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32.真紅の薔薇

 ソフィアは、何か言おうとして、唇がわずかに動くが、言葉にはならないようだった。



 ついさっきまで、私は一人で踏ん張っているつもりだった。けれど今は違う。


 気づけば、視界が滲んでいた。涙が、静かにこぼれ落ちる。



「もう、フローリア、こんなに泣いちゃって……。眼鏡も曇っているじゃない。ほらこれを使って?」


 サラの声は、いつも以上に優しかった。そっと差し出されたハンカチが、私の視界に入る。


「あ、ありがとうございます」


 短くそう答えて、私は眼鏡を外した。レンズの向こうで歪んでいた世界が、一度ふっと遠のく。


 ハンカチで頬と目元を押さえ、眼鏡も拭く。




「うわぁぁぁ!」


 え? 今の叫び声、なに?


 次の瞬間、隣にいたはずのエドモンド様が、まるで何かから私を隠すかのように、一歩前へ出た。その広い背中が私の視界を塞いだ。訳が分からず、私はそっと身を傾け、エドモンド様の背の脇から前方を覗き込む。


 

 呆然と立ち尽くしている人。顔を真っ赤にして視線を逸らす人。口を大きく開けたままの人。


 サラも、ソフィアも、揃って口元に手を当て、目を見開いている。


 ……え? 何が起こっているの?


 視線の理由が分からず、戸惑う。




「お、俺と、フローリアは今から、だ、団長と話をしてくる。いいか、さっき言ったことへ苦情がある者は俺か団長に言うように! あ、ソフィア嬢、今日中に荷物の整理をして戻ってくれ。じゃあ、フローリア行くぞ!」


 早口で言い切ると同時に、エドモンド様の手が私の手を掴んだ。廊下に出た瞬間、ざわめきが背後で弾けるのが分かった。


 もしかして……泣いていたから、場所を変えてくれたのかしら。そう思いながら歩いていると、ふと違和感に気づく。


 ……あら? 進んでいる方向が、団長室とは違うわ。




「エドモンド様、団長室はあちらでは?」


 無言で足を進める背中に、恐る恐る声をかけた。


「あっ! ああ、すまない、ただ、あそこから連れ出したかっただけだから、団長には用事がない。それに、フローリア。さっきの件は団長の許可はもう通してある。どのような結果でも、フローリアの考えを尊重すると」


 

 ……団長が? ソフィアのお試しを許可したと聞いた時から、胸に小さな棘が刺さったままだった。正直に言えば、少し――いえ、かなり、恨めしく思っていた。



 私の気持ちを考えてくれていたなんて、なんだか恨めしく思ったことが申し訳ないわ。私は心の中で、そっと団長に詫びた。




 私とエドモンド様は王宮の庭へと足を踏み入れていた。視界いっぱいに広がるのは、手入れの行き届いた薔薇の花々。風に揺れながら、甘い香りを漂わせている。その香りが、張りつめていた気持ちを少しずつ解きほぐしてくれた。



 ここを訪れるのは、ずいぶん久しぶり。そういえば侍女長様が、少し前に「薔薇が見頃よ」と教えてくれていたことを思い出す。その時は、心に余裕がなくて、聞き流してしまっていたけど、素敵ね。




「フローリア覚えているか? ここで初めて会った時のことを」


 不意に向けられた問いかけに、私は、エドモンド様を見た。




「ええ、もちろんです。私はここで救われました」


 思い出と一緒に、自然と笑みが浮かぶ。あの日の自分を思えば、今こうしていられるのが不思議なくらい。




「はは、俺も救われたがな。最初に、情けない姿を見せてしまったことを悔やんでいるが、あれがなかったらフローリアから声をかけられることもなかっただろう」



 私たちは並んでベンチに腰を下ろす。しばらくして、エドモンド様が静かに口を開いた。




「……この場所で、目的を失って気力が湧かない、そう言ってフローリアは泣いた……。だから、宮廷薬師として目的が、高い目標があったのかとずっとそう思っていた。俺らに遠慮して、戻らないって言っているのかと……悪かったフローリア」



 その言葉は、悔いと反省を含んだものだった。私の知らないところで、彼がずっと考えてくれていたのだと思うと、胸が締めつけられる。




「い、いいえ。これは私の問題だったのです。いつも、結局、仕方ないと諦めてしまっていた私の……」


 言葉に詰まりながらも、逃げずに口にする。誰かのせいにするのではなく、自分自身の弱さを認めることが、こんなにも勇気のいることだとは思わなかった。


 確かに、助けてもらった。


 でも今回は、違う。今回は今までの中で、一番、頑張れた。




「なあ、フローリア。願いは、あれでよかったのか?」


「あっ! ……あんな言い方、ずうずうしかったですよね。まさか、聞いてもらえるなんて思っていませんでした」


 あんな言い方、聞かれていたと思うと、すごく恥ずかしい。


 立場も状況も考えず、あまりにも身勝手だったのではないか――そんな罪悪感とにた感情がわき上がる。


 けれど、エドモンド様は迷いなく、軽く首を振った。




「いや、俺の中では、お願いなどされずとも答えは一緒だった。だから、あれは願いにならない。願いは他にないか? ほら、何でも言ってみろ」


 

 ……願い。


 その言葉を聞いた瞬間、しまい込んでいた感情が、静かに、けれど確かに動き出した。今まで何度も押し込めて、それでも消えることはなく、見ないふりをしてきた想い。ここに来て、どうしても言葉にしたくなってしまった。




「エドモンド様、もし願いが叶うなら、エドモンド様に私のことを、その、好きになってもらいたい……いえ、そういう対象として意識してもらいたいというか……えっと、やっぱり聞かなかったことに……」


 言えば言うほど恥ずかしさが募り、声は次第に小さくなっていく。


 やっぱり辞めておけばよかった。さっきの願いが叶った高揚感に背中を押され、思わず零してしまったのだ。


 その後に訪れた静寂が、ひどく長く感じられた。

 

 顔が熱を帯び、視線を上げることができない。エドモンド様が、今、どんな表情をしているのか知るのが怖かった。期待してしまった自分が、ひどく浅ましく思えて、俯いたまま、深く後悔する。


 


 その時だった。


 ふっと、視界に影が落ちる。


 驚いて顔を上げると、エドモンド様が目の前にしゃがみ込み、真正面からこちらを見つめていた。


 逃げ場のない距離。でも、優しい瞳に捉えられた瞬間、心臓が大きく脈打った。音が聞こえてしまうのではないかと思うほどで、頭の中が一気に真っ白になった。


 

「フローリア、その願いは却下だ」


 エドモンド様のはっきりとした声が、静かな庭に落ちた。


 却下……。



 心が凍りついたように動かなくなる。視線を落とし、この場から逃げてしまおうとした、その瞬間、エドモンド様の手が、私の手をしっかりと掴んだ。


 震えていた指先を包み込むように。



「願いとして成立しない。なぜなら、もうすでにどうしようもないくらいに俺はフローリアのことが好きだからだ」


 理解が追いつかず、心の中で何度も何度も反芻する。


 


「……え? エドモンド様が? 私を?」


 声が震えるのを止められなかった。信じられない。自分の聞き間違いではないかと、必死に確認するように問い返す。




「ああ、むしろ俺を好きになってほしい、そうフローリアに願わなければならないと思っていたくらいだ」


 エドモンド様は、そう言ってふっと微笑んだ。ただ真っ直ぐに私を見つめ続けている。悲しさは、嘘のように消え去った。代わりに、喜びが、全身に一気に広がっていく。



 ――エドモンド様が、私を。

 



「このエメラルドの髪飾りもよく似合う。しかし、これからは私の色も身に纏ってほしい」



 エドモンド様は、指先でそっと私の髪に触れ、そこに留まる髪飾りを静かに見つめた。彼の色――それを身に纏うということの意味を、私は知っている。


 それは、相手の心を受け入れること。

 そして、自分もまた、その人の心の一部になるという証。


 


「はい、もちろんです! エドモンド様……じゃあ、青い髪飾りを贈っていただきたいという願いはどうでしょう?」


 そう告げると、エドモンド様は満面の笑みを浮かべ、迷いなく頷いた。


 再び、風がバラ香りを運んでくる。真紅の薔薇の花びらが、光を受けながら揺れた。


 それは、二人の新たな未来を祝福するかのように。






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