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禁断の忠誠  作者: 海野雫
第二章 疑念と忠誠

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2-2

 夜、扉の外に人の気配を感じて目が覚めた。こんな夜更けに人が訪ねてくるはずもなく、見回りの宦官が通り過ぎたのだろうと気にも止めなかった。


 喉を潤すために水甕に近づいた。すると、回廊の水晶灯の灯りが細長く差し込む中、部屋の中に影が落ちた。その影は通り過ぎることなく、その場に佇んでいる。


 ――もしや、殿下の暗殺を拒んだ私へ報復か!?


 そう考えると、息が荒くなり、胸が痛くなるほど鼓動が早くなった。命拾いをしたのに、再び、命を狙われるとは――。


 しかし凌雪りょうせつはただ黙って殺されるつもりはない。足音を立てないように寝台に引き返し、枕元の下に隠し持っていた短剣を手に、扉に近づいた。短剣を鞘から抜き、一気に扉を開いた。


「誰だ!」


 そこに立っていたのは、上質な麻布で仕立てられた濃紺の夜行衣やぎょうのころもに身を包み、肩から羽織った斗篷マントが夜風に翻っている。頭巾で顔を隠した、いかにも怪しい人物だった。やられる前に――そう思ったとき、その男は口元を覆っている黒い布を外した。


「私だ」


 刺すような視線が凌雪を捉える。


「で、殿下!」


 凌雪は慌てて膝をつき、拱手をし、深く頭を下げた。

「……刺客かと――」


 震える声でそういうと、景耀けいようはふっと笑った。


「私を殺すのであれば、今の状況がもう少し落ち着いてからにするんだな」


 挑発的な言葉だったが、その中には優しさが込められているように感じられた。


「ここで話すのは、目立つ。入ってもよいか?」


 その言葉を聞き、凌雪は顔から血の気が引いた。この部屋は中級宦官用で、普段景耀が過ごしている部屋に比べるととてつもなく質素だ。部屋の中は白壁に寝台、机と水甕だけ。そのような場所に王太子を招き入れることなど――。


「……ここは、殿下がお入りになるような場所では――」


 そういいかけた凌雪の声を、景耀は手で制した。


「構わぬ。誰にも見られてはおらぬ」


 斗篷を翻し、景耀は静かに部屋へと足を踏み入れる。


 油灯の明かりが揺れ、質素な部屋に二人だけの静かな空気が流れた。


「医官から自室に戻ったと聞いてな」


 景耀は頭巾を外し、息をついた。


 質素な部屋に王太子が立つ――その場違いな光景に、凌雪の鼓動が一気に跳ね上がる。


「毒の影響は、残っていないのか」

「……は、はい。医官の処置のおかげで……もう、大事はありません」

「そうか」


 それだけいって、景耀は小さな机の前に立ち止まった。灯りが彼の横顔を照らす。普段は人々を圧倒するその眼差しが、今はどこか柔らかい。


 凌雪は思わず目を逸らした。狭い部屋に二人きり――その事実が、息苦しいほど意識にのしかかってくる。


「なぜ、あのとき……あの盃をはじいた?」

「……殿下のお命を守るのが、わたくしの務めです」

「務め、か。……それだけで、毒に触れる覚悟ができるものなのか?」


 問い詰めるというより、景耀の声にはほんのわずかに――迷いのようなものが混じっていた。


 凌雪は胸の奥が締めつけられるのを感じながら、かすかに唇を噛む。


「ほかに、理由など……ございません」


 その返答に、景耀は目を細めた。まるで凌雪の心の奥を見透かすように。


 沈黙が落ち、油灯が小さくぱち、と音を立てた。


「宰相派の連中は、お前の行動を面白く思っていない」

「……承知しております」

「不用意に出歩くな。お前が死ねば、また面倒が増える」


 つっけんどんな言い方だったが、その奥にほんのわずかに――心配がにじんでいた。


 凌雪は驚いて顔を上げかけ、慌てて視線を伏せた。


「……殿下」

「……顔を見れば、生きているとわかると思ったが」


 その一言に、凌雪の胸がどくんと跳ねた。


 景耀は視線を逸らし、斗篷の裾を翻す。その背はすでに扉の方へ向いていたが、去り際、ふと振り返る。


「夜は冷える。……早く休め」


 油灯の淡い光の中で、景耀の瞳だけがまっすぐ凌雪を見ていた。


 その視線に、凌雪は言葉を失う。胸の奥が、熱いものに満たされていく。


「……御身を、お気遣いくださるとは……」


 呟いた言葉は、殿下が去った後の静寂に溶けた。


 戸を閉めた後もしばらく、凌雪の鼓動は落ち着かなかった。



 数日後、凌雪は控えの間に復帰した。


 廊下に出ると、ひやりとした春の朝の空気が肌を刺した。回廊の先に蒼穹宮の屋根が青空に映えている。


 控えの間に足を踏み入れた瞬間、数人の小宦官の視線が一斉にこちらに向けられた。驚き、嘲り、警戒——そのどれもが混ざり合った複雑な色だった。


「……生きてたのか」


 韓文かんぶんが半ば呆れたような声を出した。凌雪は表情を変えず、浅く拱手して答えた。


「戻った。仕事はあるか」

「ふん、毒を舐めた中庶子ちゅうじょし様が、よくぞご無事で。でも、命をかけてもお前は所詮、宦官だ」


 皮肉混じりの声に、周囲の宦官たちがクスクスと笑う。凌雪は何もいい返さず、席に着いた。


 ――変わったのは、毒のせいではない。東宮全体が、宴の夜を境に何かを孕み始めている。


 その空気を、凌雪は肌で感じ取っていた。


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