真実を知る決意
翌朝。
アネットは最悪の目覚めを迎えた。
(消えてない……)
目を開けた瞬間、廊下を歩く使用人たちの心の声が聞こえてきたのだ。
『今日は洗濯物が多いわ……』
『厨房の新しいメイド、可愛いな……』
『お嬢様、大丈夫かしら……』
アネットは枕を顔に押し付けた。
(やっぱり消えてませんわ! というか、朝から「洗濯物が多い」とか「新しいメイドが可愛い」とか聞きたくありませんの! せめて起床後一時間は猶予をくださいまし!)
彼女は重い身体を起こした。鏡を見ると、目の下には隈ができていた。
(最悪ですわ……、完璧な令嬢が台無しですの)
アネットは入念に化粧をして、隈を隠した。そして深呼吸をする。
(さあ、今日も完璧な令嬢を演じなければなりませんわ。たとえ心の声が聞こえていても、決して態度に出してはいけません。これは……、試練ですわ。きっと)
朝食の時間。
アネットは食堂に向かった。すでに父のホーエンベルク公爵が席についていた。
「おはよう、アネット」
「おはようございます、お父様」
アネットは優雅に着席した。使用人が朝食を運んでくる。
そして、父が口を開いた。
「昨夜は辛かっただろう。だが、気を落とすな。お前は我が家の誇りだ。この件は、ヴィツォレク家の非礼である。堂々としていればいい」
父の言葉は力強かった。アネットは静かに頷こうとした。
だが、その瞬間。
『婚約破棄は公爵家の恥だ。社交界での立場が危うい。早急に次の縁談を……、できれば前より格上の……、いや、それは難しいか。せめて侯爵家レベルなら……、いや、婚約破棄された娘では厳しいな。子爵家あたりが現実的か……、いや、男爵家でも御の字かもしれん』
アネットは持っていたナイフを落としそうになった。
(お父様!? 今の心の声、生々しすぎますわ! しかも段々ランクが下がってますわよ!? 最終的に男爵家って、わたくし、そこまで価値が下がりましたの!?)
父は娘の様子に気づかず、続けた。
「アネット、顔色が悪いぞ。しっかり食べなさい」
『娘の気持ちより家格か……、いや、これも家長の務めだ。感情に流されてはいけない。公爵家の未来を考えねば』
アネットは内心で叫んだ。
(お父様、完全に家格優先ですわ! せめて「娘の幸せを」とか考えてくださいまし! いえ、わかってはいましたわ。貴族とはそういうものだと。でも、心の声として聞くと、傷つきますわ!)
彼女は必死に平静を装い、パンを一口食べた。
その時、給仕をしていたメイドの心の声が聞こえた。
『お嬢様、本当にお綺麗。こんな完璧な方でも捨てられることがあるのね……、男って怖いわ』
次に別のメイドの声。
『でも、ハインツ様の気持ちも分かるわ。運命の人を探すなんて、ロマンチック♪』
さらに別の使用人。
『今日の昼食、何が出るかしら。昨日のシチューの残りかな』
アネットは頭を抱えたくなった。
(声が多すぎますわ! しかも内容がバラバラすぎますの! 昼食が何かとか、今関係ありませんわ! 音量調整機能、本当に欲しいですわ!)
朝食を何とか終え、アネットは自室に戻った。
そして鏡の前に座り、深呼吸をした。
(落ち着きなさい、アネット。この能力、もしかしたら使い方があるのかもしれませんわ。せっかく手に入れた能力なら、上手く活用すべきですわ)
彼女は試しに、能力を集中させてみた。
すると、遠くの廊下を歩く使用人の心の声が、より明瞭に聞こえてきた。
『お嬢様のお部屋の掃除、後でしなきゃ』
(ああ、集中すれば、より遠くの声が聞こえるんですのね。でも、それって……、もっと情報量が増えるということですわ! やめておきましょう!)
アネットは集中を解いた。
そして考えた。
(この能力……、もしかして、ハインツ様の本音を聞けば、真実が分かるのでは?)
その考えが、彼女の心に火をつけた。
(そうですわ。ハインツ様の心の声を聞けば、本当に誠実だったのか、それとも何か裏があったのか……、分かりますわ)
アネットは立ち上がった。
決意が固まった。
(ハインツ様に会いに行きましょう。そして、真実を確かめますわ)
〜〜〜
三日後。
アネットは一つの決断を実行に移した。ハインツに会いに行くことにしたのだ。
この三日間は地獄だった。
社交界の噂は瞬く間に広がり、多くの令嬢たちがアネットを訪ねてきた。表向きは慰問だが、実際は野次馬根性丸出しだった。
そして、アネットは彼女たちの心の声を、すべて聞いてしまった。
『公爵令嬢が婚約破棄なんて、スキャンダルね!』
『これで私のランクが上がるわ』
『可哀想……、でも、ちょっと嬉しいかも』
アネットは完璧な笑顔で応対しながら、内心では叫び続けた。
(皆さん、表情と本音が真逆すぎますわ! 社交界、恐ろしすぎますの!)
そんな三日間を経て、アネットは決意を固めた。
ハインツの本音を知る。それが、全ての始まりになる。
ヴィツォレク侯爵家の屋敷は、王都の貴族街にあった。アネットは使用人を連れず、一人で訪れた。門番は驚いた顔をしたが、公爵令嬢を断れるはずもなく、すぐに通された。
『公爵令嬢が一人で!? まさか、婚約を取り消すために……、いや、もう破棄されたんだった』
門番の心の声が聞こえる。アネットは内心でため息をついた。
(もう慣れましたわ、この手の野次馬根性には)
応接室に案内され、しばらく待つ。その間も、屋敷の使用人たちの心の声が聞こえてくる。
『お嬢様が来るなんて……、坊ちゃん、大丈夫かしら』
『坊ちゃん、あの後ずっと部屋に篭もってるのよね……』
アネットは眉をひそめた。
(ハインツ様、部屋に篭もっている? まさか、後悔しているんですの?)
やがてハインツが現れた。
彼の顔には疲労の色が濃かった。髪も少し乱れている。いつもなら完璧に整えられている彼の身なりが、今日は少し崩れていた。
「アネット……、来てくれたんだね」
ハインツの声には驚きと、そして少しの安堵があった。
「ええ。お話したいことがありまして」
アネットは優雅に微笑んだ。そして、能力を最大限に集中させた。彼の心の声を聞くために。
「話とは……?」
「婚約破棄の件ですわ。わたくし、貴方のお気持ちを理解したいと思いまして」
ハインツは複雑な表情をした。罪悪感と、そして何か別の感情が混ざっている。
「僕は……、君を傷つけてしまった。それは分かっている。でも、嘘をつき続けることもできなかった」
その瞬間、アネットの頭に彼の心の声が響いた。
『本当にすまない、アネット。君は完璧すぎた。完璧すぎて、僕は君の隣に立つことが恐ろしかった。君は全てを持っている。美しさ、知性、気品。その全てが、僕を委縮させた。でも、それは言い訳だ。本当の理由は……』
アネットは息を呑んだ。
(完璧すぎて恐ろしかった……? わたくし、そんな風に思われていましたの?)
ハインツの心の声は続く。
『あの日の雨の中で傘を差し出してくれた、あの温かさなんだ。雨粒が傘に当たる音、優しい笑顔、小さな手……、ああ、彼女の名前も顔もはっきり思い出せないのに、あの優しさだけは忘れられない。あの瞬間、僕は救われた。迷子で不安で泣きそうだった僕を、彼女は何も言わずに守ってくれた』
アネットは驚愕した。
(これ、完全にポエムですわ! しかも純度百パーセントの!)
『アネットは素晴らしい。でも、僕が求めているのは完璧さじゃない。あの日の、無償の優しさなんだ。それを、もう一度感じたい。彼女に会いたい。彼女を見つけたい。それが僕の……、僕のわがままなんだ……、ああ、アネット、君は何も悪くない。悪いのは全部僕だ。僕が弱いんだ。過去に囚われている僕が……』
アネットは呆れるのと同時に、妙な感動を覚えた。
(なんですの、この純度……! 使用人たちの打算的な心の声に慣れていたせいで、このピュアさが眩しすぎますわ! というか、自分を責めすぎですわ、この方!)
アネットは内心で動揺しながらも、表面上は冷静さを保った。
「その初恋のお相手、どのような方なのか詳しく教えていただけますか?」
ハインツは驚いた顔をした。
「なぜそんなことを……?」
「わたくし、貴方の気持ちを理解したいのです。そして、できれば……、お力になりたいと思いまして」
それは本心だった。アネットは驚いた。自分が本当にそう思っていることに。
復讐心もあった。傷ついた心もあった。でも、同時に、ハインツの純粋さに心を動かされていた。彼は悪意で婚約を破棄したのではない。ただ、純粋すぎるゆえに、幼い日の記憶に囚われているだけだった。
ハインツは少し考え、そして話し始めた。
「十年前、僕が八歳の時だった。王都の夏祭りに行って、迷子になったんだ。人混みの中で、家族とはぐれて。不安で泣きそうになっていた時、突然雨が降り出した。夏の激しい雨だった」
彼の目は遠くを見つめていた。
「困り果てていた僕に、一人の少女が近づいてきた。僕と同じくらいの年齢で、薄い金髪をしていた。彼女は何も言わずに、自分の傘を僕に差し出してくれたんだ。そして、優しく微笑んで、『大丈夫』と言ってくれた」
『あの笑顔……、本当に優しかった。天使のようだった。雨の音が、なぜか心地よく聞こえた。彼女の小さな手が、僕の手を握ってくれて、……温かかった。その後すぐに家族が見つけてくれて、僕は彼女にお礼を言う間もなく離れてしまった。名前も聞けなかった。でも……、忘れられないんだ。あの優しさが、あの温もりが、僕の心に深く刻まれている』
ハインツの心の声は、切実だった。
アネットは静かに聞いていた。
「それ以来、ずっと探している。でも見つからない。手がかりは、薄い金髪、男爵家か子爵家の令嬢らしいこと、そして優しい笑顔……、それだけだ」
アネットは静かに頷いた。
「そうでしたの……」
(十年も前の、ほんの一瞬の出会い。それにこれだけ囚われるなんて……、この方、ロマンチストすぎますわ。いえ、それとも純粋すぎるだけ? でも……、嘘はついていませんわね。本当に、心から彼女を探している)
アネットは深く息を吸い込み、そして決意した。
「ハインツ様、わたくしにその方を探すお手伝いをさせていただけますか?」
ハインツは驚愕の表情を浮かべた。
「え……? でも、君は……」
「わたくしは、貴方の元婚約者ですわ。だからこそ、貴方の幸せを願っています」
それは半分本心で、半分建前だった。本当の理由は、自分の目でその「初恋の相手」を確かめたかったからだ。そして、もしもその相手が本当に素晴らしい人なら、祝福しよう。でも、もしも……
アネットの心の中に、冷たいものが芽生えていた。
「本当に……、いいのか?」
「ええ。わたくし、決めましたの。貴方の初恋相手探しを、全力でお手伝いいたします」
アネットは優雅に微笑んだ。それは完璧な笑顔だった。だが、その目の奥には、何か別の光が宿っていた。
ハインツは感動した様子で、深々と頭を下げた。
「ありがとう、アネット。君は……、本当に心の広い人だ」
『ああ、アネットは本当に素晴らしい。こんな人を傷つけてしまった僕は、最低だ。でも……、でも、どうしてもあの少女に会いたいんだ。この気持ちを否定できない。アネット、本当にすまない……、本当に、すまない……』
、
ハインツの心の声は、罪悪感と渇望が混ざっていた。
アネットは心の中で呟いた。
(わたくし、今完璧に悪役令嬢の顔をしていますわね。でも構いませんわ。貴方の初恋相手がどんな方なのか、わたくしがしっかり確かめて差し上げます――)
そして、内心で付け加えた。
(――というか、本当にこの方、自分を責めすぎですわ。心の声が「すまない」「最低だ」のオンパレード。ちょっと心配になりますわね。もしかして、初恋の相手を見つけたら、この罪悪感から解放されるのかしら?)
〜〜〜
屋敷に戻ったアネットは、すぐに調査を開始した。
十年前の夏祭り。薄い金髪。男爵家か子爵家の令嬢。
手がかりは少ないが、不可能ではない。社交界のネットワークと、公爵家の情報網を使えば、該当する令嬢を絞り込める。
そして何より、アネットには心の声を聞く能力があった。
該当する令嬢たちに会い、心の声を聞く。真実を見極める。それができれば、ハインツの初恋の相手を見つけられる。
アネットは書斎に籠もり、資料を集め始めた。使用人たちには「読書をしたい」と告げた。
『お嬢様、気分転換に読書なんて、前向きですわ』
『やっぱり公爵令嬢は違うわね。婚約破棄されても立ち直りが早い』
使用人たちの心の声が聞こえる。アネットは内心で苦笑した。
そして、一人静かに考えた。
(わたくしは……、何をしようとしているのかしら。ハインツ様を助けたい? 真実の探求? それとも、初恋の相手の本性を暴いて復讐したい? 自分でも分かりませんわ)
だが、一つだけ確かなことがあった。
アネットは、もう以前の自分ではなかった。
心の声を聞く能力を得て、人々の本音を知り、世界の裏側を見てしまった。完璧な令嬢という仮面は、もう完全には元に戻らなかった。
そして、それは悪いことだけではないかもしれない。
なぜなら、今のアネットは、真実を見る目を持っているから。
(さあ、始めましょう。この茶番劇、わたくしが真実を明らかにして差し上げますわ)
アネットは静かに微笑んだ。




