騎士アンドレイ
園遊会の翌日。
アネットは屋敷の書斎で、昨日の出来事を振り返っていた。
ハインツとニーナの再会は、周囲から見れば美しい物語だった。だが、真実を知るアネットにとっては、茶番劇でしかなかった。
そして、その茶番劇を演出した自分自身にも、複雑な思いを抱いていた。
(わたくし、本当にこれで良かったのかしら……)
その時、ドアがノックされた。
「お嬢様、アンドレイ様がお見えです」
「お通しして」
アンドレイが入ってきた。彼の表情は、いつになく険しかった。
「アネット様、昨日の園遊会について、お話があります」
二人は向かい合って座った。
アンドレイは深く息を吐き、そして口を開いた。
「ハインツの奴、完全に舞い上がっています。昨夜、僕のところに来て、一晩中ニーナ嬢のことを語り続けました」
「そうでしたの……」
「『運命の再会だ』『彼女は天使のようだった』『これから彼女に相応しい男になる』……もう、聞いていられませんでした」
アンドレイは頭を抱えた。
『ハインツの馬鹿。完全に騙されている。あの女の本性を知ったら、どれだけショックを受けるか……でも、知らせなければもっと傷つく。難しい……』
アネットは、アンドレイの心の声に共感した。
彼も、ハインツのことを本気で心配している。親友として、苦しんでいる。
「アンドレイ様、貴方は本当に良き友人ですわね」
「いえ……、僕は、ただ……」
アンドレイは言葉に詰まった。
アネットは優しく微笑んだ。
「ハインツ様のことを、心から心配していらっしゃる。それは素晴らしいことですわ」
「アネット様……」
アンドレイの目が、アネットを見つめた。
『この人は……、本当に強い。婚約を破棄されて、それでも冷静に、優雅に振る舞っている。でも、その瞳の奥には深い悲しみがある。僕は……、この人を守りたい』
アネットは、その心の声に驚いた。
(……守りたい? わたくしを?)
アンドレイは立ち上がり、窓の外を見た。
「アネット様、僕はハインツの婚約破棄を、本当に許せないんです」
「それは、親友として当然の感情ですわ」
「いえ、違います」
アンドレイは振り返り、真剣な目でアネットを見た。
「僕は……、貴女のことを、以前から尊敬していました」
アネットの心臓が、速く打った。
「ハインツと貴女が婚約していると聞いた時、僕は……、複雑な気持ちでした。ハインツは親友です。でも、貴女のような素晴らしい方が、ハインツの妻になる。それは、正直に言えば……、羨ましかった」
『言ってしまった。でも、これは本心だ。僕は平民出身で、公爵令嬢に恋心を抱くなど許されない。でも……アネット様は、本当に素晴らしい人だ』
アネットは、言葉を失った。
アンドレイが、自分に対して特別な感情を抱いていた。それは、恋心に近いものだった。
「アンドレイ様……、わたくしは……」
「すみません、こんなことを言うべきではありませんでした」
アンドレイは慌てて頭を下げた。
「僕は平民出身です。貴女のような公爵令嬢に、想いを寄せる資格などありません。ただ……、ただ、僕の本心を知っていただきたかった。ハインツが婚約を破棄した時、僕は怒りと同時に……、少しだけ、希望を感じてしまった。最低ですよね」
『でも、それは叶わない希望だ。アネット様は公爵令嬢。僕は平民出身の騎士。身分が違いすぎる。それに、ハインツの元婚約者に想いを寄せるなど、親友への裏切りだ』
アネットは、アンドレイの誠実さに心を打たれた。
彼は自分の感情に正直でありながら、同時に身分の違いと親友への義理を理解していた。
「アンドレイ様、顔を上げてください」
アネットは優しく言った。
「貴方の気持ち、とても嬉しいですわ。でも、今のわたくしには、そのような感情に応える余裕がありません。まず、ニーナの件を解決しなければ」
「はい、分かっています」
アンドレイは顔を上げた。
「僕は、貴女のお力になりたい。それだけです。恋心を抱くことは……、許されないと分かっています」
『でも、側にいたい。この人を守りたい。それが親友への裏切りでも、僕は……』
アネットは、アンドレイの心の声を聞きながら、自分の心を見つめた。
アンドレイ。平民出身の騎士。実力で騎士団の副団長まで上り詰めた、誠実な青年。
彼の心の声は、いつも真っ直ぐだった。打算がなく、偽りがなかった。
それは、社交界で聞いてきた様々な心の声とは、全く違うものだった。
(……この方の心の声を聞くと、わたくし、安心しますわ。まるで、清らかな泉のような……)
アネットは微笑んだ。
「アンドレイ様、これからもお力をお貸しください。貴方は……、わたくしにとって、大切な協力者ですわ」
それは、友人としての言葉だった。だが、アネットの心の中には、小さな温かさが芽生えていた。
~~~
その日の午後。
アネットとアンドレイは、王都の郊外にある小さな宿を訪れた。ニーナとダニエルが密会する場所だ。
二人は変装をしていた。アネットは平民の娘の格好をし、アンドレイも騎士服ではなく、普通の服を着ていた。
「アネット様、本当に大丈夫ですか? 危険かもしれません」
「大丈夫ですわ。わたくし、意外と度胸がありますのよ」
アネットは微笑んだ。
(完璧な令嬢を演じ続けた十八年間で、度胸だけは鍛えられましたわ)
二人は宿の近くで待機した。ニーナが来るのを待つために。
一時間後。
薄い金髪の女性が、宿に入っていくのが見えた。ニーナだ。
そして数分後、若い男性も入っていった。ダニエルだろう。
「来ましたわね」
「ええ。では、計画通りに」
アンドレイは宿の主人に金を渡し、二人が泊まっている部屋の隣の部屋を確保した。
そして、壁に耳を当てた。
隣の部屋から、会話が聞こえてくる。
『ダニエル、会いたかったわ』
『俺もだよ、ニーナ。でも、お前、最近忙しそうだな』
『ええ、侯爵様との交際が始まったの』
『侯爵……、ハインツ・フォン・ヴィツォレクか』
『そうよ。十年前の傘の話、覚えてる? あれが役に立ったわ。彼、完全に私のことを運命の人だと思ってるのよ』
『それで、お前は本当に侯爵と結婚するのか?』
『当然よ。こんなチャンス、逃すわけにはいかないわ。でも、愛してるのは貴方だけよ、ダニエル』
アネットとアンドレイは、顔を見合わせた。
完璧な証拠だった。ニーナ自身の口から、ハインツを騙していることを認めている。
会話はさらに続いた。
『結婚したら、私は侯爵夫人になる。そうしたら、貴方の商会にも投資できるわ。侯爵家の金で、私たちは幸せになれるのよ』
『でも……、それって、侯爵を裏切ることになるんじゃ……』
『裏切る? 違うわ。これはビジネスよ。結婚なんて、上流貴族にとっては政略でしょう? 私だってそれを利用するだけよ。侯爵様は理想主義者で世間知らずだから、簡単に騙せるわ』
アネットは、怒りで拳を握りしめた。
(……もう、許せませんわ。こんな女性に、ハインツ様を……!)
アンドレイも、怒りで顔を紅潮させていた。
『ハインツを……、こんな風に……、許せない』
二人は、十分な証拠を得て、宿を後にした。
~~~
帰り道、馬車の中で、アネットとアンドレイは沈黙していた。
やがて、アンドレイが口を開いた。
「アネット様、この証拠を、どう使いますか?」
「……すぐにハインツ様に見せるべきでしょうか」
「それが最善だと思います。早ければ早いほど、傷は浅く済む」
だが、アネットは迷っていた。
ハインツに真実を告げれば、彼は深く傷つく。十年間抱き続けた初恋の幻想が、完全に打ち砕かれる。
それは必要なことだ。だが、残酷でもある。
「アンドレイ様、わたくし……、少し怖いんですの」
アネットは、初めて本音を漏らした。
「怖い?」
「真実を告げることが、本当に正しいのか。わたくしは、復讐心で動いているのではないかと。ハインツ様を傷つけることで、自分の傷ついた心を癒そうとしているのではないかと……」
アンドレイは、しばらく黙っていた。
そして、優しく言った。
「アネット様、貴女は十分に誠実です」
「でも……」
「復讐心があったとしても、それは当然です。婚約を破棄されたんですから。でも、貴女は復讐だけで動いているわけではない。ハインツを守りたいという気持ちも、確かにあるはずです」
アンドレイは、アネットの手を取った。
「人間は、複雑です。複数の感情を同時に抱えることができる。復讐心と、守りたいという気持ち。両方あっていいんです」
『アネット様は、自分に厳しすぎる。完璧であろうとしすぎている。でも、人間は完璧じゃない。それでいいんだ』
アネットは、アンドレイの心の声に救われた。
そうだ。自分は完璧である必要はない。複雑な感情を抱えていてもいい。
「ありがとうございます、アンドレイ様。貴方がいてくれて……、本当に良かったですわ」
「僕は、貴女の味方です。どんな時も」
二人の目が合った。
その瞬間、アネットの心に温かいものが広がった。
それは、恋心とは違うかもしれない。だが、確かに特別な感情だった。
(アンドレイ様……、貴方は、本当に誠実な方ですわね)
馬車は、夕暮れの王都を走り続けた。




