6-3
翌朝、雪はやんでいた。
白い屋根の上に朝の光が反射し、まぶしいほどに輝いている。積もった雪が陽光を受けて、きらめいていた。
氷のように冷えた空気の中で、遠くから木槌の音が響いていた。政務棟の修復が再び始まったのだ。
東宮の中庭では、枝に積もった雪が落ちるたび、静かな音を立てていた。時折、小鳥が枝から枝へと飛び移り、雪を散らしていく。
その下で凌雪は、壊れた灯籠の石片を拾い上げていた。反乱の折、瓦礫に押されて倒れてしまったのだ。この灯籠は、東宮の中でも古いもので、何代もの王太子を見守ってきたという。
灯籠の欠けた部分を確かめるように手で撫でる。冷たい石の感触が、指先から伝わってくる。
――灯りの守り手が、再び立つ日がくるのだろうか。
そんなことを考えながら、凌雪は小さく息をついた。白い息が朝の空気に溶けていく。
「ここにいたのか」
背後から穏やかな声がした。振り返る前に、その声が誰のものか凌雪にはわかっていた。
振り返ると、景耀が外套を羽織り、ゆっくりと歩いてきた。朝の光に包まれたその姿は、凛としていて、まるで冬の空そのもののようだった。
「殿下……。お寒い中を」
凌雪が慌てて拱手すると、景耀は軽く首を振った。
「かまわぬ。今は冷たさの方が、目を覚まさせてくれる」
そういいながら、景耀は灯籠の欠片に視線を落とした。朝日を浴びて、石の断面がきらきらと輝いていた。
「反乱のときに壊れたのだな」
「はい。今朝、片づけておりました」
「もったいないな。灯りが絶えたままでは、夜が長く感じる」
景耀の声はどこか寂しげだった。灯籠に自分を重ねているのかもしれない。
凌雪は思わず口にした。
「……わたくしが、新しい灯りをともします」
「お前が?」
「はい。灯籠は石ですが、火を守るのは人の心です。殿下の夜を照らす灯りが、また必要かと」
景耀は微笑み、冷えた空気の中でわずかに息を吐いた。
「ならば、お前の手で灯りを戻せ。あの夜、私はお前の光で生き延びた」
その言葉に凌雪は胸が熱くなった。青龍覚醒の夜のことを、景耀は忘れていないのだ。
「殿下……」
「私はもう、誰にも寄りかかれぬ。だが、凌雪、お前がいる」
景耀は少し目を細め、まっすぐに凌雪を見つめた。その瞳の奥に、深い信頼が宿っているのが見えた。
「お前の見るもの、触れるもの、感じるもの――そのすべてが、私を現実に繋ぎとめる」
凌雪は答えようとしたが、胸が詰まって言葉にならなかった。景耀がこれほどまでに自分を必要としてくれていることが、嬉しくて、同時に重い責任も感じた。
風が二人の間を抜け、積もった雪をさらっていく。雪の粒が陽光を受けて、きらきらと舞った。
太陽の光が強くなり、雪面がきらめいた。
「この国も、こうしてまた立ち上がるのだろうか」
景耀の言葉は小さく、遠い。未来への不安が、その声に滲んでいた。
「立ち上がりますとも。殿下がいる限り、この国は必ず……」
凌雪の声には確信があった。
「殿下が諦めぬ限り、人は殿下を見て歩き続けます」
その言葉を聞いた景耀は、しばらく沈黙したあと、ふと微笑んだ。
「お前の言葉は、雪の中でも不思議とあたたかいな」
凌雪は照れたように目を伏せる。
「殿下に仕えるようになってから、わたくしは多くを見ました。苦しみ、悲しみ、そして、誰よりも強いお姿を」
「強い……か」
景耀は小さく首を振る。
「強く見えるようにしているだけだ。でなければ、誰もついてはこぬ」
凌雪はその言葉に少しだけ悲しげな笑みを浮かべた。
「それでも、殿下は誰よりも前を歩いていらっしゃいます」
「……お前は、そうやって私を甘やかしてくれる」
「甘やかしているわけではありません。私は殿下を信じているのです」
その瞬間、静かに雪が舞った。木の枝から落ちた雪が、風に乗って二人のまわりを舞う。
光を受けて舞い落ちる雪が、二人の肩にひらひらと降り積もる。
景耀は手を伸ばし、凌雪の髪に落ちた雪を指先で払った。指先が頬をかすめ、そのぬくもりに凌雪は息をとめた。
「……冷たくはないか」
「いえ。殿下の手は、あたたかいです」
ほんの一瞬、二人の間に言葉がなくなる。空気がやわらかくほどけて、互いの呼吸の音だけが重なった。
景耀はふと視線を上げ、冬の青空を見上げた。雲一つない、澄み切った空だった。
「雪がやめば、春が来る。……だが、春の前に、まだ越えねばならぬ嵐がある」
「嵐が来ようと、わたくしは殿下のそばを離れません」
「なぜ、そこまで……」
「殿下が望む未来を、この目で見たいからです」
凌雪の声は震えていたが、その瞳はまっすぐだった。
景耀はしばらくその瞳を見つめ、そしてゆっくりと頷いた。
「共に歩もう。……この道が、どれほど険しくとも」
その言葉は、命令でも約束でもなく、一人の人としての願いだった。
凌雪は深く拱手し、静かに頭を垂れた。
「はい。殿下と共に」
そのとき、遠くで修復を知らせる太鼓の音が鳴った。規則正しく打たれる拍が、朝の空気を震わせる。
新たな鴟尾が屋根に並び、陽光を受けてまぶしくきらめいていた。それはまるで復興の象徴のようだった。
景耀はその光を見上げ、ゆっくりと目を細めた。
「……ようやく、夜が明けるのかもしれぬな」
「はい。でも、殿下の夜が終わるのは、まだもう少し先のことです」
凌雪の冗談めいた言葉に、景耀は思わず吹き出した。
雪解けのような笑いが、凍てついた空気をやわらかく溶かしていった。
椿の蕾が、ひとつ、音もなくほころんだ。その赤は、夜の残り火のように暖かく、二人の胸の奥に、確かな光を残していた。




