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5.心の痛み

「フローリア! あなた、ここを辞めるって……本当なの?」


 研究室の片づけを始めて、どれくらい経っただろう。


 背後で扉が勢いよく開き、振り返ると、ソフィアとウィリアムが立っていた。ふたりとも、息を切らし、表情には隠しきれない動揺が浮かんでいる。心配と驚きが混じったその顔を見た瞬間、胸の奥に、言葉にしづらい感情が込み上げた。



 来てくれたことは、嬉しい。でも、どうしても素直に喜べない。



「……自分から辞めるわけじゃないの」


 私は、できるだけ平静を装って答えた。



「首、なんだって」


 その一言で、空気が変わった。部屋の中が、急に重く沈み込む。



「そ、そんな……」


 ソフィアが、言葉を失ったように目を見開く。


「同期は三人しかいないのに……。それに、フローリアがいなくなったら、寂しいわ」


「ああ……」


 ウィリアムも、困ったように眉を寄せた。



「今まで、三人で一緒に頑張ってきたのに……」


 その言葉は、きっと本心なのだろう。嘘ではないし、優しさもある。


 でも。「一緒に頑張ってきた」という言葉が、胸に引っかかった。



 本当に、同じだけの重さを背負っていたのだろうか。

 同じ立場で、同じ評価を受けてきたのだろうか。


 そう思ってしまう自分を、責めながらも、言葉にはできない。


 再び、沈黙が降りた。



 私は、机の上に残った最後の器具にそっと触れ、視線を落としたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。




「……これから、どうするんだ?」


 ウィリアムが、慎重に言葉を選ぶように問いかけてきた。



「とりあえず、寮は、明日には出なきゃいけないから」


 私は、机の端を見つめたまま答える。



「実家に帰ろうと思ってる。でも……帰ったら、きっと縁談の話が進んで、結婚して……もう、薬学に関わることはできなくなると思う」


 言葉にしてしまった途端、喉の奥が痛くなった。



「どうしよう」


 小さく漏れたその声に、ふたりは顔を見合わせた。そして、辛そうな表情を浮かべる。



「わかるわ」


 ソフィアが、静かに頷いた。


「私も、薬学が大好きだもの。せっかく宮廷薬師になれたのに……それを失うなんて、つらいわよね」


 優しい声だった。本当に、寄り添おうとしてくれているのも分かる。




「……フローリア、実はね」


 ソフィアは、一瞬だけ言いづらそうに視線を逸らしてから、続けた。



「私、美容部門の主任に任命されたの。これから、あなたと一緒に、たくさん開発ができるって……楽しみにしていたの。だから……私も、正直、つらいわ」



 そんなこと言われても。



「誰だって、生きていれば辛いことはあるのよね。でも、辛いことがあっても、何とか乗り越えていかなくちゃいけないわ」


 ソフィアは、まっすぐこちらを見て言った。



「違う道を歩むことになっても……私たちは、いつまでも同期よ。お互い、頑張りましょう」


 その言葉は、正しくて、綺麗で、前向きだった。


 ――でも、その美容部門のために、私は職を失ったのだ。そう思ってしまう自分を、止められない。


 これまで私が関わってきた実験も、調合も、計算も。成果として残るものは、すべてソフィアの名前で報告されている。



 それを今さら話したところで、何が変わるのだろう。室長は「決定事項だ」と言った。もう、何をしても無駄なのだ。


 私は、なんとか口元を持ち上げ、笑顔の形を作った。




「……ありがとう、ソフィア」


 そう言いながら、心には、やるせなさが静かに溢れ続けていた。



「そうだぞ、フローリア。辛いときは、いつでも俺たちを頼ってくれ」


 その言葉を聞きながら、私は曖昧に頷いた。


 今が、その“辛いとき”なのに。


 胸の奥で、言葉にならない思いが渦を巻く。彼らは、本当に分かっているのだろうか。それとも、私の話を、どこか遠くの出来事として聞いていたのだろうか。



「本当はね、フローリアを見送りたいんだけど……」


 ソフィアが、申し訳なさそうに続ける。


「これから、新しい部門の打ち合わせ会議があるの。名残惜しいけど……仕方ないわよね」


 新しい部門。その言葉が、耳の奥に残る。



「落ち着いたら、手紙をちょうだい。絶対よ?」


「……元気でな」


 ウィリアムが、短く言った。


 ソフィアは、ぎゅっと私の手を握った。けれど、その温もりが、心の奥の空白を埋めることはなかった。




「……うん」


 私は、小さく返事をした。


 ふたりは、最後にもう一度だけこちらを振り返り、それから、激励の言葉を背中に残して部屋を出て行った。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響く。


 私は、その扉を、しばらくの間じっと見つめていた。


 悔しさも、悲しさも、怒りも――渦巻いていた感情は、少しずつ、薄れていく。


 ここを去る。



 その事実だけが、静かに、確かに、私を現実へと引き戻していた。




「……片づけを、しないと」


 誰に向けるでもなく、ただ自分に言い聞かせるように呟いた。けれど、体は思うように動かない立ち上がるだけで精一杯だった。


 引き継ぎ書を作らなければ。

 今まで進めていた研究の経過、注意点、保管している薬草の一覧。

 先輩たちにも、きちんと挨拶をして――


 頭では分かっている。宮廷薬師として、最後まで責任を果たすべきだということも。




「……でも」


 小さく、息が漏れた。


「……もう、どうでもいいか……」


 言葉にした途端、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。


 ここに残る人たちは、私がいなくても困らない。

 研究も、開発も、きっと誰かが引き継ぐ。

 そう考えると、急に力が抜けてしまった。


 


 私は黙ったまま、机の引き出しを一つずつ開け、私物だけを選び取るようにして荷物をまとめ始めた。



 研究ノート。

 書きかけのメモ。

 使い慣れたペンと、すり減った手袋。


 どれも、この場所で過ごした時間の証だった。


 それらを箱に収め、私は静かに部屋を後にした。感情に向き合う余裕は、もう残っていなかった。






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