便利だけれど、何でも教えてくれるわけではないの」
クラリスは少し考え、それからうなずいた。
「じゃあ、大きくなったら聞いてみます」
「ええ。それがいちばんね」
セシリアは娘の頭を撫でた。術式の答えを急がず、本人の言葉を待つ。その小さな約束が、なんだか嬉しかった。
そこへ、廊下から靴音が近づいた。
「ただいま。ずいぶん賑やかだな」
「お父様!」
真っ先に振り向いたのはエレナだった。グレゴールは外套を脱ぐ暇もなく、小さな娘に腰へ抱きつかれる。
「お帰りなさいませ、父上」
「お帰りなさい、お父様」
ヴィクトルとクラリスも続いて挨拶した。
「ああ、ただいま。ヴィクトル、今日の稽古はどうだった?」
「昨日より踏み込みが遅かったので、明日はそこを直します」
「そうか。自分で気づけたなら上出来だ」
「クラリスはね、今日は水の術式を三つも書いたの!」
エレナがなぜか姉の成果まで報告する。
「三つもか。すごいな」
「まだ一つは失敗しました」
「失敗したところまで分かっているなら、次はもっとよくなる」
そう言って子どもたちの頭を順に撫でたグレゴールは、最後に長椅子へ近づいた。
「セシリア。体調はどうだ?」
「大丈夫ですわ。あなたこそ、巡回でお疲れでしょう」
「今日は道の状態を見ただけだよ。それより……リリアは?」
「今はご機嫌よ。抱いてみます?」
グレゴールの表情が、わずかに引き締まった。
セシリアはその変化を見逃さなかった。
「ふふ。そんなに緊張なさらなくても」
「……何度抱いても、手の置き方を確かめたくなる」
彼は手を洗い、外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろしてから、ようやく腕を差し出した。
かつて帝国の剣聖と互角に渡り合った剣士が、赤ん坊を受け取る瞬間だけは、誰よりも慎重になる。
「剣聖との勝負よりも緊張しますの?」
セシリアが尋ねると、グレゴールは真剣な顔で答えた。
「比べものにならないよ」
「まあ」
「剣なら、相手の動きが読める。だが、この子はいつ泣き出すかも分からない」
「お父様、リリアは敵じゃないよ?」
エレナのもっともな指摘に、部屋じゅうが笑いに包まれた。
「そうだな。父さんの負けだ」
グレゴールは苦笑し、リリアの顔をのぞき込んだ。
そのとき、末娘がふいに目を開けた。まだ焦点の定まらない瞳が父親の顔の辺りを見つめ、小さな手がゆっくりと持ち上がる。
「あっ、動いた!」
エレナが声を上げかけ、クラリスに袖を引かれて口を押さえた。
「……動いた」
今度は小声で言い直す。
ヴィクトルがそっと父の横に立った。
「父上。腕、疲れませんか。代わりましょうか」
「ありがとう。でも、もう少しこうしていたい」
グレゴールの声は、剣を教えるときよりずっと柔らかかった。
セシリアは、その横顔を見つめた。
帝都の舞踏会で初めて会った頃、彼は自分の剣の腕前を誇ろうとしなかった。白銀の森では、守るべき人のために剣を抜き、彼女の魔法を信じてくれた。
その人が今、小さな娘を抱き、三人の子どもたちに囲まれている。
あの頃の自分に、この光景を見せたら何と言うだろう。
きっと信じられない顔をする。帝国公爵家の四女が、雪深い辺境で四人の母になる未来など、縁談の書状に囲まれていた頃には思い描けなかった。
「ねえ、お母様」
エレナが急に振り返った。
「お父様とお母様は、どっちから結婚したいって言ったの?」
グレゴールが顔を上げる。
「エレナ、その話は……」
「もちろん、わたくしからよ」
セシリアは即座に答えた。
「お母様から?」
「ええ。お父様はね、剣のことなら何でも分かるのに、恋のこととなると驚くほど鈍かったの」
「セシリア……」
「本当のことですわ」
クラリスが興味深そうに首をかしげる。
「お母様は、帝国からこちらへいらしたのでしょう? 怖くはありませんでしたか」
セシリアは少しだけ考えた。
「怖かったわ。知らない土地へ行くことも、自分の気持ちを伝えることも。でも、怖いからといって、諦めたいとは思わなかったの」
「お祖母様に弟子入りしたのも?」
「ええ。あれは……我慢できなかったわね。あんなに素晴らしい魔法を見せられたら」
グレゴールが小さく笑った。
「母上は今でも、セシリアが最初に来たときの話をするよ。私に会いに来たはずなのに、気づけば魔法の授業が始まっていたって」
「あなたがなかなか戻らなかったからですわ」
「それは申し訳ない」
「でも、あの日にお義母様と出会えたことも、わたくしの幸運でした」
ヴィクトルはしばらく黙って聞いていたが、やがて真剣に尋ねた。
「では、母上が自分で選ばなかったら、僕たちはここにいなかったのですか」
子どもの問いは、思いがけずまっすぐだった。
セシリアはヴィクトルを見つめ、それからクラリス、エレナ、グレゴールの腕の中のリリアへと視線を移した。
「そうね。違う未来になっていたかもしれないわ」
「……よかった」
ヴィクトルはほっとしたように息をついた。
「僕は、みんなと一緒がいいです」
「わたくしも」
クラリスがうなずく。
「私も! リリアも、そうだよね?」
エレナが末妹に話しかけると、リリアはちょうど小さなあくびをした。
「ほら、そうだって!」
「今のはあくびだよ、エレナ」
「でも、いやって言ってないもん」
その理屈には、ヴィクトルもクラリスも反論できなかった。
グレゴールは笑いながら、セシリアの隣へ腰を寄せた。
「セシリア」
「はい?」
「私は、君が来てくれた日のことを、今でもよく覚えているよ」
「……突然押しかけて、驚かせてしまいましたものね」
「驚いた。母上の弟子になっていたことにも、私を選んでくれたことにも」
彼は眠り始めたリリアを見つめた。
「でも、いちばん驚いているのは今だ。あのとき想像もできなかったほど、毎日が賑やかになった」
「後悔していらっしゃる?」
「まさか」
グレゴールは迷いなく答えた。
「君がいて、ヴィクトルがいて、クラリスがいて、エレナがいて、リリアがいる。これ以上、何を望むというんだ」
セシリアの胸が、じんわりと温かくなった。
剣のこと以外には鈍い人だと、昔は何度も思った。今でも、ときどきそう思う。
けれど、肝心なところで彼は、いつも真っすぐな言葉をくれる。
「……わたくしもです、あなた」
エレナが二人の顔を交互に見て、ぱっと手を挙げた。
「じゃあ、私も好きな剣を見つけたら、自分から迎えに行く!」
「……剣を?」
セシリアは思わず聞き返した。
「うん! 待ってるだけじゃ、誰かに先に取られちゃうかもしれないもの!」
ヴィクトルが額に手を当て、クラリスがくすくす笑う。
グレゴールは肩を震わせた。
「あなた。笑っていないで、何かおっしゃってくださいな」
「いや、セシリアに似たなと思って」
「わたくしに?」
「欲しいものを、自分の足で迎えに行くところが」
セシリアは返す言葉を探したが、結局、笑ってしまった。
その笑い声に誘われたように、リリアがグレゴールの腕の中で小さく身じろぎする。エレナは慌てて口を押さえ、ヴィクトルがそっと毛布の端を直し、クラリスは窓から差し込む光が眩しくないよう薄布を引いた。
誰に言われたわけでもなく、三人が末妹のために動いている。
セシリアはその姿を見て、胸の奥で何かが静かに満ちるのを感じた。
強い剣を持つこと。優れた魔法を使えること。遠い国に名を知られること。
どれも素晴らしい。けれど、それだけではない。
小さな手を守るために、大きな手が差し出されること。互いの言葉を聞き、失敗したら支え合えること。そんな毎日を、彼女は選んだのだ。
窓の外では、白銀の森の梢が春風に揺れていた。
かつて帝国の公爵令嬢だったセシリアは、その森の向こうにある自由を夢見ていた。
今はもう、遠くを探す必要はない。
夫の腕の中で眠るリリアと、その周りを囲むヴィクトル、クラリス、エレナ。四人の子どもたちの笑顔が、彼女の目の前にある。
「お母様、リリアが起きたら、みんなでお庭を見せてあげてもいい?」
「ええ。風が冷たくなければ、少しだけね」
「やった!」
「だから、静かにってば」
「……やった」
エレナが小声で言い直し、また笑いがこぼれた。
セシリアはグレゴールと目を合わせ、微笑んだ。
帝国公爵令嬢が自分の意思で選んだ辺境の暮らしは、今日も賑やかで、温かく、少しだけ騒がしい。
そしてその幸福の真ん中には、四人の子どもたちがいた。
(完)




