30.私の願い
ウィリアムにそれ以上何も言わず、静かに背を向けた。背後から向けられる視線を感じながらも、振り返ることはしない。廊下を抜け、使用人たちが出入りする裏口から、再び食堂へと足を向けた。
食堂に入ると、先ほどと変わらぬ場所にソフィアの姿があった。
騎士たちに囲まれながらも、彼女はいつもの柔らかな笑みを浮かべている。
「ソフィア、ちょっといい?」
声をかけると、ソフィアはすぐにこちらを振り向いた。
「いいわよ。どうしたの、フローリア?」
「今日で……ここに来てから、二週間になるでしょう。ソフィアは、この先どうするつもりなの?」
探るような問いかけに、ソフィアは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに小さく笑った。
「ああ、そのことね。私、騎士団での仕事、思っていたよりずっとやりがいがあって……だから、ここで続けていこうと思っているの!」
そう言って、少し照れたように頬を緩める。周囲にいた騎士たちの表情が一斉に和らいだ。驚きと喜びが混ざった笑みが次々と広がる。
「えっ? ソフィアちゃん、これからもずっとここに居てくれるのか?」
「それは助かるよ。ソフィアちゃんに会うと、不思議と疲れが吹っ飛ぶんだよな」
食堂の空気は一気に和らいだ。そんな反応に、ソフィアは少しだけ驚いたように目を丸くし、それから恥ずかしそうに頬を染めた。
「ふふ……そんなに喜んでくれるなんて、思っていなかったわ。ありがとうみんな。だからね、フローリア。あなたは元の職場に戻って、これからも研究を続けられるわ。でも、もし可能なら……第3騎士団のために、戻ったあとも、これまで通り薬を納めてくれたら嬉しいわ」
穏やかで、思いやりに満ちた言葉。私の気持ちを少しもくんでくれない言葉。
「フローリアちゃん、辞めちゃうの!?」
「やっぱり……宮廷薬師のほうがいいのか……」
「そんな、ここに居てくれよ」
次々と重なる言葉には、明らかな困惑と焦りが滲んでいた。
――逃げちゃだめ。
ぐっと拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのも構わず、意を決して口を開いた。
「……前にも言ったでしょう。私は、ここを辞めないわ」
はっきりと言い切ったその瞬間、騎士たちの表情が一斉に緩んだ。強張っていた肩が下り、胸を撫で下ろすような安堵の気配が広がる。誰かが小さく息を吐く音さえ聞こえた気がした。
だが、その中でひとり、ソフィアだけが違った。
彼女は少し眉を寄せ、納得がいかないとでも言うように、じっと見つめている。
「そうなの……? でも、私もあなたもいないんじゃ、室長たち困ってしまうわよね」
穏やかな口調のまま、首をかしげる。
「何とかならないかしら?」
――何とかならない?
だめよ、引き下がっちゃ。言うのよ……今、ここで。
「……何とかなるわ。ソフィアが帰ればいいのよ」
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの表情が凍りついた。みるみるうちに顔色が曇っていく。やがて、耐えきれないように視線を落とした。
「私が……? ひどいわ……この二週間、とっても頑張ったのに」
その声は小さく、震えていた。目元には涙が滲み、今にもこぼれ落ちそうになっている。
その様子に、周囲の騎士たちは言葉を失った。
互いに視線を交わし、誰もが戸惑いを隠せずにいる。慰めるべきか、止めるべきか、判断がつかず、ただ重たい沈黙だけが、その場に落ちていった。
「ねえ、ソフィア。あなたは帰らなくてはいけないわ。王妃様ご依頼の品はどうするの? 立ち上げ途中の新しい部門は? あなた、主任でしょう」
ソフィアは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を泳がせた。
「……それは……あなたがやれば……」
か細く返された言葉に、顔が強張る。
「仮に、私が代わりにやったとしても、あなたへの処罰がなくなるわけじゃない。王妃様の依頼よ? わかっているでしょう。途中で投げ出すなんて――」
下手をすれば、命に関わるわ。
それでもソフィアは首を振る。
「でも……どうしても、できないんだもの。処罰なんて大袈裟よ。主任は私だけど、きっと責任は室長が取ってくれるわ」
この期に及んでまだ誰かに責任を取ってもらおうというの?
「あなたがここで、ただ一人の薬師になって、あなたの薬で人を救えなかったとき、自分では責任を取らない、ってこと? あなたは、薬師でしょう。美容だけが仕事じゃないわ」
声が、わずかに震える。
「そんな無責任な人と、一緒に仕事はできない。まして、あなたを一人ここに残すなんて……怖くて、もっとできないわ」
「そんな……そんな言い方、しなくたって……だからあなたが薬をくれれば嬉しいって……私そう言ったのに」
ソフィアの声は次第に掠れ、とうとう言葉の途中で途切れた。大きな瞳に涙が溜まり、耐えきれなくなったように、彼女は声を上げて泣き出してしまう。
その瞬間、騎士たちは一斉に動揺した。
「だ、大丈夫か? ソフィアちゃん……」
「ほら、泣かないで……」
おろおろとしながら、誰もが何とか彼女を慰めようと声をかける。
「あー……フローリアちゃん、ちょっと言い過ぎじゃないかな?」
「そうだぞ。医療室にいなかったから知らないかもしれないけどさ。ソフィアちゃん、一生懸命、俺たちの手当てをしてくれたんだ」
「人手は多い方がいいと思うぞ? ほら、休みも取りやすいしな」
「王妃様の件だって、みんなで知恵を出し合えば、いい案が浮かぶかもしれないじゃないか」
次々と重ねられる言葉は、どれもソフィアを思ってのものだった。彼女を庇い、守ろうとする気持ちが、言葉の端々に滲んでいる。
……味方がいないみたいで、辛い。
その思いを飲み込んだまま、唇を結んだ。
「と、とにかく……これは俺たちじゃ決められないことだしさ……フローリアちゃん、もし上が“一緒に働け”って言ったら、従わなきゃいけないんだぞ? あんまり言い過ぎると……この先、気まずくなるだろ。な? この話は、もう終わりにしようぜ」
――終わり?
こんなに頑張っていったのに、また……受け入れてもらえないの?)
その瞬間だった。
「ちょっと待ったぁー! 俺はな、フローリア様の味方だ!!」
勢いよく前に出てきたのは、レオだった。
「いい加減にしろよ、お前ら! 手当て用の薬、誰が作ってると思ってるんだ? 全部フローリア様だぞ!」
彼は周囲を睨みつけるように見回し、吐き捨てるように続ける。
「世話になっておきながら、肝心なときにそっち側かよ……。もっとフローリア様の立場で考えてやれよ!」
「レオさん……!」
……そうよ。味方もいる。負けちゃだめ。
騎士団を離れることは、どうしても嫌だった。さっき口にした言葉だって、自分が正しいと思ったから言っただけだ。間違ったことなんて、一つも言っていない。
「私は……一緒に働けない。でも、騎士団は辞めたくない」
声に力を込めたつもりだった。それでも、感情は思うように制御できなかった。視界が滲み、目の前にいる騎士たちの顔が、次第にぼやけていく。
「フローリアちゃん……」
誰かが困ったように呟いた。
「上の人が決めるというなら……エ、エドモンド様に……頼むわ!」
涙をこらえきれず、声が震えた。
「ソフィアとは働けないって……でも、私は騎士団で働きたいって……ポーションのお礼になんでも……お願いを聞いてくれるって……そう、言って……いた……もの……」
最後は、ほとんど泣き声だった。
その瞬間、溜め込んでいた感情が一気に溢れ出し、涙が頬を伝った。周囲の視線が刺さる。呆れた顔、困惑した顔――それが目に入って、胸が痛む。
……言うんじゃなかった。
そう後悔した、そのとき温かくて、大きな手が、そっと頭に触れた。一瞬で、わかった。この手の持ち主が誰なのか。
「その通りだ。フローリアの願いは、俺が何でも聞く」
頭を撫でながら、少し困ったように笑う気配。
「おっと……また撫でてしまったな。はは……そういうことだ。ソフィア嬢。申し訳ないが、約束通り、今日で君の勤務は終わりだ。今までありがとう」
その一言で、食堂の空気が完全に変わった。




