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春の朝。凌雪は朝議の広間の端、書記官たちが控える場所に立っていた。
整列した官吏たちの衣がかすかに揺れるたび、さざ波のような音が広間に響いた。まだ冷え込みの残る空気の中、人々は息を潜めていた。
――皆、あの夜のことを知っているのだ。
夜宴の毒杯事件は、すでに宮廷中の話題となっていた。凌雪に向けられる視線には、驚きと警戒が入り混じっている。一介の宦官が王太子を救ったという事実に、誰もが動揺していた。
玉座の代わりに据えられた王太子の座に、景耀が腰を下ろした。その姿を見上げながら、凌雪の胸は高鳴った。景耀は冷ややかに列を見渡している。その威厳ある姿は、まさに次代の国王にふさわしいものだった。
「――殿下」
沈黙を破ったのは、宰相・魏嵐であった。
凌雪は身を硬くした。黒く整えられた髭に手を添え、魏嵐が一歩進み出る。その声音には敬意がこもっているものの、凌雪にはその裏に何か別の意図があると感じられた。
「一昨日の宴……殿下の御身に毒が盛られたとうかがい、臣は驚愕いたしました。幸い事なきを得ましたが、これは宮中の警護体制に重大な欠陥がある証拠ではないでしょうか」
ざわ……と官吏たちの列がざわめいた。
凌雪は俯いた。魏嵐の言葉が、自分に向けられていると感じたからだ。
「しかも、毒を見抜いたのは……ただの宦官だったそうですね」
魏嵐が意味深に目を細める。その視線が一瞬、凌雪をかすめた。
「もしや、内に敵が潜んでいるのかもしれませぬな。さもなくば、このような事態が起こるはずがございません」
――私を、疑っている。
凌雪は拳を握りしめた。自分が毒を仕込んだのではないかと、暗に示唆しているのだ。
景耀が静かに扇を開く音が響いた。その目が魏嵐へと向けられるのを、凌雪は見た。
「宰相」
穏やかな声が広間に響いた。しかし、その声の奥に秘められた鋭さを、凌雪は感じ取った。魏嵐の表情がわずかに変化したのも見逃さなかった。
「宮廷の内に敵がいるというのなら、それは私が排除する。誰であろうと、だ」
その一言で、広間の空気がぴんと張り詰めた。
凌雪は顔を上げ、景耀を見つめた。その横顔は凛としており、揺るぎない決意がうかがえた。
――殿下は、私を守ってくださっている。
胸が熱くなった。
魏嵐は形ばかりの拱手をし、一歩下がる。
「……殿下のご威光、恐れ入りました」
しかし凌雪には、魏嵐の瞳に宿る光が消えていないのがわかった。あの男はまだ諦めていない。むしろ、次の策を巡らせているようだった。
朝議は粛々と進んだ。治水、鉱山、税制――次々に文官たちが報告を述べる声を聞きながら、凌雪は筆を走らせた。
しかし、心は景耀の言葉を繰り返し思い返していた。
――私が排除する。誰であろうと、だ。
その言葉は、凌雪に対する信頼の証しであった。
*
春も深まる頃、ある日の午後。
控えの間では宦官たちが出入りを繰り返し、文書の仕分けや茶の準備に追われている。凌雪もまた、机に向かって山のような奏状を整理していた。
そこへ、廊下から靴音が響いた。
ざわめきが一瞬で消え、全員が動きを止める。
景耀が姿を現したのだ。
「殿下……」
小宦官たちが慌てて膝をつき拱手する。凌雪もすぐに立ち上がり、深く頭を垂れた。
景耀は一瞥するだけで空気を制する。その蒼い瞳が、凌雪に向けられた。
「凌雪。こちらへ」
低く響く声に呼ばれ、凌雪は一歩前へ出る。
「今日から、お前には書房内で直接政務を補佐してもらう」
「……はっ」
予想外の命に、凌雪の胸が高鳴った。
周囲から驚きと嫉妬が入り混じった視線が集まる。宦官が書房で太子の補佐を務めるなど、めったにないことだった。
「李徳謙には詹事の仕事に戻ってもらう。お前はその席に座れ」
景耀が扇で書房の一角を示した。
凌雪は拱手して深く礼をし、書房へと足を踏み入れる。
書房の空気は、控えの間とはまるで違っていた。沈黙と緊張、そして紙と墨の匂い。机の上には山のように文書が積まれ、窓辺から春の柔らかな光が差し込んでいる。
凌雪は筆と朱印を手に取り、内容ごとに奏状を分類していく。
国境の防備、治水事業、税制改革――。内容は多岐にわたるが、凌雪の頭は冴えていた。文字を追い、素早く要点を抽出して書き付ける。
その作業を、景耀が黙って見ていた。
――……殿下の視線が、こちらに……。
背中に刺さるような緊張を感じながらも、手を止めることはできない。
見られている緊張感から心臓が落ち着かない。筆先がわずかに震える。
「……仕事はできるようだな」
不意に景耀が呟いた。
「は、僭越ながら……」
凌雪は思わず声を上ずらせ、恥ずかしさに頬が熱を帯びた。
景耀はそれ以上何もいわず、机に視線を戻したが、その横顔にはわずかな興味の色が見えた。
*
それから、凌雪は景耀の書房で執務を行いながら、控えの間にも足を運び、小宦官たちの業務に目を配った。
最初は目障りそうに睨みつけていた小宦官たちだったが、凌雪がこまめに声をかけていくうちに、少しずつ表情が和らいでいった。
筆が止まっている宦官がいれば、その理由を尋ね、苦しそうな顔をしている者がいれば声をかけて悩みを聞いた。
「中庶子という立場ではあるが、私も宦官。何か困っていることがあれば、いつでも相談に乗るから声をかけてくれ」
優しく微笑みかけると、年下の若い小宦官は頬を赤らめた。
「あ、ありがとうございます」
「皆も、何かあったら私に相談してくれ」
すると、数人の小宦官たちが拱手をして深く首を垂れた。
その様子を見ると、胸が熱くなった。少しずつではあるが、控えの間の小宦官たちに受け入れられつつあるようだ。
「お前が殿下のお側にいられるようになるとはな」
小宦官が拱手をしている様子を見た韓文が複雑な表情を見せた。しかしその表情は以前のように嫉みを孕んだものではなかった。




