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禁断の忠誠  作者: 海野雫
第二章 疑念と忠誠

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9/30

2-4

 日が傾き、書房に残っているのは二人だけになった。


 窓の外からは、夜風に揺れる木々の音が聞こえる。小宦官たちも下がり、広い書房に残るのは、紙の匂いと燭台のほのかな揺らめきだけだった。


 凌雪りょうせつは積み上げられた文書を整理しつつ、ふと殿下の様子をうかがった。


 景耀けいようは机に肘をつき、筆を手にしたままじっと書面を見つめている。だがその瞳は、まるで別のものを見ているようだった。


「……殿下」


 凌雪は思わず声をかけてしまった。


 その声に、景耀が顔を上げる。蒼い瞳が、まっすぐに凌雪を捉えた。


「ん……?」


 視線が絡んだ瞬間、胸の奥が跳ねる。


 気づけば、二人の間に沈黙が落ちていた。言葉も交わさず、ただ互いを見つめ合う時間が、妙に長く感じられた。


 夜更けの書房には、灯火がひとつだけ残されていた。書きかけの文書が机の上に積まれているが、景耀はもう筆を取っていない。


 沈黙の中、燭台の炎だけが小さく揺れ、壁に二人の影を映していた。


「……あの夜、お前は命を賭けた」


 低く響く声に、凌雪は背筋を伸ばした。


 景耀の瞳が、深い蒼を宿したまま凌雪を見据えていた。その眼差しは冷たくもあり、どこか迷うようでもある。


「なぜだ。忠義か、それとも……恐れか」


 凌雪は一瞬言葉を失った。あの夜――盃を叩き落とした瞬間にあったのは、ただひとつの思い。


「……殿下のお命を……失いたくなかったのです」


 絞り出すような声で答える。嘘ではない。それだけは胸を張っていえる。


「……ふん」


 景耀は小さく鼻を鳴らし、椅子から立ち上がった。


 歩み寄る足音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。凌雪は反射的に立ち上がり一歩下がったが、背中が書棚に当たった。


 逃げ場は、ない。


「お前は……不思議なやつだな」


 景耀はそう呟きながら、凌雪との距離をゆっくりと詰めていく。


 指先が肩口に触れた瞬間、熱が走った。触れた場所から、じんわりとした熱が全身に広がる。


 凌雪の呼吸が浅くなる。宦官である己にとって、このような接触はあまりにも場違いだ。だが――拒むという考えは、どこにも浮かばなかった。


「……殿下……」


 震える声で呼びかける。


 景耀の手が、肩から頬へと移る。指先が輪郭をなぞり、顎を軽く持ち上げた。


 蒼い瞳と目が合った瞬間、凌雪の心臓が大きく跳ねた。


「この目……嘘はつけぬな」


 囁きは、吐息に混じって頬をかすめる。景耀の顔がすっと近づいた。


 互いの呼吸が混ざり合い、室内の空気が熱を帯びる。


 ――こんなにも近いのに。


 理性が警鐘を鳴らす。だが身体が、動かない。


 景耀の唇が頬をかすめ、耳元へと滑る。吐息が触れた場所が、ひりつくように熱くなった。


「……この忠誠、確かに見たぞ」


 耳元に落とされた声は、甘く、低く、心を震わせる。


 凌雪はただ、目を閉じるしかなかった。


 ――殿下……。


 幼い日、両親に売られたときの記憶が蘇る。『お前は宮廷で生きろ』――それが最後の言葉だった。以来、この身は誰のものでもなく、ただ生き延びるためだけに動いてきた。


 だが今、初めて――守りたいと思う者ができた。


 そして今、初めて――誰かに触れられることが、こんなにも温かいのだと知った。


 胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に音を立てて崩れていった――。



 その後、凌雪は書房近侍として働き始めて数日が経った。


 朝早くに書房に入り、景耀が書房に入ってくる頃には、すでに整理された書簡が机の上に積み上げられていた。景耀が席につくと、その日の来訪者について伝える。


「本日は魏嵐様が治水事業の件でお話に来られます」

「わかった。他には?」

「本日の来訪の予定はございませんが、溜まった書類を片づけるのがよろしいかと……」


 景耀はうんざりした顔をして、積み上げられた書簡を見上げた。


「……ふむ。そうするか」


 景耀と同じ部屋で仕事をするようになり、今まで見ることのなかった表情が垣間見れる。国王の代理とはいえ、まだ二十二歳の若き青年だ。書簡に向き合う姿は凛々しく、美しかった。その横顔をそっと眺めているだけで、心がほんのりと温かくなった。


 自分が殿下の執務の補佐を行っているなんて、いまだに信じられない。


 筆を握り、真剣に文書に向き合っている景耀を横目で見る。ふと、あの日の夜のことが思い出された。


 ――殿下はあの夜……。


 そう考えると頬に熱がこもってくるのがわかった。凌雪は頭を振って机の上の文書に目を落とした。


 執務中にそんなことを考えるとは。目の前の文書をひとつ片づけると徐に立ち上がった。


「殿下。李詹事りせんじの元に行って参ります」

「うん」


 凌雪は拱手をして、書房を後にした。



 ある日の午後、凌雪は政務棟へ向かう途中で、ふと視線を感じた。何気なく振り向くと、誰かがそこにいたのか、衣の裾が曲がり角で揺れていた。


 ――まさか、監視されているのか……。


 春の宴の件以来、何度か視線を感じたことがあった。やはり、まだ何か陰謀が燻っているようだ。


 急いで宰相執務室へ向かうと、控えの間にいる書記官に拱手をした。


「太子殿下よりお預かりしました」


 すると書記官は筆を置き、書簡を確かめた。


「しばしお待ちを」


 そういうと、宰相執務室へと書簡を持って行った。しばらくその場で待っていると、執務室の扉が開いた。中に目をやると高官がこちらを見ていた。その眼差しは鋭く、何かを探っているようだった。


「宰相閣下はただいま政務中につき、書簡はこのままお預かりするとのことです」


 書記官が刺すような眼差しで凌雪を見た。


「承知しました。それではよろしくお願いいたします」


 再び拱手をして、宰相執務室の控えの間を後にした。


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