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初恋の相手が忘れられないと婚約破棄されたら、心の声が聞こえる様になったので、相手を探してあげることにした。  作者: 四宮 あおい


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破棄の夜

 王都の夜空に、無数のガス燈が魔法のように輝いていた。正確には魔法ではない。この国に魔法は存在しない。それらは最新技術によって灯された、人工の光だった。だが、その光に照らされた王立学園の大広間は、まるで夢の中のように幻想的で美しかった。


 卒業パーティー。六年間の学園生活を終えた生徒たちが、社交界へと羽ばたく門出を祝う、華やかな夜。


 公爵令嬢アネット・フォン・ホーエンベルクは、その中心にいた。


 腰まで届く銀髪は丁寧に編み上げられ、深い青紫色の瞳は知性と気品に満ちている。純白のドレスに身を包んだ彼女の姿は、まるで月の女神のようだと、社交界の人々は囁いた。完璧な令嬢。それがアネットに与えられた評価だった。


 そして今夜、その完璧さはさらに際立つはずだった。なぜなら彼女の隣には、同じく完璧と称される青年が立っているはずだったから。


 侯爵子息、ハインツ・フォン・ヴィツォレク。金髪碧眼の端正な顔立ち、優れた剣術の腕前、そして何より誠実で優しい性格。彼はアネットの婚約者であり、二人は幼い頃から家同士の取り決めで結ばれる運命にあった。


 だが今、ハインツは彼女の隣にいなかった。


 パーティーが始まって一時間。アネットは社交辞令の笑顔を浮かべながら、内心では不安を抱えていた。ハインツが姿を見せないのだ。彼は時間に厳格な人間だった。遅刻など考えられない。


「アネット様、お顔の色が優れませんわ。お疲れですの?」


 伯爵令嬢の一人が、心配そうに声をかけてくる。


「いいえ、大丈夫ですわ。少し暑いだけですの」


 アネットは完璧な笑顔で答えた。貴族の令嬢として、十八年間で培った、完璧な笑顔。どんな状況でも決して取り乱さない、優雅な振る舞い。それがアネットの武器であり、同時に鎖でもあった。


 その時だった。


 大広間の扉が開き、ハインツが入ってきた。彼の表情は固く、いつもの柔和さが消えている。そして、彼の目はアネットを探していた。


 二人の視線が交わる。


 ハインツは真っ直ぐにアネットのもとへ歩いてきた。周囲の視線が集まる。何かが起こる。そんな予感が、会場を支配した。


「アネット……、お話があります。外へ」


 それは命令ではなく、懇願だった。だが断れるはずもない。アネットは優雅に微笑み、彼の申し出を受け入れた。


 二人は大広間を出て、バルコニーへと向かった。夜風が冷たく、アネットの頬を撫でる。眼下には王都の夜景が広がっていた。美しい光景だった。だがアネットには、その美しさを味わう余裕がなかった。


「ハインツ様、一体どうなさったんですの?」


 アネットは努めて平静を装って尋ねた。


 ハインツは深く息を吸い込み、そして言葉を紡いだ。


「アネット。君は素晴らしい人だ。聡明で、優雅で、誰もが認める完璧な令嬢だ。君と婚約できたことを、僕は誇りに思っていた」


 過去形。アネットはそこに気づいた。「思っている」ではなく「思っていた」。心臓が嫌な音を立てる。


「でも、僕には……、君と結婚することができない」


 時が止まった。


「初恋の人が、忘れられないんだ」


 ハインツの声は震えていた。それは嘘ではない。彼は本気だった。


「十年前、僕が八歳の時に出会った女の子。名前も顔もはっきりとは思い出せない。でも、あの日の温かさだけは忘れられない。雨の中で傘を差し出してくれた、あの優しさ。雨粒が傘に当たる音。小さな手の温もり。あの瞬間が、僕の心に深く刻まれているんだ」


 ハインツは遠くを見つめながら続けた。


「ずっと探してきた。でも見つからなかった。だから、このまま君と結婚すれば、忘れられると思った。でも……、できなかった。君を裏切ることになる。君は僕の全てを捧げるに値する人だ。だからこそ、中途半端な気持ちで君と結婚することはできない」


 それは、ある意味では誠実だった。嘘をついて結婚するよりも、真実を告げて身を引く。ハインツらしい選択だった。


 だが、アネットにとってそれは、雷に打たれたような衝撃だった。


「……そう、ですの」


 アネットは静かに言った。声は震えていなかった。表情も崩れていなかった。完璧な令嬢は、こんな時でも完璧でなければならなかった。


「本当にすまない。僕は……、君を傷つけたくなかった。でも、嘘をつき続けることもできなかった」


「構いませんわ」


 アネットは微笑んだ。それは完璧な笑顔だった。


「貴方の気持ちは理解しましたわ。確かに、愛のない結婚は不幸ですもの。わたくし、貴方の誠実さに感謝いたします」


 嘘だった。感謝などしていない。今すぐ叫び出したかった。でもそれはできない。公爵令嬢として、最後まで優雅でいなければならない。


「ありがとう、アネット。君は……、本当に素晴らしい人だ」


 ハインツは深々と頭を下げた。そして、何も言わずにバルコニーを去っていった。


 一人残されたアネット。


 彼女は欄干に手をかけ、夜空を見上げた。星が瞬いている。綺麗だった。でも、その美しさが今は残酷に思えた。


 どれくらいそうしていただろう。アネットはゆっくりと振り返り、大広間へと戻った。パーティーはまだ続いている。だが、彼女が会場に戻ると、ざわめきが広がった。


 ハインツは既に会場を去っていた。そして、彼が婚約破棄を宣言したという噂は、あっという間に広まっていた。


 アネットは微笑んだ。完璧な笑顔で。


「皆様、ご心配なく。わたくしは大丈夫ですわ」


 そう言って、彼女は優雅に会場を後にした。背筋を伸ばし、一歩一歩を丁寧に踏みしめながら。誰にも、その心の内を悟られないように。



 〜〜〜 



 屋敷に戻ったアネットを、使用人たちが迎えた。彼らは皆、心配そうな顔をしていた。噂はもう届いているのだろう。


「お嬢様、お疲れですわね。お部屋にお茶をお持ちいたしますわ」


 侍女の一人が優しく声をかける。アネットは静かに頷いた。


 自室に戻り、ドアを閉めた瞬間。


 アネットの膝から力が抜けた。


 彼女はその場に崩れ落ち、初めて涙を流した。声を殺して、激しく泣いた。


 十八年間、完璧であり続けた。常に周囲の期待に応え、公爵家の名に恥じない振る舞いをしてきた。ハインツとの婚約も、当然の流れだった。幼い頃から決まっていて、二人はそれを受け入れていた。


 愛情があったかと問われれば、正直分からない。でも、彼は優しかったし、尊敬できる相手だった。一緒にいて心地よかった。それが愛でなくても、幸せな結婚はできると信じていた。


 それなのに。


 初恋。十年前の、顔も名前も思い出せない少女。傘を差し出しただけの、ほんの一瞬の出会い。それが、十八年間築き上げてきた全てを打ち砕いた。


 不公平だった。理不尽だった。でも、それが現実だった。


 アネットは涙を拭い、ベッドに倒れ込んだ。もう何も考えたくなかった。眠りたかった。全てを忘れたかった。

 だが、眠りは訪れなかった。


 代わりに、声が聞こえてきた。


『かわいそうに、お嬢様……、でも侯爵様、意外と情熱的なのね。ロマンチックだわ〜』


『これで婚姻の準備金が浮くな。公爵様、内心ホッとしてるんじゃないか?』


『婚約破棄なんて、公爵家の恥だわ。早く次の縁談を見つけないと』


 アネットは飛び起きた。


 声が聞こえる。複数の声が。でも、部屋には誰もいない。


(幻聴……? いえ、それにしては妙にリアルですわ。というか、準備金がどうとか、生々しすぎません!?)


 彼女は混乱しながら、ドアを開けた。廊下に使用人が数人いた。だが、彼らの口は動いていない。


 それなのに、声が聞こえる。しかも複数同時に。


『お嬢様、大丈夫かしら。顔色が悪いわ』


『婚約破棄のショックよね。可哀想に』


『でも、これでうちの子にもチャンスが……、いや、そんなこと考えちゃダメだ』


『今夜の夕飯、余ったパイがあるかしら』


『靴が痛い……、早く休みたい……』


 アネットは目を見開いた。


(ちょ、ちょっと待ってくださいまし! 最後の二人、わたくしの心配より私的な事情を優先してますわ! っていうか、これって……、まさか……)


 彼女は慌ててドアを閉めた。そして深呼吸をして、もう一度開ける。


 使用人たちの声が、また聞こえてきた。


『やっぱり様子がおかしいわ。どうしよう』


『ショックで気が触れてしまったのかしら……』


『ドアの開け閉めを繰り返すなんて……』


(違います! わたくし、確認作業をしているだけですの! というか、今確実に「気が触れた」って思われましたわね!?)


 アネットは再びドアを閉め、額に手を当てた。


(落ち着きなさい、アネット・フォン・ホーエンベルク。これは夢ですわ。そう、婚約破棄のショックで見ている悪夢。そのうち目が覚めて、ハインツ様が優しく微笑んでいて、「ごめん、冗談だよ」って言ってくれる……、わけないですわね)


 アネットは自分の頬をつねった。


 痛い。


(痛いですわ! ということは夢じゃありませんの! じゃあこの声は……、本当に……、心の声!?)


 理解した瞬間、恐怖とともに別の感情が湧き上がってきた。


(なんですの、この謎能力! せめて魔法とか、もっと便利なものになってくださいまし! 空を飛べるとか、火を出せるとか、せめて物を動かせるとか! なぜよりによって心の声なんですの!)


 アネットは枕に顔を埋めて、小さく叫んだ。


(しかも、今のわたくし、「夕飯のパイ」とか「靴が痛い」とか、どうでもいい情報まで聞こえてきましたわ! これ、制御できませんの!? オン・オフのスイッチとか、音量調整とか、せめてチャンネル選択機能とかないんですの!?)


 彼女は必死に「能力よ、止まれ」と念じてみた。


 何も起こらない。


 次に「心の声、聞こえないでください」と祈ってみた。


 やはり何も変わらない。


(使えない! なんて使えない能力ですの! というか、もう十分傷ついているんですから、これ以上人の本音なんて聞きたくありませんわ! わたくし、今何をしたというんですの! 婚約破棄されて、その上こんな呪いのような能力まで! 神様は一体わたくしに何の恨みがあるというんですの!?)


 その時、ドアがノックされた。


「お嬢様、お茶をお持ちしましたわ」


 侍女のマリーの声だった。


 アネットは慌てて涙を拭い、姿勢を正した。


「どうぞ」


 マリーが入ってくる。彼女は心配そうな表情でアネットを見た。


「お嬢様、本当に大丈夫ですか? お顔色が……」


『お嬢様、泣いていたのね。当然よね。婚約破棄なんて……、でも、こんなに取り乱したお嬢様を見るの初めてだわ。心配……』


 マリーの心の声は、純粋な心配だった。


 アネットは少し安堵した。少なくとも、この侍女は本当に心配してくれている。


「大丈夫ですわ、マリー。少し……、疲れただけですの」


「そうですか……、お茶を置いておきますわね。ゆっくりお休みください」


『本当は側にいてあげたいけど……、お嬢様、きっと一人になりたいわよね』


 マリーは名残惜しそうに部屋を出ていった。


 一人になったアネット。


 彼女はベッドに座り、頭を抱えた。


(これから、どうすればいいんですの? この能力、消えてくれる気配がありませんわ。ということは……、これから、ずっと人の本音を聞き続けなければならない?)


 想像しただけで恐ろしかった。


 社交界での会話。全ての人の本音が聞こえてしまう。父の本音。使用人たちの本音。友人たちの本音。


(もう、誰も信じられなくなりますわ……)


 アネットは震える手でお茶を飲んだ。温かい紅茶が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。


 そして、ふと思った。


(でも……、待てばいいのかも。この能力、婚約破棄のショックで一時的に現れただけかもしれませんわ。明日になれば、消えているかもしれない。そうに違いありませんわ。だって、こんな能力、続くはずがありませんもの)


 アネットはその希望にすがった。


 そして、ベッドに横になった。




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