邪相(4)
だれかの話しかけに相槌を打つような声を挟みながら、異世界先輩は相手の言葉をオウム返しに口にしているようだった。
「――それで、白いビニール傘が折れたんですね?」
「――ああ、それで黒い革靴の先が並んでいて……」
「――そうなんですか。黒土の腐ったにおい。それは枯れ葉の――」
「――それから先が当たったんですね?」
「――崖の、奥。突っ切って、左。……それから蛇みたいな道があって、そこをさらに奥の――鍾乳洞の、冷たい水」
「――ああ、それで……」
「――はい。それで……あなたも『邪相の者』と――」
宇津季が扉を開けた。
部屋の中で、かつては立派だっただろう、今はボロボロの革張りのソファの真ん中に、異世界先輩が座っている背が見えた。
部屋の大きな窓には厚手のカーテンが掛かっていたが、こちらも裾がボロボロになっている。
ソファの前に置かれたガラス張りのローテーブルは、ほとんど木製の外枠と脚しか残っていない有様だった。
「――異世界先輩!」
宇津季が呼ぶと、異世界先輩は革張りのソファに座ったまま、ごく普通に振り返った。
「……あれ、みんなも来たの?」
異世界先輩の、柔らかい微笑みに細められた黒い瞳はいつも通りだ。
正気を失っているだとか、そんな様子はまったく見られない。それだけはすぐにわかったので、ニカは内心で安堵した。
「……異世界先輩、なにしてるんですか? 不法侵入はダメですよ。帰りましょう」
……異世界先輩が淡々と相槌を打ち、返事をしていたときのことを思い出すと、ニカはなぜか肝が冷える思いをした。
それに、最後に異世界先輩が口にした言葉。
――「はい。それで……あなたも『邪相の者』と」。
……あの言葉を聞いた瞬間、ニカはなぜだか腕に鳥肌が立った。
そんな感情を隠して、あくまでいつも通りに、ニカは宇津季がそうしたように異世界先輩に近寄り、帰るよう促す。
異世界先輩は一瞬だけ戸惑ったように目を細めて、顔をまた元通り前へ向ける。――否、対面に置かれた、スプリングが剥き出しの、今異世界先輩が座っているものとは揃いだっただろうソファを。
まるで、つい先ほどまでだれかがそこに座って……おしゃべりをしていたかのような態度だ。
「異世界先輩……帰りましょう」
そんな異世界先輩の異様さは当然宇津季も察したらしく、不安そうな声でニカと同じように促した。
それでも異世界先輩はじっとボロボロのソファを見つめている。
そこへ部屋の扉を開けてからずっと黙っていた筒井筒が無言で近づくと、異世界先輩の頭を軽く小突いた。
「バカ。帰るぞ。……話なら帰ってから聞くから」
異世界先輩は黒い瞳をぱちぱちと何度か瞬かせたあと、いつもの騒々しさのない声で「……そうする」と言って、ようやくソファから立ち上がった。
それでも――まるで、名残惜しいとでも言うように背後を振り返り、しばらく対面に置かれたソファを眺めていた。
筒井筒はそんな異世界先輩の手首を無理やり取って、引っ張る。
そのまま異世界先輩を引っ張って部屋を出て行った筒井筒に、宇津季も続いた。
ニカは思わず異世界先輩がそうしたように後ろを振り返って見たが、そこにはほとんど壊れたソファが置かれているだけだった。
……だれかに見咎められることもなく、豪邸を脱したその帰り道。
なにやら物思いに耽っている様子の異世界先輩を見て、ニカはがらにもなく不安になった。
それは隣を歩く宇津季の感情が伝染した結果かもしれないが、このひとを「放ってはおけない」というかつて筒井筒が発した言葉を再度思い出すていどに、ニカにとって異世界先輩は「顔を知っているだけの赤の他人」の領域から外れつつあるようだった。
ニカは、自身のキャラクターを鑑みて、ここはなにかしら、重い空気を変えられるような言葉を発するべきではないかと考えた。
しかしニカがその条件に見合う言葉をひねり出す前に、筒井筒が口を開いた。
「――お前さ、『邪相の者』って言われたよな。あの婆さんに」
「え? ああ、うん。そうだったね」
「えっ、なんの話ですか? っていうか、『ジャソウ』って?」
唐突に筒井筒と異世界先輩のあいだで話が始まったので、思わずニカはそこに突っ込んだ。
ニカの戸惑う声に、筒井筒は「俺もよくわからないんだけど」と前置きしつつ、言葉を続ける。
「もともと、俺たちは『幽霊が出る一角』を見に来たんだよ」
「……ああ、そんなことも話していましたね……」
「その角を見に行ったら、占い師の婆さんがいて、異世界を捕まえて『邪相の者』って言ったんだよ」
「……『ジャソウ』ってなんなんですか?」
「『邪悪な人相』って意味じゃない? 人相占いなのかな? あるいはロンブローゾ的な? 私にはよくわからないけれど」
異世界先輩の声に、いつもの調子が戻ってきた片鱗を感じ取り、ニカは胸中に安堵が広がるのを感じた。
「でも失礼ですね。ひとを捕まえて突然『邪相』とか言うなんて……」
「あはは。あのお婆さんには私になにか見えていたのかもしれないね。私がときどきみんなには見えないものを見るのと同じように」
異世界先輩の声には一抹の寂しさがにじんているように聞こえた。それでも、顔はいつも通り微笑んでいて、ニカは日常が戻ってきたのだと思った。
……あとでニカが聞いたところによると、ニカたちが入学する前、春先に街の一角で占いを営んでいた老婆の遺体が見つかったと言う。以来、その一角は「幽霊が出る一角」と呼ばれるようになったと言う。
その老婆が、異世界先輩に「邪相の者」と言った人間の――幽霊なのかどうかは定かではない。異世界先輩も、筒井筒も、その遺体で見つかった占い師の老婆の顔を知らないからだ。
そして、なぜ異世界先輩があの「占い御殿」で同じく「邪相」というフレーズを口にしたのかも、さっぱりわからない。
ただ……異世界先輩は帰ってきたのだから、それでいいとニカは思った。




