男爵令嬢ニーナ
茶会の当日は、快晴だった。
ホーエンベルク公爵家の庭園は、初夏の花々で彩られていた。白いパラソルの下に設置されたテーブルには、上質な磁器のティーセットが並べられている。
アネットは、いつも以上に入念に身支度を整えた。銀髪を優雅に結い上げ、淡い青のドレスを纏う。鏡に映る自分の姿は、完璧だった。
だが、その目には緊張が宿っていた。
今日会うニーナが、もしかしたらハインツの探している初恋の人かもしれない。そして、その人物がどのような心を持っているのか、今日明らかになる。
(落ち着きなさい、アネット。貴女は公爵令嬢。どんな真実が明らかになっても、冷静に対処するのですわ)
自分に言い聞かせながら、アネットは庭園へと向かった。
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ニーナ・フォン・グラヴナーは、時間きっかりに現れた。
彼女は噂通りの美少女だった。薄い金髪が陽光を受けて輝き、淡い緑色の瞳は清らかな水のように澄んでいる。華奢な体つきで、まるで風に吹かれれば消えてしまいそうな儚さがあった。
彼女は深々とお辞儀をした。その所作は優雅で、完璧だった。
「アネット様、お招きいただき光栄ですわ。わたくし、このような素晴らしい機会をいただけるとは思いませんでした」
声も美しかった。控えめで、それでいて品があった。
アネットは優雅に微笑んだ。
「こちらこそ、来てくださってありがとうございますわ、ニーナ様。以前から、お会いしたいと思っておりましたの」
二人はテーブルに着いた。使用人が紅茶を注ぐ。
アネットは能力を最大限に集中させた。ニーナの心の声を聞くために。
だが、最初はなかなか聞こえてこなかった。ニーナの表情は穏やかで、警戒している様子はない。
「アネット様のお庭、本当に美しいですわ。特にこの薔薇、見事ですわね」
ニーナは庭園を見回しながら、心から感嘆しているように見えた。
「ありがとうございますわ。うちの庭師が丹精込めて育てておりますの」
当たり障りのない会話が続く。アネットは慎重に、少しずつ核心に近づいていった。
「ニーナ様は、社交界にあまりお顔を出されませんわね。何か理由でも?」
「ええ、実は……、わたくし、身体が弱くて。頻繁に外出すると疲れてしまいますの」
ニーナは儚げに微笑んだ。その表情には、どこか諦念のようなものがあった。
その瞬間、アネットの頭に彼女の心の声が響いた。
『まさか公爵令嬢が私に……? これはチャンスだわ。ここで上手く立ち回れば、上流階級とのコネクションができる』
アネットは内心で驚いた。だが、表情には出さなかった。
ニーナの心の声は、表面的な言葉とは違った。そこには、計算が含まれていた。
「それは大変ですわね。でも、今日はお元気そうで安心しましたわ」
「ありがとうございますわ。アネット様にお会いできる機会ですもの、無理をしてでも参りたかったんですの」
表面上は謙虚な言葉。だが、心の声は違った。
『公爵令嬢と親しくなれば、社交界での立場が上がる。婚約破棄された今なら、同情を買いやすい。利用できるわ』
アネットは紅茶を一口飲んだ。そして、話題を変えた。
「ニーナ様、王都の夏祭りはお好きですか?」
「夏祭りですか? ええ、好きですわ。幼い頃から、毎年楽しみにしておりました」
「それは奇遇ですわね。わたくしも大好きですの。特に十年前の夏祭りは印象的でしたわ」
アネットは慎重に、罠を仕掛けた。
ニーナの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。それはわずかな変化だったが、アネットは見逃さなかった。
「十年前……、ですか」
「ええ。あの年は特別でしたわ。途中で雨が降りましたわよね」
「ああ、そうでしたわね。確か、夕立でしたわ」
ニーナは微笑んだ。だが、その心の声は激しく動揺していた。
『十年前の雨……、まさか、あの時のこと? 迷子の男の子に傘を貸した……、いや、待って。これは偶然の話題? それとも、何か意図がある? 慎重に対応しないと』
アネットの心臓が速く打った。
ニーナは、十年前の雨の日のことを覚えている。迷子の男の子に傘を貸したことを。
つまり、彼女がハインツの初恋の人である可能性が高い。
アネットはさらに踏み込んだ。
「あの日、わたくし、困っている方を助けた覚えがありますの。ニーナ様は、そういったご経験は?」
それは、明確な誘導尋問だった。
ニーナは少し考え、そして儚げに微笑んだ。
「そういえば……、ありましたわ。迷子になっている子供に、傘を貸して差し上げたことが」
「まあ、素晴らしい! それは男の子でしたか、女の子でしたか?」
「男の子でしたわ。とても困っている様子で、放っておけませんでしたの」
表面上は、純粋な善意を語るニーナ。だが、心の声は全く違った。
『ああ、やっぱりあの時のことだわ。貴族の男の子に傘を貸した。母が言っていたのよ、「貴族の子供には親切にしなさい。いつか役に立つから」って。あの時は面倒だったけど、今になって役立つかもしれないわ』
アネットは息を呑んだ。
ニーナは、純粋な善意で傘を貸したのではなかった。母親の教えに従って、打算的に行動していたのだ。
そして、心の声はさらに続いた。
『この公爵令嬢、なぜこんなことを聞くの? まさか……、あの男の子が誰か知っているの? もしかして、重要な人物? だとしたら、これは大チャンスだわ!』
アネットは冷静さを保ちながら、さらに情報を引き出すことにした。
「その男の子、どのような子でしたの?」
「金髪で、碧眼でしたわ。貴族の子供だということは、服装で分かりましたの。きっと良い家のお子様だったのでしょうね」
完全に一致していた。ハインツの容姿と。
「素晴らしい善行ですわね。その後、その子とは会われましたの?」
「いいえ、あれきりですわ。でも、あの子が幸せに育っていることを願っていますわ」
表面上は、無償の優しさを示すニーナ。
だが、心の声は邪悪だった。
『あの男の子が誰なのか、絶対に調べないと。もし侯爵家とか、それ以上の家の子息なら……、私にもチャンスが巡ってくるかもしれない。婚約のチャンスが! 男爵家の娘である私が、上流貴族と結婚できるなんて、夢のようだわ!』
アネットの血が凍った。
(……この方、完全に打算で動いていますわ。『夢のようだわ』って、まるで玉の輿狙いの悪役令嬢ですわ! ハインツ様、こんな方に十年間想いを馳せていたなんて……)
だが、アネットはまだ確信を得るために、もう一押しする必要があった。
「実は……、わたくし、その男の子がどなたかを知っているかもしれませんの」
ニーナの目が、一瞬だけ輝いた。だが、すぐに控えめな表情に戻った。
「まあ、本当ですの? それは……嬉しいですわ。もしお会いできるなら、あの時のお礼を言いたいですわ」
表面上は謙虚な言葉。だが、心の声は興奮していた。
『来た! 絶対に誰なのか聞き出さないと! もし本当に良い家の子息なら、私はその恩人として接近できる! 財産も地位も、全部私のものになる! あの馬鹿な男の子、十年前の傘一本でメロメロになるなんて、ちょろいわ!』
アネットは、紅茶のカップを置いた。手が震えそうになるのを、必死に抑えた。
(……『ちょろい』って言いましたわね今!? しかも心の声、口調が悪すぎますわ! 表の清純さは完全に演技だったんですのね! こんな人が、ハインツ様の初恋の人だなんて……)
アネットは深呼吸をした。そして、決断した。
まだ全てを明かすべきではない。もっと証拠が必要だ。ニーナの本性を完全に暴き、ハインツに真実を見せるために。
「その方は……、侯爵家の子息ですわ」
アネットは静かに言った。
ニーナの表情が、一瞬だけ歓喜に染まった。だが、すぐに儚げな微笑みに戻った。
「まあ……、侯爵家の。それは、大変名誉なことですわ」
『侯爵家! 侯爵家よ! これは大当たりだわ! 私が侯爵夫人になれる! 財産も地位も、全部手に入る! 母が聞いたら喜ぶわ! あの貧乏な男爵家から抜け出せる!』
ニーナの心の声は、もはや醜悪だった。
アネットは優雅に微笑んだ。
「その方は、今でもあの日のことを大切に覚えていらっしゃいますわ。いつか、ニーナ様にお会いしたいとおっしゃっていましたの」
「それは……、光栄ですわ。ぜひ、お会いしたいですわ」
ニーナは完璧に、清純で謙虚な令嬢を演じきった。
だが、その心の声は野心に満ちていた。
『絶対に会わないと! そして、あの時の優しい少女を完璧に演じるのよ。初恋の人として、彼の心を掴む。結婚して、侯爵夫人になる。そして……』
アネットは、それ以上聞きたくなかった。
だが、能力は容赦なくニーナの心の声を伝え続けた。
『結婚しても、彼のことなんて愛さない。結婚はビジネスよ。私には愛する人がいる。平民だけど、優しくて素敵な人。侯爵様の金で、私たちは幸せになるの。完璧な計画だわ!』
アネットの心が、怒りで震えた。
ニーナには、既に恋人がいた。平民の男性と。そして、ハインツと結婚した後も、その関係を続けるつもりだった。
これは、もはや打算を超えた、詐欺だった。
(……許せませんわ。こんな女性に、ハインツ様を騙させるわけにはいきませんわ。彼は確かに理想主義的で、世間知らずですわ。でも、それは純粋だからですの。そんな彼を、こんな悪女が利用するなんて……)
アネットは決意した。
ニーナの本性を暴く。そして、ハインツに真実を見せる。それが、元婚約者としてできる最後の誠意だと。
茶会は、表面上は和やかに終わった。
ニーナは何度も感謝の言葉を述べ、優雅に去っていった。その姿は、まるで清純な天使のようだった。
だが、アネットは知っていた。その天使の仮面の下に潜む、悪魔のような本性を。
一人残されたアネット。
彼女は庭園のベンチに座り、深く息を吐いた。
「ニーナ・フォン・グラヴナー……、貴女、とんでもない悪女ですわね」
アネットは静かに呟いた。
「でも、わたくしも負けていませんわよ。貴女の計画、全て打ち砕いて差し上げます。覚悟しておきなさい」
アネットの目に、冷たく鋭い光が宿った。
それは、真実を求める者の目であり、復讐者の目であり、そして何より、大切な人を守ろうとする者の目だった。




