復讐か、それとも
茶会の翌日。
アネットは書斎に籠もっていた。昨日の出来事を整理し、今後の計画を立てるために。
ニーナの本性は明らかになった。彼女は純粋な善意で傘を差し出したのではなく、母親の教えに従って打算的に行動していた。そして今、ハインツの地位と財産を狙っている。さらには、平民の恋人がいて、結婚後もその関係を続けるつもりだ。
これは許されることではない。
だが、アネットは自問していた。
(わたくしは……、本当にハインツ様のためにこれをしようとしているのかしら?)
机の上には、白紙が広げられていた。そこに、アネットは自分の心を書き出していた。
『動機その一:ハインツ様を守りたい。彼は純粋すぎて、ニーナの本性に気づけない』
『動機その二:ニーナの悪行を許せない。詐欺のような行為を見過ごすわけにはいかない』
『動機その三:復讐? わたくしを振った彼が、悪女に騙される様を見たい?』
三つ目を書いた時、アネットは筆を止めた。
(……復讐心も、ないとは言えませんわね。正直に言えば、ハインツ様があの女性に騙されるのを見たい気持ちもありますわ。でも、それは……)
アネットは溜息をついた。
感情は複雑だった。ハインツへの怒り、失望、そしてまだ残っている好意。ニーナへの嫌悪。そして、自分自身への苛立ち。
その時、ドアがノックされた。
「お嬢様、アンドレイ・フォン・アルスラン様がお見えです」
侍女の声が聞こえた。
アンドレイ。ハインツの親友である騎士。アネットは少し驚いた。彼が訪ねてくるとは思っていなかった。
「お通しして」
アネットは姿勢を正した。
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応接室に現れたアンドレイは、騎士服を着ていた。濃い茶髪、灰色の瞳、精悍な顔立ち。彼は深々とお辞儀をした。
「アネット様、お忙しいところを失礼いたします」
「いいえ、構いませんわ。アンドレイ様、どうぞお座りください」
二人は向かい合って座った。使用人が紅茶を淹れて退出する。
アンドレイは少し躊躇してから、口を開いた。
「アネット様、単刀直入に申し上げます。ハインツの件で、お話があります」
アネットは静かに頷いた。
「ハインツ様のことですか」
「はい。彼が婚約を破棄したこと、僕は……、許せません」
アンドレイの声には、静かな怒りが込められていた。
アネットは能力を集中させた。彼の心の声を聞くために。
『ハインツのあの馬鹿。アネット様のような素晴らしい方を、十年前の曖昧な記憶のために手放すなんて。僕は親友だが、今回ばかりは本当に殴りたい』
アネットは内心で驚いた。
(……この方、ハインツ様のこと馬鹿って! 親友なのに容赦ないですわね)
「お気持ちはありがたいですわ。でも、ハインツ様は誠実な方ですわ。嘘をつけなかっただけですの」
「誠実? 違います、アネット様。あれは単なる理想主義です。彼は現実を見ていない」
アンドレイの口調は厳しかった。
『ハインツは幼い頃から、理想を追いかけてきた。騎士道、正義、そして運命の恋。それは美しいが、現実はもっと複雑だ。アネット様のような本当に素晴らしい人を、幻想のために手放すなんて……』
アネットは、アンドレイの心の声に驚いていた。
彼はハインツの親友だが、盲目的に味方しているわけではなかった。むしろ、批判的な目で見ていた。
「アンドレイ様、貴方は親友なのに、厳しいのですわね」
「親友だからこそです。ハインツの欠点を、僕は誰よりも知っています」
アンドレイは真剣な表情で続けた。
「アネット様、実は……、僕はハインツの初恋探しに協力することになりました。彼に頼まれて。ですが、正直に言えば、僕はこの探索に反対です」
「なぜですか?」
「十年前の記憶など、美化されているに決まっています。ハインツが探しているのは、実在の人物ではなく、理想化された幻想です。そんなものを見つけても、彼は幸せになれない」
アンドレイの言葉は的確だった。
『でも、ハインツは頑固だ。一度決めたら曲げない。だから、僕は協力するしかない。そして、彼が現実に目覚めるのを見届ける。それが親友としての役目だ』
アネットは静かに微笑んだ。
「アンドレイ様は、本当に良き友人ですわね」
「いえ、僕は……、ただ、正しいことをしたいだけです」
アンドレイは少し照れたように視線を逸らした。
その時、彼の心の声が聞こえた。
『アネット様……、貴女は本当に強い人だ。婚約を破棄されても、こうして冷静に振る舞っている。でも、その目には深い悲しみがある。ハインツのあの野郎、本当に罪深いことをした』
アネットは驚いた。
アンドレイは、自分の本当の苦しみに気づいている。表面的な強さの裏にある、深い傷に。
(……この方、洞察力が鋭いですわ。わたくしの仮面を見抜いている)
「アネット様、もし何かお困りのことがあれば、遠慮なく僕に頼ってください」
アンドレイは真剣な眼差しでアネットを見た。
「僕は平民出身の騎士に過ぎません。貴女のような公爵令嬢のお力になれることは少ないかもしれません。でも、誠実に対応することだけは誓います」
『この人を守りたい。ハインツがどれだけ愚かなことをしたか、彼にはいずれ分かる時が来る。その時、僕はアネット様の味方でいたい』
アネットの心が、温かくなった。
人の心の声を聞くようになってから、多くの打算と偽善を聞いてきた。だが、アンドレイの心の声には、それがなかった。
純粋に、自分を心配してくれている。
「ありがとうございます、アンドレイ様。実は……、わたくしにも、お話したいことがありますの」
アネットは決断した。アンドレイなら、信頼できる。彼に真実を話そう。
「ハインツ様の初恋の人、わたくし、見つけましたの」
アンドレイの目が見開かれた。
「本当ですか!?」
「ええ。男爵令嬢ニーナ・フォン・グラヴナー。彼女が、あの日傘を差し出した人物ですわ」
アネットは、昨日の茶会のことを話した。ニーナの表面的な清純さと、心の声の邪悪さ。十年前の行動が打算によるものだったこと。そして、既に恋人がいて、ハインツを利用しようとしていること。
ただし、心の声が聞こえることは伏せた。それは、誰にも言えない秘密だった。
アンドレイは話を聞くにつれ、表情を険しくしていった。
「そんな……、それが本当なら、ハインツは騙されることになる」
「ええ。だからわたくし、彼女の本性を暴こうと思っていますの」
「しかし、どうやって? 証拠が必要です」
アネットは頷いた。
「その通りですわ。わたくし一人では難しい。だから、アンドレイ様にお力をお借りしたいのです」
アンドレイは少し考え、そして力強く頷いた。
「分かりました。協力します」
『ハインツを守るためだ。そして……、アネット様のためでもある。この人を、これ以上傷つけさせるわけにはいかない』
アネットは微笑んだ。
「ありがとうございます。では、作戦を立てましょう」
二人は、ニーナの本性を暴く計画を練り始めた。
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その夜、アネットは自室で一人、考えていた。
アンドレイの協力を得られたことは大きい。彼の調査能力と騎士としての立場は、証拠集めに役立つだろう。
だが、アネットの心には依然として迷いがあった。
(わたくしは……、本当にこれで良いのかしら?)
ニーナの本性を暴けば、ハインツは傷つく。十年間抱き続けた初恋の幻想が、打ち砕かれる。
それは残酷なことだ。
だが、そのまま騙されることの方が、もっと残酷ではないか。
(彼は……、真実を知るべきですわ。たとえそれが辛くても、幻想の中で生きるよりはましですわ)
アネットは鏡の前に座った。
鏡に映る自分の顔。それは、以前の完璧な令嬢とは違っていた。
目には、冷たい決意の光。口元には、皮肉めいた笑み。
婚約破棄のショックと、心の声を聞く能力。それらが、アネットを変えていた。
「わたくし、変わってしまいましたわね」
アネットは呟いた。
「でも……、それで良いのかもしれませんわ。完璧な令嬢を演じるのは、もう疲れましたもの」
彼女は立ち上がり、窓から夜空を見上げた。
星が瞬いている。
あの婚約破棄の夜と、同じ星空。
だが、アネットはもう、あの時の自分ではなかった。
(ハインツ様、貴方が傷つくことになっても、わたくしは真実を示します。それが、元婚約者としてできる最後の誠意ですわ)
アネットの心は、決まっていた。
復讐ではない。真実のために。
そして、もしかしたら……、ハインツを、本当の意味で救うために。




