終電の四号車
階段を上って右に折れると、ちょうど四号車の乗降口に出る。午前零時、電光掲示板に描かれた「最終」の二文字が煌々と頭上に灯る。
十月の終わりだった。園原夏月は残業を終えて、帰路を辿る最終列車に乗り込んだ。中はガランと空いていて、夏月を除くと一人だけ。年齢は二十代の半ほどだろうか。明るいブラウンのボブカットに、おでこが見えるシースルー。やや丸顔で、小動物のような印象を受ける。
夏月は、その見目の良さに少しばかり見惚れてから、仮眠のために目を閉じた。十数分ほど揺られて幾つかの駅を通り過ぎると、斜め向かいに座っていた女性が降りる準備を始めた。夏月は薄く目を開けてそれを確認すると、再び目を閉じて自宅の最寄駅まで仮眠を続ける。その日はそれだけだった。
二度目の邂逅は三日後だった。同じ車両、同じ席、同じ姿勢。膝の上に鞄を置いて、そこに顎を落とすようにして眠っていた。夏月も以前と同じように、彼女の斜め向かいに腰を下ろす。プライベートの連絡が滞っていた夏月は、あくびを噛み締めながらスマートフォンを操作していた。それから十数分後、前回女性が降りた駅名のアナウンスが流れる。
ふと気になった夏月が視線を遣ると、女性は深い眠りに入っているようで、起きる気配がない。夏月は逡巡した。車内には二人以外に誰もいない。やがて、列車は速度を落とし始める。
「そろそろ着きますよ。柚宮駅」
大きな声を出すのはなんとなく憚られて、近くまで寄って声をかけた。女性は目を開けて、数秒ほどぼんやりと宙を眺めてから、夏月を見て、窓の外に視線を移した。ホームに停車してドアが開く。女性は慌てて立ち上がり、夏月に頭を下げて小走りで電車から降りていった。
電車が動きだしてから、夏月は小さく安堵の息を吐く。人助け、というほど大袈裟なことではないが、良いことをした気がして、良い気分だった。
柚宮——降りる駅の名前しか知らないため、夏月は女性を便宜上そう呼び始めた——は見かける度に最終列車で寝落ちしており、夏月は都度、柚宮を起こす役を担うようになった。
十一月に入ると車両内の暖房が入った。中旬あたりから柚宮のコートがポリエステル生地のトレンチからウール生地のダッフルに変わった。
この頃になると、夏月にもルーティーンのようなものができていた。柚宮駅の一つ手前、川を渡る鉄橋の上を通過するガタンゴトンという音が聞こえたところで顔を上げる。車掌のアナウンスが入る。そこから減速が始まるまでの間に柚宮の様子を窺う。
長いまつげが作る影。少しだけ開いた口。頬に刻まれた髪の毛の跡。斜向かいからは、柚宮の姿が余すことなく見えた。
やがて、列車がホームに入るあたりで夏月は柚宮のもとへ歩み寄り、そっと目覚ましの声をかける。柚宮は頬を赤く染め、律儀に感謝を述べてから電車を降りていく。
世間話を交わす訳でもなく、粛々と、そのやり取りだけが繰り返される。
十二月は人が増えた。師走というぐらいだから、残業戦士が増えるのだろう。忘年会帰りらしい集団もよく見かけるようになった。警戒心の表れか、柚宮は夏月以外の第三者がいるときは起きていた。起こす役割が果たせなくなったことに、夏月は少しばかりの寂しさを抱くようになっていた。
年末年始は柚宮との接点が無くなった。社畜の夏月にも気持ち程度の休みはある。実家でぼんやりしていると、柚宮の寝姿が思い出され――思い出すことに他意は無いのだと誰にでもなく言い訳をした。
二ヶ月と少し、週に三日か四日、十数分ずつ。積み上げれば、それなりの時間になっていた。
一月五日、仕事始めの夜。午夜の四号車に乗り込むと、やはりと言うべきか柚宮はいた。ただ、眠ってはいなかった。
柚宮と夏月の視線が交錯した。けれど、それも一瞬で、柚宮はすぐに手元のスマートフォンに視線を落とした。夏月は、いつもの斜向かいに座った。
なにか声をかけたほうがいいだろうか。せっかく起きているのだし、世間話でも?
夏月は迷い、結局、声をかける勇気が出ずに柚宮駅で彼女が降りていく背中を見届けた。
その日から柚宮の姿を見かけることは無くなった。
◆
名前は知らない。連絡先も知らない。写真の一枚も持っていない。
降りる駅は知っている。だいたいの背格好もわかる。眠るときは左重心になる癖も把握している。
でも、それだけだ。
病気か、事故か、転勤か。あるいは出張、勤務シフトの変化、通勤手段の変化。恋人ができて、迎えに来てもらっているのかもしれない。
柚宮を見かけなくなってから半月、一人きりの四号車でそればかり考えている。終わりはあまりにも唐突で、前触れなどもなかった。
柚宮駅に着いた。ドアが開いて、閉まる。
どうして彼女のことがそんなに気になるのだろうか。夏月は眠るフリをして瞼の裏にその姿を思い描く。一度くらい、言葉を交わしてみればよかった。そんな後悔が胸の内を去来した。
プロジェクトの鎮火に伴ってしばらくぶりの定時退社を果たした夏月は、思い立って柚宮駅で降りてみることにした。なんとなく、足取りを辿ってみたかった。改札を出ると、送迎用のロータリーと駐輪場の他には何も無かった。近隣住民が生活のために利用するだけの小さな駅。夏月は五分ほどうろついてから、めぼしい収穫が無いと踏んで上りのホームに戻った。
翌日の終電で夏月は電車の中を歩いた。四号車から一号車まで、乗客の顔を盗み見る。踵を返して五、六、七。八両編成の端まで行って、また戻った。
途中、大学生らしき男女のカップルが胡散臭そうに夏月を目で追った。深夜の電車を端から端まで往復している不審者。呼び止められたら何と説明しようか。顔見知りを探しています。名前は知りません。二十代半ばくらいの女の人で、いつもこの電車で寝ていて。
馬鹿らしいな、と思い至った夏月は四号車の空席に腰を下ろした。
鉄橋の上を通過する。アナウンスが入る。夏月は顔を上げて、誰もいない席を見て、想う。もしあの人が座っていたとして、何を話すだろうか。
柚宮駅を見送って、夏月が降りる駅に着く。ホームに降りると、寒風がコートの裾を持ち上げた。
◆
二月初週の土曜日、夏月は後輩の結婚祝いを買うために少しばかりの遠出をしていた。街中にある総合商業施設、一階にあるリカーショップで贈答品を吟味する。後輩は日本酒が好きだと言っていて、贈るならそれだろう。後輩は二十八歳で、晴れて寿退社を果たす。
少し背伸びした値段の日本酒を購入した夏月は熨斗紙をつけてもらっている間、ぼんやりと思いを馳せていた。夏月も今年で三十になる。いつまでも今のような働き方はできないだろう。身の振り方を考えなければならない。
贈答品を後輩の新居宛に送る手続きを済ませて、用事がなくなった夏月は館内を見て回ることにした。化粧品類を取り扱う店舗に立ち寄り、声をかけられそうになったところでそそくさと退散、上りのエスカレーターに乗って二階のカフェで小休止し、映画でも観に行こうかと思い立って四階へ。チケットを購入して小一時間の暇ができた夏月は三階に降りて本屋に向かう。適当な新書を買ってカフェでもう一度時間を潰そう――そんなことを考えていたところだった。
本屋に柚宮がいた。
偶然。
見慣れたウールのダッフルコートを腕に提げながら、手に取った漫画の表紙を見つめていた。
「えっ」
驚きのあまり、夏月の喉から声が漏れる。その声に導かれるように柚宮が顔を上げる。
視線が交錯した。
瞬間、柚宮は目を見開き、口を開けて、閉じて――それから頬をほんのりと色づかせた。
「こんにちは」
「こんにちは」
社会人的な挨拶。柚宮は手にしていた漫画を慌てて平台に戻した。
「あの」夏月が口火を切る。「最近、お見かけしなくて」
言ってから、もっと別の話題から迂回すべきだったかと後悔した。
柚宮はバツが悪そうに「転職したんです。二月から。勤め先が変わって」
「あ……そうだったんですね」
「はい。いまは別の路線を使ってて。だから、あの電車には、もう」
病気でも事故でもなかった。ただ職場が変わって、乗る電車が変わった。その事実に夏月はひとまず安堵していた。
「……」
「……」
二人の間に僅かな沈黙が落ちる。
夏月は何か話題がないかと思考を巡らせる。今日はお買い物ですか。職場はどの辺りになったんですか。思いつくものは色々あったが、どれも言葉にはならなかった。
寝ていた人と、起こす人。世間話をする間柄かと問われれば、たぶん違う。話したいのに話せないもどかしさが夏月の中に募る。
「あの!」
先に声を出したのは柚宮だった。思いのほか大きな声に夏月は目を丸くする。
「すみません、その、えっと」
やがて、柚宮は一つ呼吸を置く。アーモンド型の瞳が夏月を真摯に見据える。
「仕事始めの日、私、起きてたじゃないですか」
夏月は言葉の意味を汲みかねて首を傾げる。柚宮は僅かに眉尻を下げて、
「お礼を言おうと思ってたんです。本当は年末のタイミングで、ちゃんとお礼を言おうと思ってて、でも最後の日が送別会で、電車に乗れなくて」
それで終わっちゃって。
「だから仕事始めの日、用事もないのに終電に乗りました。乗れば会えるかもって、思って」
夏月は、あの夜のことを思い出していた。
一月五日。乗り込んだ四号車に、柚宮はいた。ただ、眠っていなかった。一瞬だけ目が合って、声をかけたほうがいいだろうかと迷って、迷ったまま柚宮駅で降りていく背中を見送った。
柚宮は続ける。
「でも、お姉さんに会えたのに、うまく切り出せなくて。スマホ見てるふりして、心臓ばくばくで」
ずっと蟠りがあったのか、胸の内をすべて吐き出す勢いで柚宮は言葉を紡ぐ。まくし立てているためか、耳まで赤くなっている。
「結局、何も言えないまま柚宮で降りて。ホームで電車が行っちゃうのを見送ってから、後悔ばっかで」
同じだ、と夏月は思った。あの夜、二人とも同じ失敗をしていた。
そこまでの独白を聞いて夏月は、
「私も、同じです」
「え?」
「あの日、声をかけようか迷ってました。せっかくだし、なにかお話をしてみようかな、と」
夏月の言葉に柚宮が目を見開く。
「私も勇気が出ませんでした。柚宮駅で降りていく背中を、何もしないまま見送ってしまって」
声をかけそびれた。それだけのことだ。それだけのことではあるが、ずっと気がかりだった。
「あの」柚宮が言った。「お礼を言わせてください」
夏月が返事をする前に柚宮は深く頭を下げた。
「毎晩起こしてくださって、本当にありがとうございました」
夏月は慌てて周囲を見回し、それから、自分も少し頭を下げた。
「……どういたしまして」
「すっきりしました」
「よかったです」
「よくないです」柚宮はいたずらっぽく笑って「今度は、お姉さんともっと話したくなっちゃいました」
夏月は、顔が熱を持つのがわかった。だから、それを誤魔化すように言う。
「今から、お時間ありますか」
◆
施設内のカフェで、小さなテーブルを挟んで二人は対面していた。カフェオレを一口含んでから柚宮は言った。
「鉄橋の上を通るときの音でわかるんですよ。そろそろだな~って。だから、あのへんはもう半分起きてて。もうすぐ来る! っていう時間があって」
柚宮は笑う。愛らしい顔の頬に笑くぼができることを、夏月はこのとき初めて知った。
「正直、寝たフリしてました。三回目から」
「……どうしてですか?」
「起こされたかったので」
あっけらかんと放たれた言葉の意味を、夏月は一拍遅れて理解する。鈍感なつもりはないが――夏月はどう受け止めるべきかを保留した。
「すみません」柚宮が平謝りする。
「いえ、私もやぶさかではなかったので」夏月がフォローする。
「優しいですよね。桜坂さん」
「おうさか……?」
「あ」
柚宮がパッと口を押さえる。
「すみません、お姉さん、いつも桜坂駅から乗ってくるから私の中で勝手にそう呼んでて……」
それを聞いて、夏月は思わず吹き出す。そんな偶然、あるだろうか。
「私も柚宮さんってあだ名を付けてました。頭の中で」
「え? あっ、柚宮で降りるから?」
「そうです」
「えー、そんなことってあります?」
柚宮と夏月は顔を見合わせて笑う。
それから、
「藤代ちひろっていいます」
「園原夏月です」
「園原さん」
「はい」
「やっぱり、夏月さんってお呼びしても?」
「いいですよ。私は……」
「ちひろで!」
「ちひろさん」
「はーい!」
他愛のないやりとりに夏月も笑みをこぼす。
ひとたび話を始めてみれば、驚くほどスムーズに話題が紡がれていった。話してみると三つしか年齢が違わず、共通の趣味も多いらしい。
「新しい職場はどうですか」
「すごいですよ。定時になると人がいなくなるんです。帰りの電車が満員になってるところに出くわすのなんていつぶりだろうって感じで。夏月さんは……」
ちひろが何かを尋ねようとしたところで、テーブルの上に置いていた夏月のスマートフォンが震えた。画面には上映十五分前を知らせる通知が出ている。
「次の予定ですか?」ちひろが訊く。
「この後、映画を観に行くんです」
「何の映画ですか」
夏月がタイトルを答えると、ちひろが目を輝かせた。
「それ、気になってたんですよね」
ちひろは言葉を切って、それから、上目遣いで探るように夏月を見た。
「ご迷惑じゃなかったら、私も一緒に観ていいですか?」
「ぜひ。四階です。行きましょう」
それからの映画の内容を、正直、夏月はあまり覚えていない。けれど、肘掛けの上で何度か手が触れて、そのたびに暗がりの中で視線が交わったこと。それから、ちひろが感動で涙を流す姿を横目に見て綺麗だと思ったことだけは鮮明に覚えている。
◆
二人は肩を寄せて映画の感想を語り合いながら駅に向かって歩いていた。
「ちひろさん、泣いてましたね」
「泣いてないです〜」
「強がらなくても」
「む~」
夏月は小さく笑った。ちひろは口をとがらせて、それから諦めたように、ちょっとだけです、と言った。
「連絡先」ちひろがポケットを探る。「交換してください」
「はい」
二人でスマートフォンを取り出して、QRコードで互いのアカウントを登録する。夏月の手元に『藤代ちひろ』と表示される。アイコンは何かの花の写真だった。
「夏月さん」
「はい」
「来週の土曜、空いてますか」
夏月は顔を上げた。
「空けます」
「ふふっ……いいですね、それ」
街路樹の下を二人は並んで歩いた。居酒屋の呼び込みと信号待ちの人だかり。どこかの店から漏れてくる背景音楽。
駅の明かりが見えてきたあたりで、ちひろが徐に歩調を緩めた。
「夏月さんは、どうして私を起こしてくれてたんですか?」
夏月は足を止めた。ちひろは一歩先で振り返る。
「最初は、乗り過ごしたら困るだろうな、と思って。でも」
続く言葉を口にするまでに数秒を要した。
「ちひろさんに、良く思われたくて」
横断歩道の信号が青に変わり、人が流れ出す。
ちひろは、はにかんだ。
「じゃあ、両想いってことですよ! 私たち!」
ご機嫌な声とともに夏月の右手が取られる。ちひろの手は温かくて、夏月の冷えた手と熱が混ざり合う。二人は駆けるようにして横断歩道をわたり、改札の手前まで来る。ちひろはここから別の路線に乗る。
繋いだ手がほどかれる。ちひろはほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
「また会いたいです」
「はい」夏月は答えた。「私もです。来週、楽しみにしています」
ちひろは頷いて、改札に向かい、途中で一度だけ振り返って、小さく手を振った。
夏月も手を上げて、それに応じた。
◆
帰りの列車は混んでいた。夏月は乗降口の脇に立って窓から外の景色を眺める。ガラスには綻んだ表情をした自分の顔が映っていた。
列車が桜坂駅に着く。この駅の名前で呼ばれていたのだと思うと、可笑しかった。
鉄橋にさしかかり、音が変わった。柚宮駅に着いて、ドアが開き、何人かが降りて、閉まる。ホームが後ろへ流れていくのを最後まで見ていた。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
藤代ちひろ、と表示が出ている。
夏月は返事を打った。打って、消して、また打った。送信ボタンを押すまでに二駅かかった。
通知の一覧には転職サイトの求人案内メールも並んでいた。夏月は少し迷ってから一通開いてみる。中身は自動で送られてきた求人の羅列だった。読んでも読まなくても、たぶん、今日は何も変わらない。それでも、何も変わらなくても、目を通してみることにした。
電車を降りて、階段を下りて、改札を抜ける。
帰路を歩いてたどりながら、スマートフォンを取り出してチャット履歴のいちばん上を確かめる。先ほど送ったメッセージには既読が付いていて、犬のスタンプが送り返されていた。
なんとなく、それだけで終わらせたくなくて。
用件もないのに声が聞きたくなった。
夏月は立ち止まって、白い息を吐いて、通話のボタンを押した。




