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日が傾き、書房に残っているのは二人だけになった。
窓の外からは、夜風に揺れる木々の音が聞こえる。小宦官たちも下がり、広い書房に残るのは、紙の匂いと燭台のほのかな揺らめきだけだった。
凌雪は積み上げられた文書を整理しつつ、ふと殿下の様子をうかがった。
景耀は机に肘をつき、筆を手にしたままじっと書面を見つめている。だがその瞳は、まるで別のものを見ているようだった。
「……殿下」
凌雪は思わず声をかけてしまった。
その声に、景耀が顔を上げる。蒼い瞳が、まっすぐに凌雪を捉えた。
「ん……?」
視線が絡んだ瞬間、胸の奥が跳ねる。
気づけば、二人の間に沈黙が落ちていた。言葉も交わさず、ただ互いを見つめ合う時間が、妙に長く感じられた。
夜更けの書房には、灯火がひとつだけ残されていた。書きかけの文書が机の上に積まれているが、景耀はもう筆を取っていない。
沈黙の中、燭台の炎だけが小さく揺れ、壁に二人の影を映していた。
「……あの夜、お前は命を賭けた」
低く響く声に、凌雪は背筋を伸ばした。
景耀の瞳が、深い蒼を宿したまま凌雪を見据えていた。その眼差しは冷たくもあり、どこか迷うようでもある。
「なぜだ。忠義か、それとも……恐れか」
凌雪は一瞬言葉を失った。あの夜――盃を叩き落とした瞬間にあったのは、ただひとつの思い。
「……殿下のお命を……失いたくなかったのです」
絞り出すような声で答える。嘘ではない。それだけは胸を張っていえる。
「……ふん」
景耀は小さく鼻を鳴らし、椅子から立ち上がった。
歩み寄る足音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。凌雪は反射的に立ち上がり一歩下がったが、背中が書棚に当たった。
逃げ場は、ない。
「お前は……不思議なやつだな」
景耀はそう呟きながら、凌雪との距離をゆっくりと詰めていく。
指先が肩口に触れた瞬間、熱が走った。触れた場所から、じんわりとした熱が全身に広がる。
凌雪の呼吸が浅くなる。宦官である己にとって、このような接触はあまりにも場違いだ。だが――拒むという考えは、どこにも浮かばなかった。
「……殿下……」
震える声で呼びかける。
景耀の手が、肩から頬へと移る。指先が輪郭をなぞり、顎を軽く持ち上げた。
蒼い瞳と目が合った瞬間、凌雪の心臓が大きく跳ねた。
「この目……嘘はつけぬな」
囁きは、吐息に混じって頬をかすめる。景耀の顔がすっと近づいた。
互いの呼吸が混ざり合い、室内の空気が熱を帯びる。
――こんなにも近いのに。
理性が警鐘を鳴らす。だが身体が、動かない。
景耀の唇が頬をかすめ、耳元へと滑る。吐息が触れた場所が、ひりつくように熱くなった。
「……この忠誠、確かに見たぞ」
耳元に落とされた声は、甘く、低く、心を震わせる。
凌雪はただ、目を閉じるしかなかった。
――殿下……。
幼い日、両親に売られたときの記憶が蘇る。『お前は宮廷で生きろ』――それが最後の言葉だった。以来、この身は誰のものでもなく、ただ生き延びるためだけに動いてきた。
だが今、初めて――守りたいと思う者ができた。
そして今、初めて――誰かに触れられることが、こんなにも温かいのだと知った。
胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に音を立てて崩れていった――。
*
その後、凌雪は書房近侍として働き始めて数日が経った。
朝早くに書房に入り、景耀が書房に入ってくる頃には、すでに整理された書簡が机の上に積み上げられていた。景耀が席につくと、その日の来訪者について伝える。
「本日は魏嵐様が治水事業の件でお話に来られます」
「わかった。他には?」
「本日の来訪の予定はございませんが、溜まった書類を片づけるのがよろしいかと……」
景耀はうんざりした顔をして、積み上げられた書簡を見上げた。
「……ふむ。そうするか」
景耀と同じ部屋で仕事をするようになり、今まで見ることのなかった表情が垣間見れる。国王の代理とはいえ、まだ二十二歳の若き青年だ。書簡に向き合う姿は凛々しく、美しかった。その横顔をそっと眺めているだけで、心がほんのりと温かくなった。
自分が殿下の執務の補佐を行っているなんて、いまだに信じられない。
筆を握り、真剣に文書に向き合っている景耀を横目で見る。ふと、あの日の夜のことが思い出された。
――殿下はあの夜……。
そう考えると頬に熱がこもってくるのがわかった。凌雪は頭を振って机の上の文書に目を落とした。
執務中にそんなことを考えるとは。目の前の文書をひとつ片づけると徐に立ち上がった。
「殿下。李詹事の元に行って参ります」
「うん」
凌雪は拱手をして、書房を後にした。
*
ある日の午後、凌雪は政務棟へ向かう途中で、ふと視線を感じた。何気なく振り向くと、誰かがそこにいたのか、衣の裾が曲がり角で揺れていた。
――まさか、監視されているのか……。
春の宴の件以来、何度か視線を感じたことがあった。やはり、まだ何か陰謀が燻っているようだ。
急いで宰相執務室へ向かうと、控えの間にいる書記官に拱手をした。
「太子殿下よりお預かりしました」
すると書記官は筆を置き、書簡を確かめた。
「しばしお待ちを」
そういうと、宰相執務室へと書簡を持って行った。しばらくその場で待っていると、執務室の扉が開いた。中に目をやると高官がこちらを見ていた。その眼差しは鋭く、何かを探っているようだった。
「宰相閣下はただいま政務中につき、書簡はこのままお預かりするとのことです」
書記官が刺すような眼差しで凌雪を見た。
「承知しました。それではよろしくお願いいたします」
再び拱手をして、宰相執務室の控えの間を後にした。




