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禁断の忠誠  作者: 海野雫
第一章 邂逅と契約

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1-4

 春の夜。爽やかな風が東宮正殿を吹き抜ける。肌を撫でるそれは少しひんやりしている。


 灯籠と水晶灯で照らされた宴の広間は華やかに飾られている。薄紅の絹幕。梅と牡丹の花飾り。香炉からゆらゆらと立ち上る香煙が幻想的な空間を作り出している。


 春の宴は、春の節目を王家主催で祝う伝統的な行事だ。本来は国王が主催し、蒼穹宮そうきゅうぐう正殿で執り行われるのが常だが、国王が病に伏しているために東宮正殿で行うことになった。


 それゆえ、従来のものより規模を縮小し、招かれているのは景耀けいように近い若手官僚や文臣などだった。しかしその中には宰相派も含まれていた。


 凌雪りょうせつは給仕係として殿下からの伝令として李徳謙りとくけんより務めるようにいわれた。控えの間を出て正殿へ向かおうとしたとき、韓文かんぶんが声をかけてきた。


「へぇ……。中庶子ちゅうじょし様もお運びとは。随分ご立派なことで」


 刺すようなその視線は、凌雪を疑っているように見えた。


「いってくる。あとは頼んだ」


 自分が給仕係として任命されたのは、おそらく景耀に試されるためだろう。拳をギュッと強く握りしめ、正殿へと向かった。


 東宮正殿はすでに宴の準備が整っていた。


 広間には、すでに文臣や高官たちが着席し始めていた。春の宴の華やかさとは裏腹に、空気の底にはかすかな張り詰めた気配がある。


 凌雪は殿下の席のすぐ後ろに控えるよう指示を受けていた。整然と並べられた盃と酒器、香の煙。そこにわずかな異変があれば、真っ先に気づける位置だった。


 殿下の前に据えられた漆塗りの卓には、桃花酒の徳利と、純白の磁器の盃が二つ並んでいる。凌雪は軽く膝を折って卓上を確認し、盃の位置と酒器の封蝋を確かめた。


 ――異常なし。今のところは。


 宴が始まると、酒器の交換や盃の入れ替えが頻繁に行われる。そのときに何が起こるかが重要なのだ。


「そこの酒をこちらへ」


 下座の文臣が声を上げる。小宦官が慌てて徳利を運ぼうとしたが、手元がおぼつかない。


 凌雪は即座に横から滑るように出て、器を受け取った。


「私が運ぶ。お下がりを」


 表情を崩さず、しかし鋭く小宦官を制する。そのまま淡々と文臣の席に酒を注ぎ、再び殿下の背後に戻る。


 控えの間で小宦官たちを指揮してきた経験が、ここで生きる。宴の進行は一瞬でも乱れると場の空気が揺らぐ。凌雪はその全体を見渡しながら、ひとつひとつの動作に神経を尖らせていた。


 殿下の近くでは、李徳謙が臣下の報告に耳を傾けていた。視線が一瞬、凌雪に向く。あの目は、明らかに監視している目だ。


 ――油断するな。誰も味方はいない。


 凌雪は無言で杯の縁を布で丁寧に磨き、再び卓上に戻した。そのとき、ふと香炉の煙に紛れて、かすかに甘く苦い香りが鼻先をかすめた。


 ほんの一瞬。気のせいかもしれない。だが、胸の奥に冷たいものが落ちる。


 ――この香り……どこか、おかしい。


 宴の始まりを告げる太鼓が鳴り、春の夜が本格的に幕を開けた。


 桃花酒が皆の盃に注がれる。


 景耀が立ち上がり正殿の中央に進み出た。凌雪はその様子に目を光らせる。


 正殿中央に景耀がたどり着くと、それまで流れていた音楽が止み、会場は静まりかえる。


 景耀は杯を持ち上げながらも、その蒼い瞳は会場を鋭く見渡していた。誰が味方で、誰が敵か――若き王太子は常に孤独な戦いを強いられている。だがその孤独を、決して表には出さなかった。


 景耀が盃を持ち上げると参加者は一斉に立ち上がった。


「――皆のもの、杯を掲げよ。春の訪れを祝い、蒼嶺国の繁栄と民の安寧を、天に祈ろう!」

「献!」


 宴の開始と同時に凌雪に緊張が走った。凌雪は景耀の一挙手一投足に注意をする。何か異変があればすぐに動けるようにしておかねばならない。


 景耀が盃を口につけ、酒を飲み干した。


 ――よかった……。ひとまず何事も起こらなかったか。


 ここには毒は仕込まれていなかったとホッと胸を撫で下ろす。


 だがしかし、宴は始まったばかり。まだまだ気を許すことはできない。


 前菜の配膳が始まった。凌雪は景耀の膳の前に立ち、異変がないかを確認する。


 ――先ほど感じた香り……気のせいだったのだろうか。


 料理は銀の食器に美しく盛り付けられている。もし毒が混入されていれば、銀が変色するのですぐにわかるはずだ。


 ――よし。異常はなさそうだ。


 景耀の膳を手に取り、殿下の前に置いた。李徳謙がそれを鋭い視線で見つめている。


 自分が試されているのと同時に、疑われているのはわかりきっている。何事も起こらないように細心の注意をするしかない。


 前菜を配膳し終え、景耀が口にするのを見守る。


 ――前菜も異常なし。


 それを見届けると、酒を注いで回る給仕係へ「一旦外す」と告げ、景耀の元を離れて次の主菜の給仕の準備へと向かった。そこに並べられている皿を一つずつ確認する。特に景耀の膳には目を光らせる。前菜に引き続き、主菜にも異常は見当たらない。それを確認し、景耀の元へと戻った。


「殿下、膳をお下げいたします」


 耳元でそう告げると、景耀は目線をこちらに向けて軽く頷いた。膳を下げると、素早く会場に目をやった。不穏な動きをしているものがいないか、怪しいものが紛れ込んでいないかを確認する。


 主菜の膳を運ぶ頃には、会場は楽しげな話し声で賑わっていた。焼き物・煮物・蒸し物、肉料理など豪華な品々が卓上に並ぶ。酒も進み、景耀に献酒に来る高官も現れる時間帯だ。凌雪はさらに警戒を強め、会場全体に目を光らせた。給仕係として最も慌ただしくなる。景耀のやや後ろに立ち、会場をくまなく見渡すが、不審な動きは見当たらなかった。


 ――もしや、私の勘違いだったか……。


 宴も終わりに近づいていた。春の夜風が絹幕をやさしく揺らし、香炉の煙は細く天へと昇っていく。


 正殿には穏やかな笑い声が満ち、初春の節目を祝う宴は、滞りなく進んでいるように見えた。


 ――だが、油断はできない。


 凌雪は給仕係として壁際に控え、景耀の席を一瞬も目から離さぬようにしていた。


「――これにて今宵の宴を締めよう。皆、杯を上げよ」


 高座に座していた景耀が立ち上がると、場内の空気がすっと張り詰めた。


 宦官たちが一斉に動き出し、献酒の準備に入る。献酒は宴の最も重要な締めの儀――つまり、この夜の標的が狙うならまさにこの瞬間だ。


 銀盆に乗せられた酒器と杯が、ゆるやかな動作で景耀の前へと運ばれる。盆を持つのは、宴の儀式を司る儀礼宦官。慎重な足取りで進み、王太子の席に近づいていく。


 凌雪の喉がかすかに鳴った。


 ――……ここだ。ここで仕掛けてくるはず。


 景耀はまだ杯に手を伸ばしていない。会場の視線が集まる中、宦官たちは整然と動いていた――そう思われた。


 そのとき、儀礼宦官の背後からもう一人の宦官が静かに近づいた。


「杯の向きを整えます」


 その声は自然だったが、凌雪の耳にはどこか緊張が走ったように感じられた。


 銀盆の上、儀礼宦官が捧げ持つ王太子用の杯。その杯の縁に、宦官の白い指が一瞬触れた気がした。


 ほんのわずかな間だったが、凌雪はその動きを見逃さなかった。


 ――……今、入れ替えた!?


 盆の上には同じ形の杯が二つ並ぶ。最初の位置がどちらだったか、一瞬の迷いもあって確信は持てない。しかし、宦官が触れた後で、杯の位置がわずかに変わっているのがわかった。


 そして杯が酒で満たされ、儀礼宦官がそれを恭しく景耀の前へ差し出した。


 周囲の官吏たちが立ち上がり、「献!」の声を待っている。


 ――まずい。


 凌雪の背筋を、冷たい汗が一筋流れ落ちた。


 この献酒は形式上、王太子が盃を掲げてから全員で飲む。つまり、景耀が杯に口をつけるのは次の一呼吸の間だ。


 凌雪は拳を強く握りしめる。迷っている暇はない。


 ――あの杯に毒が仕込まれているとしたら……殿下は、今この瞬間に――。


 景耀が杯を手に取った。


 会場が静まりかえる。


 景耀の横顔を、燭台の光が照らした。


 ――今だ。


 凌雪は走り出していた。


 絹靴が石床を滑るように進み、次の瞬間、伸ばした腕が杯を弾き飛ばした。


 高らかな破砕音が正殿に響き渡る。割れた杯から酒が飛び散り、床に濃い影を作った。


「な……っ!」

「何事だ!」


 会場が騒然とする中、凌雪は膝をつき、割れた杯を掴んで香りを嗅いだ。


 淡い花の香りに混じり、かすかに金属の匂いがした――。


 ――やはり……! 白雪はくせつか! 宮中で禁じられて久しいこの毒が、いまだに流通していたとは……。


 周囲から罵声が飛ぶ。


「無礼者!」

「殿下に何をするつもりだ!」


 李徳謙が憤然と席を蹴って立ち上がる。だが景耀が片手を上げ、静かにそれを制した。


 凌雪は額を床に擦りつけるように拱手した。


「――殿下。杯には、毒が……」


 景耀の蒼い瞳が、初めて真っすぐに凌雪を射抜いた。


 怒りでも驚きでもない。その奥に、ほんの一瞬、別の感情が揺れた気がした。


「何をいうか!」


 李徳謙の怒声が響き渡った。


「そのようなもの、ただの酒の匂いでわかるわけがなかろう!」


 凌雪は何もいわず、指先で床に残った酒を掬い上げた。


「ならば、証明してみせましょう」


 そう呟いて、指を口の中に運んだ。


 舌に触れた瞬間、強烈な苦味と焼けつくような熱さが広がった。


「うぅっ……」


 喉に焼けるような痛みが走る。凌雪は両手で喉を押さえ、身体から血の気が引いていくのを感じる。膝が震え、ついには床に両膝をついた。


 辺りが騒然となり、景耀のまわりには近衛兵が集まってきた。そこかしこから息を呑む音が聞こえる。その中で、李徳謙が無表情な眼差しを凌雪に向けた。


「お前、まさか自分で仕込んだのではなかろうな。それゆえ、気づけたと――」

「黙れ!」


 李徳謙の言葉を景耀が遮った。


「凌雪が命を賭したのだ」


 李徳謙の表情が苦々しく歪んだが、それ以上、言葉を発することができなかった。


 凌雪の息が徐々に荒くなる。片膝を床につき、息も絶え絶えになりながら拱手をして深く首を垂れた。重ねた手が震えている。


「殿下……わたくしの命は……殿下に――」


 視界が揺らぎ、床が傾く。だが凌雪は笑みを浮かべた。


 ――殿下は、無事だ。それだけで十分だ。


 意識が遠のく中、景耀の声が聞こえた気がした。


「凌雪――」


 初めて、名を呼ばれた。それだけで、この命を懸けた価値があった。


 幼い日、両親に売られたときの記憶が蘇る。


『お前は宮廷で生きろ』――それが最後の言葉だった。


 以来、この身は誰のものでもなく、ただ生き延びるためだけに動いてきた。


 だが今、初めて――心から守りたいと思える相手ができたのだ。


 正殿内はざわめきが広がった。


 凌雪の視界は徐々にぼやけていく。ガクリと傾く凌雪の身体を景耀が受け止めた。


「お前がそこまでいうのなら、見届けてやろう」


 景耀の腕の中で、凌雪の意識は闇に沈んでいった。


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