小皇帝Z 世界バンタム級王者 アルフォンソ・サモラ (1949-)
私の中学から高校時代、フェザー級にはエウセビオ・ペドロサという長身のテクニシャンがいて日本人ボクサーなど小手先であしらわれ、防衛を19回まで積み重ねていった。巧いが姑息なイメージがあって私は憎たらしいほど強いペドロサが嫌いだったが、世界戦の空き時間に流れる過去の試合ビデオで、そのペドロサがアイドル系のルックスをした短躯のボクサーに一方的にボコボコにされるシーンを見た時は衝撃だった。長いリーチも卓越したテクニックもボディワークと連打でいとも簡単に粉砕してみせたサモラは信じられないほど強かった
「ナポレオン・コンプレックス」というのをご存知だろうか。
これは身長の低い男性ほど気性が激しく自己顕示欲が強い、という血液型による性格判断のようなもので、何ら医学的根拠があるわけではない。自身が低身長であることにコンプレックスを感じていたナポレオン・ボナパルトのその反動とも思えるような出世欲、征服欲の強さに由来する俗説に過ぎない。
にもかかわらずこういう俗説を信じる者が多いのは、人はえてして、育ちが良く頭脳明晰で容姿端麗な成功者よりも、何らかのハンデを背負いながら人一倍の反骨精神によって苦難を乗り越えた成功者に賞賛を送る傾向が強いからだ。
アルフォンソ・サモラはメキシコシティーの典型的な中流家庭の出身だったが、子供の頃から粗暴で、中学校は放校処分となり少年院にも送られている。
貧困家庭に育ち、少年時代には喧嘩に明け暮れていた、という過去を持つよくあるタイプのメキシカンファイターではなく、経済的な不自由がないにもかかわらずこれほど血の気が多いのは、「ナポレオン・コンプレックス」に苛まれているからではないか、と示唆されたことも実際にあったそうだ。
そんな彼が全うな道を歩み始めたのは元ボクサーの父の勧めでボクシングを始めたおかげである。一六〇センチそこそこの小柄な身体ながら、骨格が太く、腰の入ったパンチの威力はアマチュアでは傑出していた。
十八歳で出場したミュンヘン・オリンピックでは、決勝戦は下痢で体調を崩していたこともあって、キューバのベテラン、オーランド・マルティネスに巧くかわされ、本人としては不本意な銀メダルに終わっている。
この時点でのサモラは次期モントリオール・オリンピックで金メダルを獲得するまではアマチュアを続けるつもりだったが、いざ帰国してみると、メキシコ人としては唯一のメダリストとして大歓迎を受けたばかりか、ルイス・アルバレス大統領から自動車を贈呈されるという名誉にも預かり、今後四年も費やしてまでアマの頂点を目指そうという意欲も萎えてきた。
折りしも、これまでメキシコボクシング界の興隆を支えてきたサルディバルとオリバレスが盛りを過ぎ、熱狂的なボクシングファンが彼らに代わる“カリスマボクサー”の登場を心待ちにしているという現状もプロ転向を決意する要因の一つとなった。
確かに一九七二年の時点でもメキシコ軽量級の選手層は世界屈指であり、オリバレスに勝ったチューチョー・カスティーヨ、ラファエル・エレラの他にもロメオ・アナヤ、ロドルフォ・マルチネスといったKO率八割を超える強打者(全員世界バンタム級を制している)が控えていたが、いずれもやや小粒で、サルディバルやオリバレスのように観客を震撼させるリングパフォーマンスを期待できる器ではなかったのだ。
オリンピックの決勝まで敗北の味を知らなかったサモラのアマチュア戦績は五十五勝一敗(四十五KO・RSC)という非の打ち所のないもので、本場アメリカにおいても知名度は抜群だった。
このスター候補生を引き受けることになったクーヨ・エルナンデスはメキシコのKOモンスター、ルーベン・オリバレスを育てた名マネージャーである。
クーヨが主宰するソラールジムには、下り坂とはいえ現役のオリバレスとメキシコ・ゴールデングローブ大会の覇者であるカルロス・サラテが在籍しており、この二人とスパーリングしながら腕を磨けるというのは、未来の大物にとっては理想的な環境だった。
クーヨはサラテ(Zarate)とサモラ(Zamora)の頭文字をとって「Zボーイズ」として大々的に売り出し始めた。スターの卵だけにクーヨのマッチメイキングはあくまでも慎重で、両名ともにキャリアの初期は無名の相手を踏み台にしてKO記録を伸ばしていった。
デビューから一年少々で十五戦十五KOというサモラの華々しい活躍も、所詮は引かれたレールの上を走っているようなもので、ようやく骨のある相手と戦ったのはアメリカのリングに初お目見えした十六戦目のことで、オリバレスと歌川善介によるWBA世界フェザー級王座決定戦の前座だった。
初の海外のリングで対戦したのは現役の日本バンタム級チャンピオン、内山真太郎である。
元世界ランカーの内山は、海外経験も豊富でしぶといボクシングが身上だった。この試合もジャブを主体にコマネズミのように動き回る内山が、うまくサモラの突進をかわし、サモラの右目は次第に腫れあがっていったが、六ラウンドにパンチが大振りになった内山に向けて放った左ショートのカウンターは、まるで誘導ミサイルのように顔面に吸い込まれてゆき、完璧なタイミングで炸裂した。
キャンバスに大の字になった内山の首から下は麻痺したように動かず、そのパンチの威力をアメリカのファンの前で痛烈にアピールした一戦だった。
その後、現役世界ランカー、フランシスコ・ヴィレガスをKOして世界挑戦権を引き寄せると、一九七五年三月十四日、ロサンジェルスでWBAバンタム級チャンピオン洪秀煥と相まみえることになった。
洪は後に韓国初の二階級制覇を達成する長身のテクニシャンだったが、リーチは短くともステップインが速く、ボディと顔面にダブルの左を打ち分けてくるサモラの攻撃に次第に手詰まりとなり、四ラウンドに右アッパーでキャリア初のナックアウト負けを喫した。
プロ転向から二年足らずで王座に就いたサモラは、同僚のオリバレスを凌ぐ人気者になった。
ところが、チャンピオンになって莫大なファイトマネーが転がり込むようになったことで、クーヨと実父の関係悪化が顕著になってきた。クーヨはフレンドリーな男だが、ビジネスライクな経営者肌であったため、ファイトマネーの取り分に納得のゆかないサモラの父が口を挟むようになったことで、師弟関係までこじれてきた。
結果、サモラの父はクーヨからマネージメント権を買い取り、フランシスコ・ロサレスと契約を交わしたが、わずか四万ドルの端金でサモラを手放したことからもわかるように、クーヨは自分のもとを去ることになっても愛弟子であるサモラのことを愛していたため、彼のイメージダウンにつながらないよう事態が泥沼化することは避けたのだった。
クーヨの傘下を離れても、サモラは相変わらず強かった。二度目の防衛戦では、後にフェザー級記録となる十九度の防衛に成功し、オリバレスをもKOで退けた攻防兼備の名王者エウセビオ・ペドロサをわずか二ラウンドで粉砕している。
ペドロサは一七三センチの長身だが、サモラが長身のボクサーを苦にしないのは左のリードの使い方にある。
サモラはオーソドクスで右が強いが、左もほとんど威力が変わらないため、左右ともにフィニッシュブローとなる破壊力を秘めている。中でも左はボディと顔面を上下に打ち分けるスピードが速く、ボディを打って相手の右ガードが下がった瞬間に左ショートフックをねじ込んでくるのだ。
特に洪やペドロサのような長身でアップライト型のボクサーには左のボディブローが有効で、アッパー、ストレート、フックとあらゆる角度からボディを狙ってガードを下げさせておいてから、ガードの隙間を狙って左フックというコンビネーションを多用した。左からの攻撃が多いぶん、相手の意識が左に向いたところで右を出すと命中率が高く、洪もペドロサも右を浴びてグロッギーになったところを左の返しでフィニッシュされている。
例えるなら小型のマイク・タイソンのような攻撃スタイルといえるかもしれない(ただしタイソンの方がガードは固かった)。
サモラから一年遅れの一九七六年にはサラテがWBCの王座に就き、Zボーイズはバンタム級の双璧として世界的な知名度を誇るまでになった。
これが一年前であれば、両者は戦わざるライバルとして共に長期政権を築いたかもしれない。しかし、所属ジムが違う以上はプライドの高い二人のこと、やがてバンタム級最強を証明するために激突する日がやってくることは目に見えていた。
クールな試合運びをするパーフェクトボクサーであるサラテは、ボクサーとしての成熟度ではサモラより上だった。年齢的なめぐり合わせでオリンピックの出場経験はなくとも、アマチュア時代には国内大会での優勝経験を含めて、三十三勝三敗(三十KO・RSC)という実績を残しており、プロデビューもサモラより三年早い。にもかかわらず、短期間で世界戦のお膳立てまでされたサモラに比べ、前座時代が長かった。
これはサモラにはオリンピックのヒーローという絶対的な知名度とベビーフェイスで女性受けしそうなルックス、メキシコ人好みの荒々しいファイトに起因する観客動員力があったことによる。
ボクシングがビッグビジネスという側面を伴っている以上、国民的人気を誇るサモラが様々な面で優遇されるのは当然のことだが、軽量級実力ナンバーワンを自他共に認めるサラテからすると面白くなかったはずだ。
今日であれば統一戦として組まれ、マニー・パッキャオ対フロイド・メイウェザー戦に匹敵する盛り上がりを見せたかもしれない両者の対決だが、WBA、WBC双方にとってドル箱のスターを失うリスクはあまりにも大きく、両団体の認可が下りないままノンタイトル戦として挙行されることになった。
『Fight of the Champions』と銘打たれたこの一戦は、一九七〇年代以降では最高に贅沢なノンタイトル戦であったことに異論を唱える人はいないのではあるまいか。
メイウェザー対コナー・マクレガー戦はファイトマネーこそ天文学的であっても、総合格闘家のマクレガーにボクシングルールで戦わせれば結果はあまりにも明白で、全盛時代のZボーイズの激突と比べると、ギャンブルの対象にもならない。
なにしろ三度防衛中のサラテが四十五勝無敗(四十三KO)、五度の防衛中のサモラが二十九勝無敗(全KO)という凄さである。もちろんこれだけのレコードを持った選手同士の頂上決戦は、今日では頻繁に行われるようになった王座統一戦でさえ実現を見ない。
ちなみに報酬は両者ともに十二万五千ドル(邦貨で三千八百万円)で、四十年後の同級の世界戦に匹敵する高額である。つまり建て前こそノンタイトルであっても、実質的な統一世界戦と見なされていたということだ。
一九七七年四月二十三日、LAフォーラムでかつてのジムメイト剣を抜き合った。賭け率は欠点のないサラテが十対八でリードしていたが、互いのパンチ力を考えると一発のクリーンヒットで全てが決まってもおかしくないまさに一瞬たりとも目が離せない一戦だった。
序盤は手数の多いサモラがニックネームの「エル・トロ(雄牛)」さながらにぐいぐいとプレッシャーをかけて前に出ていたが、サラテが足を使ってかわそうとせずあえてインファイトに活路を見出そうとしていたのが不気味だった。
長身でガードが固くジャブも強いサラテがサモラの射程距離で戦うのは不利のようにも思えたが、そこがサラテの超一流たるゆえんで、洪やペドロサがサモラから逃げ切れなかった原因を熟知したうえでの選択だった。
サモラは左からの波状攻撃で相手のバランスを崩すのが得意だが、腕が長く腰高のサラテが右のガードを絞ると顎をグローブでガードした状態でも肘でボディが隠れてしまうため、左からのパンチはほとんど効果がなかった。しかも右のパンチに対しても、サラテは下がらずにしゃがみこむように低くダッキングをして返しの左右をすかさず繰り出してくる。
これまでのサモラの相手はその強打を恐れて距離を置いて戦おうとし、かえって術中にはまってしまった感があるが、サラテはがっちりとガードを固めて互いの顔がくっつきそうな位置からでも堂々と打ち合いに応じた。特に斜め上から打ち下ろしてくるストレートに続く下からのアッパー、あるいはその逆のコンビネーションはリーチで劣るサモラを苦しめた。
左を封じられた格好になったサモラは次第にパンチが雑になり、左右のフックを振り回してサラテに肉薄したが、かえってリーチの長いサラテの左アッパーを再三浴びるはめになり、三ラウンド終盤、左アッパーで上体を起こされたところに右ショートを浴び、ついにダウン。
すぐに立ち上がったが、このラウンドが全てを決したといっていい。もはやサモラにはサラテのアッパーを封じるすべはなかったからだ。
四ラウンド、サラテのアッパーで倒されたところで、コーナーからタオルが投入され、夢の全勝対決は先輩サラテに凱歌が上がった。
これほど強かったサラテが、後に一階級上のウィルフレド・ゴメスによもやのKO負けを喫したのは、減量の失敗で動きにキレがなかったこともさることながら、ゴメスのパンチをダッキングせずにスウェーバックでかわそうとしたからだ。
前傾姿勢でダッキングすれば防御動作と攻撃が連動できるが、体重を後ろ足にかけてスウェーすると相手が大振りでバランスを崩さない限り、瞬時の反撃は難しい。ましてやゴメスのように動態視力だけでパンチをかわしながら踏み込んでくる相手となると、かえって懐に呼び込むことになってしまう。
サラテがサモラ戦のような戦い方をしていれば、身長・リーチともに劣るゴメスは左アッパーに相当に苦しんだと思われるが(賭け率ではサラテ有利だった)、中間距離からのロングアッパーだけでは防御勘のいいゴメスを捉えることはできなかった。
サラテは最大のライバルを倒したことで慢心していたのかもしれない。
サモラの方は、負けたとはいえベルトを失ったわけではなく、相手が強すぎるサラテだったということもあって少なからず同情の声もあった。少なくともサラテ以外にこれといった敵がいないバンタム級であればサモラの天下はもうしばらくは続くはずだった。
一九七七年十一月十九日、仕切り直しとなった六度目の防衛戦の相手は、満を持して世界ランキング五位(十六勝二敗)のホルヘ・ルハンが選ばれた。キャリアの浅いルハンではまず勝ち目がないというのが大方の予想であり、六ラウンドまではほぼ一方的な展開だった。
ところが攻めきれずスタミナを浪費したサモラは中盤から急失速してしまい、十ラウンドに逆転KO負けという番狂わせに終わった。
フィナーレは何とも不可解だった。ルハンの軽いパンチで後退したかのように見えたサモラがそのままコーナーに座り込み、いやいやをするように首を振って立ち上がろうとしなかったのだ。
ダウンしても相手に向かってゆく手負いの雄牛のようなサモラはいったいどこへ行ったのだ。
観客席からの大ブーイングの中、逃げるようにリングを去ったサモラの人気は地に落ちた。
引退後は浪費癖が祟って全財産を失い、路上生活者にまで成り果てたが、WBCホセ・スレイマン会長の計らいで地方のコミッショナー、ジャッジとして業界復帰を果たした。
生涯戦績 33勝5敗(32KO)
歴代バンタム級王者の中でも常にトップスリーにランクされるサラテが、減量に失敗したとはいえ、新興階級であるJ・フェザー級王者のゴメスにKO負けしたのは青天の霹靂だったが、それほどまでに強いゴメスをフェザー級王者のサンチェスが一方的にKOしたのにはもっと驚かされた。ゴメスは全盛期のサンチェスが事故死したことと、疑惑の判定のおかげで三階級制覇できただけのことで、何度やってもサンチェスには勝てる見込みはなかった。こんな化け物たちが限られた椅子を取り合ってつぶし合いのファイトに明け暮れていた時代があったのだ。掃いて捨てるほど王座が林立している時代に弱い相手を選んで複数階級を制覇したところで、自分より強そうな相手の全盛期に喧嘩を売るのが常道のこの時代のグレートたちからは苦笑いされるのがオチだろう。




