崩れゆく幻想
晩餐会が終わり、貴族たちが去っていった。
大広間には、わずかな人々だけが残っていた。
アネット、ハインツ、アンドレイ、そしてホーエンベルク公爵。
ハインツは、窓際に立って外を見ていた。その背中は、深い悲しみに沈んでいるように見えた。
アネットは、彼に近づいた。
「ハインツ様……」
「来ないでくれ」
ハインツの声は、震えていた。
「今は……、君の顔を見たくない」
アネットは、立ち止まった。
ハインツの心の声が、聞こえてきた。
『十年間……、十年間、僕は何を信じていたんだ。あの優しさは、嘘だった。全て、計算だった。僕は……、馬鹿だった。アネットを傷つけて、幻想を追いかけて……、そして、こんな結末を迎えて』
アネットは、胸が痛んだ。
ハインツは、深く傷ついている。それは、彼女が望んだことではなかった。
「ハインツ様、わたくしは……」
「なぜだ」
ハインツが振り返った。その目には、涙が浮かんでいた。
「なぜ、こんなことをしたんだ。君は……、僕を憎んでいるんだろう? 婚約を破棄した僕を、復讐したかったんだろう?」
「違いますわ」
アネットは、首を振った。
「わたくしは、貴方を憎んでなどいません。確かに、傷つきました。怒りも感じました。でも……」
アネットは、真っ直ぐにハインツを見つめた。
「わたくしは、貴方がこれ以上傷つくのを見たくなかったのです。ニーナと結婚していたら、貴方はもっと深く傷ついたでしょう。だから……、わたくしは、真実を暴いたのです」
ハインツは、アネットを見つめた。
「君は……、僕のために?」
「ええ。貴方の幸せを願っています。それが、かつて婚約者だったわたくしにできる、最後の誠意ですわ」
ハインツの心の声が、聞こえた。
『アネット……、君は、こんなにも優しかったのか。僕は……、本当に、大切なものを失ってしまった。あの時の雨の傘より、君の優しさの方がずっと温かかったのに。なぜ、気づかなかったんだ』
アネットは、その心の声を聞いて、微笑んだ。
(……まだ傘の話してますの、この方。でも、少しは成長されたようですわね)
ハインツは、深く頭を下げた。
「すまなかった、アネット。僕は……、愚かだった。君という素晴らしい人を傷つけて、幻想を追いかけて。本当に……、すまなかった」
「顔を上げてください、ハインツ様」
アネットは、優しく言った。
「貴方は間違っていませんわ。運命の人を探すことは、美しい。ただ、幻想と現実を見極める目が必要だっただけ。今回のことで、貴方はそれを学んだのでしょう?」
ハインツは、ゆっくりと顔を上げた。
「僕は……、これから、どうすればいい?」
「前を向いて、歩いていくのです」
アネットは、微笑んだ。
「現実を見て、本当に大切なものは何かを考えて。そして、いつか本物の愛を見つけてください」
ハインツは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「アネット、僕は……、君を失って、初めて君の価値に気づいた。でも、もう遅いんだよな」
「ええ、遅いですわ」
アネットは、はっきりと言った。
「わたくしは、もう貴方の元には戻りません。わたくしには、わたくしの人生がありますから」
ハインツは、悲しそうに微笑んだ。
「そうだよな。君は、もっと素晴らしい人生を歩むべきだ」
『アネットは、僕なんかより、もっと良い相手を見つけるだろう。そして、幸せになるだろう。僕は……、それを願うしかない』
アネットは、ハインツの心の声を聞きながら、心の中で別れを告げた。
(さようなら、ハインツ様。貴方との日々は、決して無駄ではありませんでした。ありがとうございました)
ハインツは、最後に深々とお辞儀をして、会場を去っていった。
その背中は、寂しげだったが、どこか吹っ切れたようにも見えた。
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ハインツが去った後、アンドレイがアネットに近づいてきた。
「アネット様、お疲れ様でした」
「ええ、ありがとうございます、アンドレイ様」
アネットは、疲労を感じていた。だが、同時に解放感もあった。
長い戦いが、終わった。
真実を暴き、ハインツに現実を見せた。そして、自分自身も前に進める。
「アネット様、貴女は本当に強い方です」
アンドレイは、真剣な目でアネットを見た。
「最後まで、優雅に、そして毅然と振る舞われた。僕は……、貴女を尊敬しています」
『そして、愛しています。でも、それは言えない。今は、まだ……』
アネットは、アンドレイの心の声を聞いて、胸が温かくなった。
彼は、自分の感情を押し殺している。今は、それを伝えるべきではないと判断している。
それが、アンドレイの誠実さだった。
「アンドレイ様、わたくしこそ、貴方に感謝しております」
アネットは、微笑んだ。
「貴方がいなければ、わたくしは一人で戦わなければなりませんでした。貴方は……、わたくしの支えでしたわ」
アンドレイは、少し照れたように視線を逸らした。
「僕は、当然のことをしただけです」
『でも、嬉しい。アネット様の支えになれたなら、それだけで十分だ』
二人は、しばらく沈黙した。
そして、ホーエンベルク公爵が近づいてきた。
「アネット」
「はい、お父様」
公爵は、娘を見つめた。
「よくやった。お前は、ホーエンベルク家の誇りだ」
表面上は、父らしい言葉。だが、心の声は違った。
『アネットは、本当に強くなった。でも……、幸せなのだろうか。この子は、笑顔を見せているが、本当は傷ついているのではないか。父として、何かしてやれることはないのか』
アネットは、父の心の声を聞いて、涙が出そうになった。
父は、不器用ながらも、自分を愛してくれている。
「ありがとうございます、お父様」
アネットは、深々とお辞儀をした。
「わたくし、これからも公爵家の名に恥じぬよう、精進いたします」
「うむ。だが、無理はするな」
公爵は、珍しく優しい口調で言った。
「お前は、もっと自分を大切にしていい。完璧である必要はない」
アネットは、驚いた。
父が、こんなことを言うなんて。
「お父様……」
「アネット、お前は我が娘だ。公爵令嬢である前に、一人の人間だ。そのことを、忘れないでほしい」
公爵は、そう言って、会場を去っていった。
アネットは、その背中を見つめながら、静かに涙を流した。
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夜が更けて、アネットは一人、屋敷のバルコニーに立っていた。
星が瞬いている。美しい夜空。
全てが終わった。
ニーナの本性を暴き、ハインツに真実を見せた。そして、自分自身も前に進める準備ができた。
だが、アネットの心には、複雑な感情があった。
(わたくしは……、何を得て、何を失ったのかしら)
心の声を聞く能力。それは、真実を見抜く力を与えてくれた。だが同時に、多くの苦しみももたらした。
人々の本音を知ること。それは、世界を色褪せたものにした。
だが、同時に、本当に大切な人々も見えてきた。
アンドレイ。父。侍女のマリー。
彼らの心の声は、真っ直ぐで、優しかった。
(わたくしは……、孤独ではありませんわね)
アネットは、夜空を見上げた。
長い戦いは終わった。だが、新しい人生が始まろうとしていた。
心の声を聞く能力を持った、新しい自分として。
完璧な令嬢ではなく、傷つきながらも強く生きる、一人の女性として。
アネットは、静かに微笑んだ。
そして、心の中で呟いた。
(さあ、始めましょう。わたくしの、新しい人生を)
星が、優しく瞬いていた。




