ゼロの刑期
午前三時。
パソコンの画面だけが、暗い部屋を照らしていた。
川島拓也、二十八歳。フリーランスのプログラマー。六畳一間のアパートで、一人暮らし。
キーボードを叩く音だけが、静寂を破っていた。
カタカタカタカタ。
止まらない。止められない。
もう十八時間、椅子に座り続けている。
「あと少し……あと少しで……」
拓也は、画面に表示されるコードを見つめた。
クライアントから依頼されたシステム。納期は明日の正午。報酬は三十万円。
でも、それだけではない。
拓也には、別の目的があった。
通帳の残高を、百万円にする。
それが、拓也の強迫観念だった。
いや、「強迫観念」というより、「生存本能」に近かった。
百万円。
それがあれば、一年は生きられる。
それがなければ——死ぬ。
拓也は、常にそう考えていた。
拓也は、捨て子だった。
記憶にある最初の場所は、児童養護施設。
三歳の時、公園のベンチに置き去りにされていたらしい。
親の顔も、名前も、何も分からない。
「川島拓也」という名前は、施設の職員がつけたものだ。
施設での生活は、苦しかった。
他の子供たちは、いつか親が迎えに来ると信じていた。
でも、拓也には、その希望すらなかった。
自分を捨てた親が、戻ってくるわけがない。
十八歳で施設を出た。
行く場所はなかった。
住み込みの工場で働いた。給料は安かった。
でも、働かなければ死ぬ。
それが、拓也の人生だった。
「生きる」ということ。
それは、拓也にとって「刑罰」だった。
望んで生まれたわけじゃない。
望んで捨てられたわけじゃない。
でも、生きなければならない。
死ぬまで。
それは、終身刑と同じだった。
二十歳の時、拓也はパソコンに出会った。
工場の休憩室に、古いパソコンが置いてあった。
誰も使わない、埃をかぶったパソコン。
拓也は、それを触った。
そして——世界が開けた。
プログラミング。
コードを書けば、何でもできる。
システムを作れる。アプリを作れる。ゲームを作れる。
そして——お金を稼げる。
拓也は、独学でプログラミングを学んだ。
図書館で本を借り、ネットで情報を集め、毎晩コードを書いた。
三年後、拓也はフリーランスとして独立した。
クラウドソーシングで仕事を受注し、納品し、報酬を得る。
最初は、月に五万円しか稼げなかった。
でも、次第に増えていった。
十万。二十万。三十万。
そして今、拓也の月収は平均四十万円。
施設にいた頃からすれば、信じられない額だった。
最下層——捨て子、養護施設、工場労働者——から、中流階級へ。
でも、拓也に安心はなかった。
毎月、強迫観念のように考えていた。
「来月、仕事がなくなったら?」
「病気になったら?」
「もう稼げなくなったら?」
だから、貯金をする。
百万円。それが最低ライン。
常に、百万円以上を口座に残しておく。
それが、拓也のルールだった。
でも——
先月、そのルールを破ってしまった。
歯の治療で、三十万円かかった。
保険がきかない、自費診療。
支払った後、通帳の残高は七十万円になった。
それから、拓也は眠れなくなった。
毎晩、不安に襲われた。
「七十万円しかない」
「足りない」
「もっと稼がなければ」
だから、今も、こうしてコードを書き続けている。
午前三時。
もう限界だった。
目がかすむ。頭が痛い。
でも、止められない。
「あと少し……」
その時、パソコンの画面が、フリーズした。
「え……?」
拓也は、キーボードを叩いた。
反応しない。
マウスを動かした。
カーソルが、動かない。
「嘘だろ……」
拓也の顔が、青ざめた。
保存していなかった。
ここ三時間分のコードが、消える。
「待って、待って……」
拓也は、パソコンを再起動した。
祈るような気持ちで、待った。
画面が、立ち上がった。
ファイルを開く。
最後に保存したのは——三時間前。
やはり、消えていた。
拓也は、机に突っ伏した。
「終わった……」
納期に、間に合わない。
三十万円が、消えた。
そして——通帳の残高は、七十万円のまま。
拓也の目から、涙がこぼれた。
悔しさ。疲労。そして——絶望。
「なんで……なんで俺は、こんなに……」
拓也は、自分の人生を呪った。
生まれてこなければよかった。
捨てられた時、死んでいればよかった。
こんな終身刑、耐えられない。
その時、スマートフォンが鳴った。
メールの通知。
拓也は、顔を上げた。
クライアントからだった。
『川島様
急な変更で申し訳ありませんが、納期を三日延長してもらえませんか?
こちらの都合で、システムの仕様が変わりました。
報酬も、四十万円に増額します。
ご検討ください』
拓也は、画面を見つめた。
納期延長。
報酬増額。
「助かった……」
拓也は、泣き笑いをした。
救われた。
ギリギリで、救われた。
でも——
拓也は、気づいた。
この繰り返しだ。
いつも、ギリギリで生きている。
いつも、不安に怯えている。
いつも、追い詰められている。
これが、自分の人生。
終身刑。
そして、この刑期に、終わりはない。
翌日、拓也は久しぶりに外出した。
コンビニで食料を買い、銀行で記帳し、公園を歩いた。
秋の空は高く、風が心地よかった。
でも、拓也の心は晴れなかった。
ベンチに座って、通帳を見つめた。
残高:七十万円。
「あと三十万……」
その時、隣のベンチに、一人の男性が座った。
五十代くらいか。スーツを着た、疲れた顔の男性。
男性は、大きなため息をついた。
「もう、限界だな……」
拓也は、聞こえないふりをした。
でも、男性は独り言を続けた。
「会社、潰れる。借金、返せない。家族に、何て言えばいいんだ……」
拓也は、男性を横目で見た。
男性の目は、虚ろだった。
そして——男性は、立ち上がった。
公園の池の方へ、歩いていった。
拓也は、嫌な予感がした。
男性の歩き方。表情。
まるで——
拓也は、立ち上がった。
男性の後を追った。
池のほとりに、男性が立っていた。
「おい!」
拓也は、叫んだ。
男性が、振り返った。
「何だ?」
「あんた……何するつもりだ」
男性は、笑った。
空虚な笑い。
「何って、決まってるだろ」
男性は、池を見た。
「終わらせる。この刑期を」
拓也の心臓が、跳ねた。
「生きるという終身刑」。
男性も、同じことを考えている。
「待てよ」
拓也は、男性に近づいた。
「そんなことしても、何も解決しない」
「分かってる。でも——」
男性は、拓也を見た。
「もう、疲れたんだ。生きることに」
拓也は、言葉を失った。
その気持ち、分かる。
自分も、何度も思った。
でも——
「あんたには、家族がいるんだろ?」
「ああ。妻と、娘が」
「なら、死ぬな」
拓也は、強い口調で言った。
「家族がいるなら、生きろ。たとえ苦しくても」
男性は、拓也を見つめた。
「お前に、何が分かる」
「分かるよ」
拓也は、自分の胸を叩いた。
「俺は、捨て子だ。親に捨てられた。家族なんて、最初からいなかった」
男性の目が、見開いた。
「でも、俺は生きてる。生きなきゃいけないから。この終身刑を、全うしなきゃいけないから」
拓也の声が、震えた。
「あんたには、家族がいる。帰りを待ってる人がいる。それだけで、羨ましいよ」
男性は、何も言わなかった。
そして——座り込んだ。
顔を、両手で覆った。
「すまない……すまない……」
男性は、泣いていた。
拓也は、男性の隣に座った。
しばらく、二人は黙っていた。
風が、木々を揺らしていた。
「ありがとう」
男性が、ようやく言った。
「お前のおかげで、踏みとどまれた」
「いや……」
拓也は、首を振った。
「俺も、自分に言い聞かせてたんだ。生きなきゃいけないって」
男性は、拓也の顔をまじまじと見た。
「お前、優しいな」
拓也は、驚いた。
「優しい? 俺が?」
「ああ。見ず知らずの俺を、止めてくれた」
男性は、立ち上がった。
「もう、大丈夫だ。家に帰る。家族に、ちゃんと話す」
「そうか」
「お前も、頑張れよ」
男性は、拓也の肩を叩いた。
「捨て子だろうと何だろうと、お前は立派に生きてる」
男性は、去っていった。
拓也は、一人ベンチに座った。
そして——気づいた。
今、自分は何をしたのか。
誰かを、救った。
見ず知らずの人を、死から引き戻した。
それは——
拓也の脳裏に、古い記憶が蘇った。
十五年前。
拓也が十三歳の時。
施設で、一人の少年がいた。
同じ年の、内気な少年。
ある日、少年は施設の屋上から飛び降りようとした。
拓也は、それを見た。
でも——止めなかった。
「どうせ、俺たちは捨てられた子供だ」
「生きてたって、意味がない」
拓也は、そう思っていた。
だから、止めなかった。
そして、少年は——飛び降りた。
少年は、死んだ。
それが、拓也の罪だった。
止められたのに、止めなかった。
その罪悪感が、十五年間、拓也を苦しめてきた。
だから、拓也は必死に働いた。
お金を稼いだ。
生きることに執着した。
それは、贖罪だった。
あの時、少年を見殺しにした罪を償うために、自分は必死に生きなければならない。
それが、拓也の強迫観念の正体だった。
でも、今日——
拓也は、一人の男性を救った。
止めた。
あの時、できなかったことを、今日、やった。
拓也の目から、涙がこぼれた。
「やっと……やっと、できたのか……」
十五年間の罪悪感が、少しだけ軽くなった気がした。
拓也は、空を見上げた。
青い空。白い雲。
「俺は、変われるのか?」
拓也は、自問した。
お金に執着する、不安に怯える自分から。
誰かを助けられる、優しい自分へ。
でも——変われるのだろうか?
拓也には、分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことがあった。
自分の中に、優しさがある。
それは、偽りではなく、本物だ。
男性が言った。
「お前、優しいな」
それは、お世辞ではなく、真実だった。
拓也の本質。
それは、お金や生存本能の奥に隠れていた——優しさだった。
でも、その優しさを、どう使えばいいのか。
拓也には、まだ分からなかった。
その夜、拓也は久しぶりにぐっすり眠った。
悪夢も見なかった。
そして、翌朝——
スマートフォンに、一通のメッセージが届いていた。
差出人不明。
『川島拓也様
あなたに、お願いがあります。
会って、話がしたい。
今日の午後三時、駅前の喫茶店で。
来てくれますか?
——ある過去を知る者より』
拓也は、画面を見つめた。
「ある過去を知る者」?
誰だ?
そして、何の過去を?
拓也の胸に、不安と期待が入り混じった。
これは——何かの始まりなのか?
それとも、新しい罰なのか?
午後三時。
拓也は、喫茶店「エスペランサ」の前に立っていた。
古い喫茶店。看板には、スペイン語で「希望」と書かれていた。
拓也は、深呼吸をして、扉を開けた。
店内は、静かだった。
客は、二人だけ。
窓際のテーブルに、一人の女性が座っていた。
二十代半ば。黒いワンピース。長い髪。穏やかな顔立ち。
女性は、拓也を見て、立ち上がった。
「川島拓也さん、ですね?」
「ええ」
拓也は、警戒しながら答えた。
「あなたは?」
「私は、松本彩。松本健太の妹です」
拓也の心臓が、止まった。
「松本健太……」
「はい。十五年前、あなたと同じ施設にいた兄です」
拓也の顔が、青ざめた。
健太。
あの、屋上から飛び降りた少年。
「どうして……俺のことを……」
「施設の記録を調べました。兄と同じ部屋にいた子供たち。そして——」
彩は、拓也の目を見た。
「兄が亡くなる前日、日記に書いていたんです。『拓也は、俺のことを理解してくれる唯一の友達だ』と」
拓也は、言葉を失った。
友達。
健太は、自分をそう思っていたのか。
「座ってください」
彩が、促した。
拓也は、椅子に座った。
手が、震えていた。
「何の用ですか?」
拓也は、なんとか声を出した。
彩は、コーヒーを一口飲んでから、話し始めた。
「川島さん、あなたは兄の死を、自分のせいだと思っていますか?」
拓也は、答えられなかった。
「施設の職員から聞きました。あの日、あなたは屋上にいた。兄を見た。でも、止めなかった」
「……すみません」
拓也は、頭を下げた。
「俺が……止めていれば……」
「いいえ」
彩は、首を振った。
「あなたのせいじゃありません」
彩は、静かに続けた。
「兄は、誰にも止められませんでした。あの時、止めたとしても、いつか——」
彩の目に、涙が浮かんだ。
「でも、私は恨んでいません。あなたも、苦しんでいたんでしょう?」
拓也は、顔を上げた。
「なぜ、そう思うんですか?」
「だって、あなたは生きている。必死に生きている。それは——」
彩は、拓也の目を見た。
「贖罪のためでしょう?」
拓也の目から、涙がこぼれた。
「ええ……そうです。俺は、生きることで……罪を償おうとしてきました」
「分かります」
彩は、微笑んだ。
「私も、同じでした。兄を救えなかった。だから、他の誰かを救わなければならないと」
「あなたも……」
「ええ。だから、今、児童養護施設の子供たちを支援するNPOを立ち上げようとしています」
彩は、カバンから資料を取り出した。
「『エスペランサ』。スペイン語で『希望』という意味です」
拓也は、資料を見た。
そこには、NPOの計画が書かれていた。
施設の子供たちに、無料でパソコンとプログラミングを教える。
就職支援をする。
心のケアをする。
「でも、資金が足りないんです」
彩は、困った顔で言った。
「行政の補助金を申請していますが、審査に時間がかかる。それまでの運営資金が——」
「いくら、必要ですか?」
拓也は、聞いた。
彩は、驚いた顔で拓也を見た。
「え……」
「いくら、あればスタートできますか?」
「最低でも……五十万円。できれば、百万円あれば——」
拓也は、立ち上がった。
「分かりました」
「え?」
「俺が、出します」
拓也は、決意を込めて言った。
「百万円。そして、プログラミングの授業は、俺が無償で教えます」
彩の目が、見開いた。
「でも……あなたは……」
「俺は、フリーランスのプログラマーです。貯金が、少しあります」
拓也は、微笑んだ。
「そして——これが、俺にできる贖罪です」
彩の目から、涙がこぼれた。
「ありがとう……ありがとうございます……」
拓也は、震える手でスマートフォンを取り出した。
銀行アプリを開く。
残高:七十万円。
足りない。
でも——
拓也は、決めた。
来月の収入、四十万円。
それも、全部使う。
貯金ゼロになる。
でも、いい。
これが、正しいことだ。
「一週間、待ってください。来月の報酬が入ったら、すぐに振り込みます」
「本当に、いいんですか?」
彩は、心配そうに聞いた。
「あなたの生活は——」
「大丈夫です」
拓也は、笑った。
初めて、心からの笑顔だった。
「俺は、生きていける。お金がゼロになっても、また稼げばいい」
拓也は、初めて気づいた。
自分には、スキルがある。
パソコンがある。
働ける体がある。
だから、ゼロから始めても、また稼げる。
百万円の貯金は、安心のためだった。
でも、本当の安心は——貯金ではなく、自分自身の能力にあった。
「ありがとう、川島さん」
彩は、深く頭を下げた。
「あなたは、兄の友達です。そして——これから、私の仲間です」
拓也は、手を差し出した。
「よろしく、彩さん」
二人は、握手をした。
そして、エスペランサの計画が動き始めた。
次の一ヶ月は、拓也の人生で最も過酷な時間だった。
昼は、クライアントの仕事。
夜は、エスペランサのシステム開発。
睡眠時間は、一日三時間。
食事は、カップ麺とコンビニ弁当。
でも——不思議と、苦しくなかった。
以前は、お金のために働いていた。
恐怖のために、働いていた。
でも、今は違う。
誰かのために、働いている。
施設の子供たちのために。
健太のために。
そして——自分自身のために。
拓也は、エスペランサのウェブサイトを作った。
オンライン学習システムを構築した。
プログラミングの教材を、自分で執筆した。
そして——驚いたことに、それは楽しかった。
コードを書くことが、初めて「楽しい」と感じた。
一ヶ月後、システムが完成した。
そして、約束通り、拓也は百万円を振り込んだ。
通帳の残高:三万円。
拓也は、通帳を見て、深呼吸をした。
怖い。
でも——
同時に、解放された気がした。
百万円という呪縛から。
お金への執着から。
拓也は、もう「生きるという終身刑」を感じていなかった。
生きることが——初めて、「希望」に思えた。
エスペランサは、翌月、正式にオープンした。
最初の生徒は、五人。
施設の子供たち。
拓也は、週に二回、施設を訪れて授業をした。
最初は、緊張した。
十五年ぶりに戻る、施設。
あの時の記憶が、蘇ってくる。
でも——
子供たちの目を見た時、拓也は決意を新たにした。
この子たちには、希望を与えよう。
パソコンが、世界を広げることを。
プログラミングが、未来を変えることを。
「先生、これで合ってますか?」
一人の少年が、画面を見せてきた。
拓也は、コードを確認した。
「いいね。ちゃんと動いてるよ」
少年の顔が、輝いた。
「やった!」
その笑顔を見て、拓也の胸が熱くなった。
ああ、これか。
これが、生きる意味か。
誰かの笑顔のために。
誰かの希望のために。
それが、生きる理由。
でも——
現実は、甘くなかった。
エスペランサの運営は、困難だった。
資金は、すぐに底をついた。
設備費、光熱費、教材費。
百万円では、三ヶ月しか持たなかった。
彩は、必死に寄付を集めた。
でも、なかなか集まらなかった。
「川島さん、申し訳ありません……」
彩は、泣きそうな顔で言った。
「このままでは、来月で閉鎖しなければ……」
拓也は、考えた。
どうすればいい?
お金がない。
でも、子供たちの希望を、ここで終わらせるわけにはいかない。
その時——
拓也は、ある考えが浮かんだ。
「彩さん、クラウドファンディングをやりましょう」
「クラウドファンディング?」
「ええ。ネットで、広く寄付を募るんです」
拓也は、パソコンを開いた。
「俺が、サイトを作ります。そして、エスペランサの活動を、動画で紹介する」
拓也は、プログラミングの授業を動画に撮った。
子供たちの笑顔を。
学ぶ姿を。
そして、彩のメッセージを。
拓也は、編集して、クラウドファンディングサイトに投稿した。
タイトルは——
『捨てられた子供たちに、希望のプログラミングを』
拓也は、自分の過去も書いた。
捨て子だったこと。
施設で育ったこと。
友人を失ったこと。
そして——今、贖罪として、子供たちに教えていること。
投稿した次の日——
反応が、爆発的に広がった。
SNSで拡散され、ニュースサイトに取り上げられた。
そして——
寄付が、集まり始めた。
千円、五千円、一万円。
見ず知らずの人たちが、次々と寄付をしてくれた。
一週間で、百万円を超えた。
二週間で、三百万円。
一ヶ月後——
目標の五百万円を達成した。
拓也と彩は、抱き合って喜んだ。
「やった……やったよ、川島さん!」
「ああ……信じられない……」
拓也の目から、涙が溢れた。
半年後。
エスペランサは、生徒数が三十人に増えていた。
拓也は、フリーランスの仕事を半分に減らし、週の半分をエスペランサに費やしていた。
収入は減った。
貯金は、相変わらず少ない。
でも——
拓也は、幸せだった。
ある日、授業が終わった後、一人の少年が拓也に声をかけてきた。
「先生、俺、プログラマーになりたいです」
拓也は、少年を見た。
十五歳。施設で育った少年。
かつての自分と、同じ。
「なれるよ」
拓也は、微笑んだ。
「お前には、才能がある。あとは、諦めないこと」
「先生みたいに?」
「ああ。俺も、諦めなかった。だから、ここにいる」
少年の目が、輝いた。
「ありがとうございます!」
少年が去った後、彩が拓也に声をかけた。
「川島さん、あなた、変わりましたね」
「そうですか?」
「ええ。最初に会った時、あなたの目は——」
彩は、言葉を選んだ。
「死んでいるように見えました。でも、今は違う。生きている」
拓也は、窓の外を見た。
夕陽が、街を照らしていた。
「俺、ずっと思ってたんです。生きることは、刑罰だって」
「刑罰?」
「ええ。生まれたくて生まれたわけじゃない。捨てられた。でも、死ぬまで生きなきゃいけない。それは、終身刑だって」
拓也は、彩を見た。
「でも、違ったんです」
「何が?」
「生きることは、刑罰じゃなかった。機会だった」
拓也の目に、涙が浮かんだ。
「誰かを救う機会。誰かに希望を与える機会。そして——自分自身を救う機会」
彩は、拓也の手を握った。
「兄も、きっと喜んでいます」
「健太……」
拓也は、空を見上げた。
「ありがとう。お前のおかげで、俺は変われた」
その夜、拓也はアパートに帰って、パソコンを開いた。
銀行の残高を確認する。
十五万円。
以前なら、不安で眠れなかった額。
でも、今は——
拓也は、微笑んだ。
「これで、いいんだ」
拓也は、新しいファイルを開いた。
そして、タイトルを打った。
『ゼロから始めるプログラミング教室——捨てられた子供たちへ』
拓也は、教科書を書き始めた。
無料で公開する教科書。
誰でも、どこでも、学べる教科書。
施設にいる子供たち。
貧しい家庭の子供たち。
夢を諦めかけている子供たち。
そのすべてに、希望を。
拓也の指が、キーボードを叩いた。
カタカタカタカタ。
でも、今は違う。
恐怖で打っているのではない。
希望で打っている。
拓也は、もう「生きるという終身刑」の囚人ではなかった。
今、拓也は——
「希望を与える刑期」を生きていた。
それは、自ら選んだ刑期。
終わりのない、でも苦しくない刑期。
誰かのために。
そして、自分自身のために。
窓の外では、星が輝いていた。
拓也は、キーボードを打ち続けた。
もう、止まらない。
止める必要もない。
これが、拓也の新しい人生、本当の自分。
お金に支配される人間から、希望を与える人間へ。
その変化は、もう不可逆だった。
戻れない。
戻る必要もない。
拓也は、ようやく——
自分の名前を、受け入れることができた。
川島拓也。
施設の職員がつけた、意味のない名前。
でも、今は違う。
この名前で、誰かを救えた。
この名前で、希望を与えられた。
この名前で、生きていける。
拓也は、小さく呟いた。
「ありがとう、健太」
そして——
「ありがとう、俺」
パソコンの画面が、優しく光っていた。
拓也の新しい刑期——希望の刑期が、始まっていた。




