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禁断の忠誠  作者: 海野雫
第五章 血戦の宮廷

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5-3

 血の匂いがまだ書房の空気に残っていた。李徳謙りとくけんの亡骸の傍らで、凌雪りょうせつは膝をついたまま動けずにいた。どれほどの時間が経っただろうか。


 扉の外から、急ぎ足の靴音が近づく。次の瞬間、勢いよく扉が開いた。


「凌雪!」


 景耀けいようの声だった。その顔を見た瞬間、今まで張り詰めていたものが切れる。


「……殿下……」


 言葉を発するより先に、景耀は駆け寄り、凌雪の肩を抱き寄せた。凌雪の袖が血に濡れているのを見て、景耀の眉が寄った。


「この血は……お前のか?」

「いいえ……李詹事の……」


 凌雪がかすかに首を振ると、景耀の腕の力がわずかに強まった。


 炎の明かりが揺れ、床に映る二人の影がひとつになる。


 外ではまだ遠くで戦の音が聞こえていた。だが、この部屋だけは沈黙している。ときが止まったような、不思議な静寂だった。


 景耀の手が凌雪の頬をそっと撫でた。指先に、涙の跡が触れるのを凌雪は感じた。


「また……お前が私を救ったのだな」

「殿下をお守りするのは、わたくしの務めです」


 景耀は小さく首を振った。


「務めなどではない。お前が傷つくたび、私は……息が止まりそうになる」


 凌雪の胸に熱が広がった。景耀の声がかすれて震えているのがわかった。こんな景耀を見るのは初めてだった。


 王太子という仮面の下に、一人の人間としての景耀がいる。その景耀が、今、自分のために震えているのだ。


「李徳謙が……お前に刃を向けたのか」

「はい。宰相の命によるものかと」

「……あの男!」


 景耀は目を閉じ、深く息を吐いた。その肩が震えているのを、凌雪は感じた。怒りではない――悲しみによる震えだった。凌雪はその肩にそっと手を添える。


「殿下……」

「私は……信じていた者に裏切られた。だが、お前だけは――」


 言葉が続かなかった。


 景耀は凌雪の頬を両手で包み、額を寄せた。その距離が近すぎて、互いの吐息が触れ合う。


「お前だけは、私を裏切らないのだな」

「命を賭しても、殿下をお守りします」

「……命など賭けるな」


 景耀の声はかすれ、震えていた。


「生きろ。生きて、私のそばにいろ」


 凌雪の目から、静かに涙が落ちた。その涙を、景耀の指がそっと拭う。


 戦火の外で、二人だけの時間が流れていく。


 景耀は凌雪の頬を拭い、そのまま唇を寄せた。


 最初は短く、触れるだけだった。


 だが、互いの震えを確かめるように唇が重なり、息が混ざり合う。どちらが先だったかわからぬまま、腕が絡み、背に指が走る。


 血と墨の匂いの中で、二人は生きている証を確かめ合った。


 外では兵の叫びがこだましていた。剣戟けんげきの音、怒号、悲鳴――戦場の音が渦巻いている。


 それでも二人は離れなかった。


 景耀は凌雪の手を引き、書房奥に設置されている仮寝所へと向かう。そこに足を踏み入れるとすぐに、景耀は凌雪を抱き寄せ、囁くようにいった。


「ここにいろ。外は危険だ。……私が守る」

「殿下……」


 凌雪の声はかすれ、目が潤む。


「殿下の御身こそ、守らねばならぬのは――」


 その言葉を遮るように、景耀は凌雪を抱きしめた。


 背後で火の音がぱちりと鳴る。灯籠の油がはぜ、新たな火花を散らす。


「……もう、戦の音を聞きたくない」


 景耀の声には、疲れが滲んでいるように聞こえた。


「……わたくしもです」

「ならば、せめてこの一瞬だけでも、すべてを忘れたい」


 凌雪の体が小さく震えると、その震えを景耀の手が包み込んだ。


 景耀の指が衣の上からなぞるように、傷の位置を確かめた。


「痛むか?」

「殿下が触れてくださると、不思議と……」


 凌雪の言葉が途切れた。景耀はそっとその唇を塞ぎ、静かに寝台へと導いた。


 死の気配に包まれた夜。


 それでも、二人の間には確かな生の鼓動があった。触れ合う肌の熱が、凍りついた心を溶かしていく。


 景耀の指が凌雪の頬から首筋へ、そして胸元へと流れていく。凌雪はその手を掴もうとしたが、もう抗う気力はなかった。


 代わりに、景耀の胸に頬を寄せ、囁く。


「殿下……外で兵が……」


「かまわぬ。今は――私が、お前を守る番だ」


 その言葉に、凌雪の瞳が揺れた。


 外の戦火が遠ざかるように、音が消えていく。


 聞こえるのは互いの呼吸だけ。景耀の手が衣の帯を解き、ゆっくりと滑り落とす。凌雪の白い肌が灯火に照らされ、薄く光っているのが見えた。


 外の世界が混沌としているほど、二人の間の世界は澄み、静まり返っていた。


 戦の夜に、二人は生きる証を刻むように抱き合った。


 その熱の奥で、やがて蒼い光が目覚めはじめていた。



 冬の夜は、風が身を切るように冷たい。


 外ではまだ遠く、戦の音がかすかに響いている。けれど、この部屋だけは静寂に包まれていた。


 仮寝所の灯火が小さく揺れ、淡い月光が窓越しに射し込む。雲の切れ間から覗く月は、青白く冷たい光を放っていた。


 凌雪は景耀の胸に身を寄せ、彼の心臓の鼓動を静かに感じていた。互いの呼吸が重なるたび、現実の音が遠ざかっていく。


 いくたびも夜を共にしてきた。そのたびに言葉は少なくなった。代わりにお互いの名前を呼び合う。


 官能の熱と、心をさらけ出す沈黙は、雄弁にすべてを語ってくれるのだ。


 景耀の指が凌雪の髪を梳き、指先が頬をなぞる。その優しい仕草に、凌雪の心が震える。


 凌雪は目を閉じ、そのぬくもりを逃すまいとするように、そっと唇を寄せた。


 外では風が吠え、瓦が鳴る。時折、遠くで爆発音が響き、格子窓がかすかに震えた。


 だが、この一室だけは、ときの流れを拒むように穏やかだった。


 ふと、凌雪の視線が景耀の腹部に落ちた。


 臍の下――淡く、蒼い光が揺れている。


 月光に照らされ、まるで眠る龍の鱗がうっすらと浮かび上がったようだった。


 ――……また光っている。


 初めて見たときは、これが翰林院かんりんいんで景耀が話してくれた痣だと思った。王家に伝わる青龍の印だという話は、当初は伝説に過ぎないと思っていた。


 だが今は、それがただの印ではないことを知っている。肌を合わせるたびにその印から青い光が放たれるようになってきたからだ。触れれば、何かが目を覚ます。そんな確信が、体の奥底に刻まれていた。


「……殿下」


 呼びかける声は、かすれて震えていた。


 凌雪は指先でそっと、その蒼い印をなぞる。景耀の体がわずかに跳ね、喉の奥から息が漏れる。


「凌雪……何を」


 その声に答えず、凌雪は臍の下の「印」にゆっくりと顔を寄せた。


 息が景耀の肌に触れ、唇がその印に届く。


 その瞬間――。


 世界が、音を失った。


 月光が一瞬にして白く弾け、蒼い光が景耀の体を包み込む。


 凌雪は目を見開いた。眩しさと同時に、熱が肌を貫いていく。まるで雷に打たれたような衝撃が、全身を駆け巡った。


 景耀の身体に、龍の鱗のような紋が広がっていった。臍の下から胸、腕、首筋へと放射状に、蒼い炎のように走る。


 それは美しく、同時に恐ろしい光景だった。


 まるで、長い眠りから龍が覚醒する瞬間だった。


「……殿下……」


 凌雪の声は震えていた。恐れではなく、畏敬に似た感情が胸に満ちていく。


 景耀の瞳がゆっくりと開かれた。その深い蒼は、獣のように鋭く、同時にどこまでも澄んでいた。人間の瞳ではない――龍の瞳だと、凌雪は直感した。


「……これが……青龍の血……」


 景耀の声が響いた。手を伸ばし、その掌が凌雪の頬を掴んだ。


 熱い。まるで炎を宿したような体温だった。


「お前が……呼び覚ましたのだな」


 その声は低く、甘く、どこか苦しげでもあった。


 凌雪は答えられなかった。ただその目を見つめ、唇を噛みしめる。


 次の瞬間、景耀の腕が凌雪を抱き寄せた。背中が床に押し倒される。


 衣がはだけ、冷たい空気が肌を撫でる。


「殿下……」

「かまわぬ。戦など、すぐに終わらせてみせる。だが今だけは……お前を離したくない」


 景耀の唇が凌雪の喉元をなぞる。その跡を追うように、蒼い光が流れていく。肌と肌が触れ合うたび、光が揺れ、まるで水面のように波打つのが見えた。


 愛と力、理性と本能が一つに溶け合い、二人の世界が蒼い炎に包まれていった。


 凌雪の指が、景耀の背に触れるとそこにもまた、龍の鱗が脈打っていた。


「……殿下、痛くは……」

「痛みなどない。むしろ――お前の声が、私を繋ぎ止めているようだな」 


 その言葉と同時に、蒼光がさらに強くなった。


 部屋全体が蒼い光に包まれ、まるで深海の底にいるようだった。


 凌雪は目を細め、ただその光に包まれる。天と地が逆さまになるような感覚。風も音も凍りつき、世界が一瞬、静止した。


 青龍が覚醒した――。


 蒼い光が天井を突き抜け、夜空を染めた。その輝きは戦火の煙を裂き、宮中全体を蒼く照らした。


 外で戦っていた兵たちの声が止まった。皆が空を見上げ、その神秘的な光に息を呑んでいるのが、凌雪にも感じられた。


 そして、嵐のような冬風が吹き抜けた。


 凌雪は景耀の胸に頬を寄せた。荒い呼吸の中で、互いの鼓動が重なっている。


 景耀の瞳は静かに閉じ、穏やかな光を宿していた。龍の鱗は徐々に薄れ、肌の下へと沈んでいく。


「……凌雪」

「はい」

「お前がいなければ、私はこの力に呑まれていた」

「わたくしは、殿下のおそばにおります。どんな姿でも」


 外では、夜明け前の風が雪を運んできた。白い雪片が窓をかすめ、蒼い光の残滓の上に舞い落ちる。


 二人の身体の間に残るぬくもりが、寒夜の中で、確かに生きていた。


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