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禁断の忠誠  作者: 海野雫
第五章 血戦の宮廷

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5-2

 東宮正殿・蒼華殿そうかでんは騒然としていた。行き交う武官や文官が、あちこちで声を上げている。地図を運ぶ者、伝令を受ける者、負傷者の報告をする者――皆が必死の形相で動き回っていた。

 凌雪りょうせつが蒼華殿に戻ると、景耀けいようが御座の前で地図を広げていた。背後には炎の赤が映り、前方には兵の列。その横顔は、まるで修羅場に立つ将軍のようだった。


 景耀の横に控えていた将軍・蘇鳴そめいが腕組みをしながら進言している。


「殿下。この地図では抜け道が記されていませんゆえ、民を逃す方法が……」


 組んだ腕の上腕は筋肉が盛り上がり、鍛え上げられていることが伺える。外での演習が多いのか、肌は浅黒く、傷跡がいくつも刻まれていた。


「この地図は新しいゆえ、抜け道が書いておらぬのか」


 景耀が顎に手をやり唸る姿を、凌雪は見守っていた。民の安全を第一に考える姿――それこそが仁君の証だと思った。


「殿下!」


 凌雪が息を切らして前へ出た。衣の裾が乱れ、額に汗が光っている。


「どうした?」

「宰相軍が東宮へ迫りつつあります!」

「……っ!」


 景耀は息を呑んだ。顔が一瞬青ざめたように見えた。しかしすぐに凌雪に向けて手を挙げる。


「凌雪、書房に向かい、古い地図を持ってまいれ。そこに避難経路の記録があるはずだ。なんとしてでも民に被害を出さぬようにせねばならぬ!」


 凌雪は「はっ!」と答え、蒼華殿を飛び出して書房へ向かった。


 書房へ向かう途中、凌雪は李徳謙りとくけんの姿が見当たらないように思った。こんな非常時に、詹事せんじが殿下の側にいないことなどないはずなのに。


 書房に入ると凌雪は急いで古い地図を探した。書棚がきちんと整理されているのが功を奏し、すぐに見つけ出すことができた。


 ゆっくりとその地図を開く。古い墨の香りが鼻をついた。紙に描かれた地図は、百年前のものらしく、現在とは異なる通路がいくつも記されていた。


「よし。これで間違いないようだ」


 丁寧に地図を巻いていく。再び書棚に目をやり、今回役に立ちそうな書簡をいくつか手に取って書房を後にしようとした。


 すると、控えの間の入り口に李徳謙の姿があった。


 彼の表情はいつもと違っていた。普段の温和な笑みは消え、眼光が鋭く光っている。衣の裾には、煤と血の跡が付いていた。


「李詹事」


 凌雪は形ばかりの拱手をして書房を閉鎖しようとした。だが、李徳謙は動かない。


「殿下の名を受けて印璽いんじを取りに参った」

「殿下からの命?」


 凌雪は不審を募らせた。印璽など、今は必要とするはずなどない。それに、李徳謙の様子が明らかにおかしかった。


「それはいつ、殿下が命ぜられたのですか?」


 凌雪は目を細め李徳謙をじっと見つめた。相手の呼吸、視線の動き、手の位置――すべてを観察する。


「つい先ほどだよ」


 李徳謙の声は平静を装っていたが、わずかに震えていた。


「先ほど……」


 凌雪が景耀から地図を持ってくるように命ぜられたのも「つい先ほど」といってもいい。凌雪はゆっくりと目を閉じた。蒼華殿にいた面々を思い浮かべる。そしておもむろに瞼を上げた。


「李詹事、あなたは蒼華殿にいらっしゃらなかったのでは? この一大事に、どちらにおられたのですか?」

「さすが聡い男よ。殿下がお側に置くのも頷けるわ」


 李徳謙の口調が変わった。慇懃いんぎんな態度は消え、冷たい敵意が露わになる。


 書房の灯りが一瞬大きく揺れた。そのとき、李徳謙の袖口から金属の鈍い音がした。


「李詹事、それは……」

「殿下のためだ。お前さえいなければ――」


 袖の中から細い刃が閃く。それは宦官が隠し持つ暗器に似た、細身の懐剣だった。


 凌雪は咄嗟に左袖を翻し、隠し持っていた短剣を抜いた。


「『殿下のため』……ではないでしょう?」


 凌雪は鋭い視線を李徳謙へ向けた。


「いいや、殿下のためだ。玉座を導くのは宰相閣下だ!」


 李徳謙は目を血走らせたままいい放つ。その目には狂気が宿っていた。


「お前が殿下を惑わせた! お前さえいなければ!」


 李徳謙の目は焦点を失い、まるで自分にいい聞かせるように叫んでいた。


「殿下はまだ若い。今のままでは、この国は滅びる! 宰相閣下こそ、王にふさわしいお方だ!」


「……違う。殿下は誰よりも国と民を思っていらっしゃる」


 凌雪の声は静かだが、確信に満ちていた。


「民? そんなもの、愚か者どもだ!」


 李徳謙は狂ったように笑った。その笑い声が、書房中に不気味に響いた。


「王太子は理想ばかりを語る。だが、理想では国は動かぬ。力だ、権だ、血だ! それを知らぬ者が王でいられるか!」


 次の瞬間、李徳謙の懐剣が閃いた。


 凌雪はそれを紙一重で避け、机の上の巻物が切り裂かれて舞い上がる。


 火の粉が散るように、墨の粒が宙に浮かんだ。切り裂かれた紙片が、雪のように舞い落ちる。


 李徳謙は間髪入れずに二撃目を放つ。その動きは素早く、明らかに剣術の心得があった。


 凌雪はその手首を払い、逆の袖で短剣を返す。


 刃と刃がぶつかり合い、金属音が響いた。火花が散り、その閃光が互いの顔をわずかに照らした。


「……文官同士が、刃を交えるとは」


凌雪の声は低かった。


「私も望んでなどいない。だが――殿下をお守りするためなら」


 李徳謙の声には、悲痛な響きがあった。


「守る? お前が守るだと? 宦官風情が!」


 李徳謙の顔が醜く歪む。恨みと嫉妬が、一気に噴き出したかのようだった。


「お前が側にいるせいで、殿下は孤立した! 誰も近づけぬ。誰も諫められぬ!」

「それでも、私は殿下のおそばに立つ」


 凌雪の決意は揺るがなかった。


「裏切り者め!」


 李徳謙が一気に踏み込み、懐剣が凌雪の頬をかすめた。


 熱い血が一筋、頬を伝う。痛みが走ったが、凌雪は表情を変えなかった。


 凌雪は後退しながらも机の角を蹴り、李徳謙の腕を弾く。


「ぐっ……!」


 懐剣が床に落ち、金属音を立てた。


 その一瞬、凌雪の短剣が李徳謙の喉元に届く――。が、凌雪は止めた。


「まだ間に合う。……李詹事、剣を捨ててください。今なら殿下は――」

「うるさいっ!」


 李徳謙は叫び、袖の内からもう一本の細刃を抜いた。予備の武器を隠し持っていたのだ。


 刃先が月光を受けて青白く光る。


「もう後には引けぬ! 殿下を宰相の手で守るしかないのだ!」


 その声は悲鳴にも似ていた。


 凌雪は一瞬だけその目に、かつて誠実だった頃の李徳謙を見た。真面目で、忠実で、殿下を心から慕っていた男の面影を。


「……あなたも、殿下を大切に思われていたのですね」


 その一言に、李徳謙の動きが止まる。


「な……何を……」


 顔が蒼白になり、唇が震えた。


「だからこそ、魏嵐ぎらんに取り込まれた。殿下を守るためだと、自分にいい聞かせて……」

「黙れぇ!」


 李徳謙は再び襲いかかった。その動きは先ほどよりも荒く、感情的だった。


 凌雪は身を翻し、背後の柱に飛び退く。


 刃が袖を裂き、血が滲む。


 袖剣を握る手が、じわりと赤く染まった。温かい血が指を伝い、床に落ちる。


「……私は、殿下の『理想』に賭ける」


 凌雪の声が静かに響く。


「理想なくして、誰がこの国を導ける。力だけでは、人の心はついてこない」


 李徳謙は荒く息を吐き、笑った。その笑みは自嘲的で、悲しげだった。


「理想か。ならば見せてみろ、その理想の刃とやらを!」


 二人は再び刃を交えた。


 机が倒れ、紙束が宙を舞う。筆立てが転がり、墨が床を染めた。墨と血とが混ざり、黒紅の線が石畳を走る。


 書架が倒れ、貴重な書物が散乱する。数百年の知恵が、一瞬で戦場の塵となった。


 凌雪の呼吸が乱れはじめた。肩の傷が開き、痛みが全身に広がる。だが、目は揺るがない。相手の重心を読み、刃の角度を逸らした。


 李徳謙の動きは速いが、焦りがあった。その隙を見て、凌雪は低く構え直した。


「李詹事、もうやめましょう」

「黙れぇ!」


 李徳謙の懐剣が、まっすぐに突き出された。凌雪は身を沈め、袖剣で受け流す。金属が擦れ、火花が散った。


 そのまま相手の腕を掴み、反動で自分の体を回転させた。


 刃が閃く。


 次の瞬間、李徳謙の懐剣が宙を舞った。胸元に凌雪の袖剣が触れる。


「……李詹事」


 息が白く揺れた。李徳謙の目が虚空を見つめている。


 その唇がかすかに動いた。


「……殿下……どうか……お救いを……」


 血が、音もなく滴り落ちた。李徳謙の胸から流れる血が、床に広がっていく。


 凌雪は剣を離し、膝をついた。李徳謙の体が崩れ落ち、倒れた拍子に机の脚が折れる。巻物が転がり、床一面に地図が広がった。


 その中央に、李徳謙の血が滲んでいく。まるで紅い川が、地図の上を流れるようだった。


「……殿下……」


 凌雪の唇が震えた。勝ったわけではない。ただ、守り抜いたのだ。だが、その代償はあまりにも重かった。


 窓の外で風が唸り声を上げていた。


 遠くで角笛が鳴り、宮廷全体が戦火に包まれていることを告げていた。


 凌雪は震える手で、袖剣を拭った。刃に映る己の顔は、涙で濡れていた。自分でも気づかぬうちに、涙が流れていたのだ。


 そのとき、李徳謙の手がわずかに動いた。凌雪は息を呑んだ。彼の指が、血の中で何かを描いている。


 それは、龍のような曲線――。

「……青龍……」


 凌雪が呟いたとき、李徳謙の瞳から光が消えた。


 書房の灯りがふっと揺らぎ、炎のような影が壁を走る。


 凌雪は立ち上がり、扉の方へ向かいかけ足を止めた。


 外の空気は冷たく、夜が深く沈んでいた。戦火の音が、遠雷のように響いている。

 凌雪は振り返り、李徳謙の亡骸を見つめる。


「あなたも……殿下を想っていたのですね」


 その声は、誰にも届かぬほど小さかった。


 凌雪は李徳謙の瞼を閉じさせ、その手を胸の上で組ませた。せめて最期は、安らかにという願いを込めて。


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