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禁断の忠誠  作者: 海野雫
第六章 夜に交わす誓い

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6-2

 冬の寒さが一層厳しくなり、深々と雪が降る。蒼穹宮そうきゅうぐうは雪化粧で真っ白に染まっていた。冷たい空気が肌を刺す。息をするだけで肺が凍りつきそうなほどだった。


 数日後の朝、景耀けいよう凌雪りょうせつは分厚い外套を羽織り、政務棟へと向かった。蒼嶺国そうれいこくは冬が厳しい。雪が深く積もるので、冬場の工事は雪が降ると休みになる。今日は久しぶりの晴れ間で、職人たちが精力的に作業を進めている。


 工部こうぶの職人たち総出で初期工事を行ったこともあり、外壁と屋根はほぼ出来上がっていた。黒い瓦が整然と並び、白壁も塗り直されている。


「やはり工部の仕事はすばらしいな」


 屋根を仰ぎながら景耀が息をついた。白い息が空に昇っていく。


「そうですね。雪深くなる前にここまで完成させるとは、さすがです」


 凌雪は袖口に手を入れて自分の手を擦り合わせた。指先の感覚がなくなるほどの寒さだった。


「寒いか?」


 景耀の声に振り向くと、心配そうな眼差しがそこにあった。


「いいえ、ご心配なさらないでください……」

「温めてやろうか?」


 その言葉に凌雪はギョッとする。景耀の瞳には悪戯な光が宿っていた。


「なりません! ここは外ですよ」


 慌てて周囲を見回す凌雪に、景耀は愉快そうに笑った。


「こんな寒い雪の中、歩き回っているのは、私たちだけのようだが?」


 確かに、職人たちは皆屋根の上か建物の中で作業をしている。雪の積もった中庭には、二人の足跡だけが残されていた。


「それでもなりません! どこで誰が見ているか……」


 そこまでいってから、凌雪は景耀の耳元にそっとささやいた。


「今宵は、寝所に参りますゆえ……」


 耳まで真っ赤にした凌雪を見た景耀は満足げに頷いた。


「ふむ。ならばそのときにしっかり温めてやる」


 青龍に覚醒した景耀は、毎日のように凌雪を求めた。それは、溢れすぎる力を抑えるために必要なことだった。青龍の血は強大な力を宿しているが、制御を誤れば危険な暴走を引き起こす可能性もあった。凌雪とのつながりこそが、その力を安定させているのだ。


 だから毎晩、景耀の寝所には通っているのだが、このように言葉にすれば景耀が喜ぶということも凌雪は知っていた。景耀の喜ぶ顔を見るのが、凌雪の密かな楽しみでもあった。


 半歩前を歩く主の後ろ姿を愛おしげに見つめながら東宮へと戻った。広い肩幅、まっすぐな背筋——その姿はまさに王の風格を備えている。


 東宮に戻る途中、中庭に差し掛かると景耀は足をとめた。真っ白い雪が深く積もっている庭に、赤くぽつぽつと椿の花が咲いている。雪の重みで枝がしなり、時折花びらが雪の上に落ちた。


「まるで血が散っているようだな」


 景耀のつぶやきを聞き、凌雪はそっとその隣に立った。


「ですが、冬に咲く花は強うございますよ。まるで殿下のようでございます」


 凌雪の言葉に、景耀はやわらかく微笑んだ。


「ならば私は、いつまでも冬の椿の花のように強くあろう」


 その横顔には、決意が滲んでいた。国王は病に伏していて、いつ崩御されてもおかしくない。それゆえに景耀は自分が次の国王としてこの国を導くという意思を強く示したのだろう。


「それでは私は、いつまでも殿下をお支え申し上げます」

「それは心強いな」


 景耀と凌雪は顔を見合わせて、そっと微笑み合った。冬の寒い中庭も、二人のまわりには春のようなぬくもりが満ちているようだった。


 そのとき、雪がさらに強く降り始めた。大粒の雪が音もなく舞い落ち、二人の外套を白く染めていく。


「書房に戻ろう」


 景耀がいい、凌雪は頷いた。



 夜の静けさが、書房の中に深く沈んでいた。


 外では雪が降り続き、格子窓の向こうで白い世界が淡く揺れている。風に吹かれて雪が渦を巻き、窓に当たっては消えていく。


 香炉の煙が細く立ちのぼり、火鉢の火のゆらめきが書簡の山を照らしていた。あたたかい空気と冷たい外気が混じり合い、窓際には薄く結露ができている。


 景耀は机に向かい、筆を持ったまましばらく動かなかった。


 書きかけの奏書の文字が少し滲んでいる。墨が乾く前に時間が過ぎてしまったのだ。凌雪は、景耀が何か思い悩んでいることに気づいていた。


 奏書の内容は民への減税について書かれていたが、その隣には貴族たちの反対意見書が広げられていた。


「……まだお休みになられていなかったのですね」と凌雪は声をかけた。


 景耀はゆっくりと顔を上げ、「見てみろ、凌雪。民のために減税をしようとすれば貴族は反対するし、貴族を抑えようとすれば今度は軍が不満を持つ。すべてを満足させることなどできないのだ」と語った。


 その声には苛立ちと迷いが混じっていた。


凌雪は静かに近づき、机の上の書簡を整えた。手際よく分類し、重要なものとそうでないものを分けていく。


「殿下は、この国のすべてを背負っていらっしゃいます。それは、どんな人でも迷うほどの重さです」


 景耀は苦笑した。その笑みには、自嘲が滲んでいた。


「父王は病に倒れる前、『王とは孤独なものだ』といわれた。だが私は思うのだ——父王のように、民に愛される王になれるのか、と」


 そういって、景耀は手元の書簡を見下ろした。


「父王は若い頃、民のために大胆な改革を行われた。貴族の反発も恐れなかった。だが私は……決断ひとつするのに、これほど迷っている」


 火の音がぱち、と小さく弾けた。静寂の中で、その音だけが妙に大きく響く。


 景耀は両手を組み、机に肘をつく。その姿は、重圧に押しつぶされそうになっているようだった。


「私に、父王のような決断力はあるのだろうか。民を導く器が備わっているのだろうか。たとえ青龍の血を受け継いでいたとしても、心が弱ければ何の意味もないのではないか」


 その声には、深い自己不信が滲んでいた。


 凌雪はそっと景耀の前に膝をついた。下から景耀の顔を見上げ、真っすぐな瞳で見つめる。


「殿下。決断に迷うのは、すべての選択の重みを理解していらっしゃるからです」


 景耀は小さく息を吸い、しばらく凌雪を見つめた。その瞳の奥で、何かが揺れているのが見えた。


「だが、迷っている間にもときは過ぎる。民は苦しんでいる」

「陛下も、若い頃は迷われたはずです。ただ、その迷いを見せなかっただけでは」


 凌雪の言葉に、景耀は目を見開いた。


「殿下は、陛下とは違う道を歩もうとしていらっしゃいます。陛下は力で突き進まれましたが、殿下は人々の声に耳を傾けていらっしゃいます。それは決して弱さではなく、新たな王のあり方なのではないでしょうか」


 火の光が二人の間をやわらかく照らした。


 凌雪は微笑んだ。心からの笑みだった。


「完璧な王などいません。でも、民のことを真に考え、苦悩される殿下だからこそ、わたくしは信じているのです」


 景耀はその言葉に、ほんの少し口元をほころばせた。


「……お前は、私を過大評価している」

「いいえ。殿下は李徳謙りとくけんを最後まで信じようとされた。魏嵐ぎらんでさえ、血を流さずに捕えられた。その慈悲深さこそ、真の強さです」


 二人の間に、静かな笑いがこぼれた。張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。


 景耀は深く息を吐いた。肩の力が少し抜けたように見えた。


「父王とは違う王になればいいのか……」

「殿下らしい王に。それが民の求める王かもしれません」


 凌雪はそっと立ち上がり、外套を取りに行く。


「少し外を歩かれますか? 雪の音を聞くと、心が静まります」

「そうだな。夜風も悪くない」


 景耀は立ち上がり、外套を羽織った。凌雪も自分の外套を手に取る。


 廊下に出ると、雪が音もなく降っていた。


 庭の灯籠がうっすらと白に埋もれ、椿の赤だけが夜に滲む。月明かりに照らされた雪が、青白く光っている。


 景耀は息を吐き、空を見上げた。白い息が夜空に消えていく。


「凌雪、私は父王のような王にはなれぬかもしれない」


 突然の告白に、凌雪は景耀を見つめた。


「ですが、殿下には殿下の王道があります。慈悲深く、民の声を聞く王。それもまた、偉大な王の姿です」


「……慈悲深さは、ときに弱さと取られる」


 景耀は胸元をギュッと掴んで、苦笑した。青龍の印が、衣の下でかすかに脈打っているのが、凌雪にも感じられた。


「いいえ。青龍の力は破壊のためのものではなく、本来は人々を守るためのものです。殿下は、そのことをよく理解していらっしゃいます」


 凌雪の言葉は、静かで、雪のようにやわらかかった。景耀の心に、そっと寄り添うように。


 景耀は少し肩を緩め、凌雪に向き直る。


「お前は、まるで雪だな」

「雪……でございますか?」

「冷たく見えて、触れるとあたたかい」


 その言葉に、凌雪は目を伏せ、頬を赤らめた。


「殿下……」


 その声は掠れ、雪に溶けるように小さかった。


 景耀はかすかに笑い、歩き出した。雪を踏む音が、静かに響く。


「今夜は、眠れる気がしない」

「ならば、いつものようにわたくしがおそばにおりますゆえ」

「そうだな。今宵は凌雪に抱きしめてもらおう」


 凌雪は思わず顔を上げる。


 景耀の瞳には、静かで優しい光が宿っていた。


 ――あの夜、龍が目覚めたのだった。


 あのときと同じ光が、再び胸の奥に灯る。しかし、それはもはや恐ろしさではなく、信頼という名のあたたかい炎に変わっていた。


 雪は絶え間なく降り続き、東宮の屋根の上で、静かに積もっていった。


 今宵もまた、夜は長く、けれどその奥には確かなぬくもりがあった。


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