5-1
冬の気配が空気の隅に混じりはじめた頃、東宮の書房には、やわらかな陽ざしが差していた。
凌雪は机に向かい、筆を動かしていた。民への減税に関する奏書の草案である。窓の外は薄曇り。池の水面には氷の膜がうっすらと張り、木々は葉を落として裸の枝を晒している。時折吹く風が、軒下の風鈴をかすかに鳴らした。
書房の中は炉の火がやわらかく燃え、穏やかなぬくもりに満ちていた。沈香の香りが淡く漂い、墨の匂いと混じり合う。この静けさが好きだった。殿下と二人きりで過ごす、誰にも邪魔されない時間。
背後から足音が近づいてくる。凌雪は振り返らなくても、それが誰かわかっていた。絹の衣が擦れる音、静かだが確かな歩調――すべてが景耀のものだ。
「筆の運びが美しいな」
景耀の低い声に、凌雪は肩を揺らした。
「殿下……お戯れを」
「戯れではない。本当にそう思っただけだ」
そういいながら景耀は、凌雪の背に片腕を回した。温かい体温が背中から伝わってくる。筆を持つ手が止まり、墨の雫が紙の上に小さな染みを作った。
「……仕事中です、殿下」
「かまわぬ。お前といるときだけは、政も静まる」
凌雪は頬に熱を覚えた。耳まで赤く染まっていくのを自覚し、俯く。景耀の吐息が首筋にかかり、全身が熱くなる。
景耀の指が首筋に触れる。淡い香の香りが、息づかいとともに肌を撫でる。指先が髪を梳くように動き、凌雪の呼吸が乱れた。
冬の朝だというのに、空気が妙に熱い。
庭の方から小鳥の声がした。枝から枝へと飛び移る影が、凌雪の視界の端を横切る。
「……寒くはないですか」
凌雪の声は震えていた。
「お前のそばにいるのに、寒いはずがない」
景耀の笑い声が耳元で響く。吐息が肌に触れ、全身に痺れが走る。
「そんなことをいわれたら……」
凌雪は俯き、筆を置いた。指先が震えている。墨がまだ乾いていない紙を、そっと脇に寄せる。
景耀の手が凌雪の手を包み込んだ。温かい掌が、冷たい指先を優しく撫でる。
「手が冷たいな」
「殿下のせいです」
「なら、温めてやらねばな」
冗談のような言葉に、凌雪は思わず笑みを漏らした。この穏やかな時間が、いつまでも続いてほしい――そんなはかない願いが胸をよぎる。
「凌雪、私の名前を呼んでくれぬか?」
景耀の声が耳元で囁く。
「で、殿下っ!」
「いいではないか。誰も聞いておらぬゆえ。ほら、耳元で小さく呼んでくれ」
「なりませんっ!」
拒絶は形ばかりのものだった。実際のところ、景耀の名を呼びたくて仕方がない。だが、それを許せば、最後の一線を越えてしまう気がした。
「では今宵、寝所に来てくれるか?」
その言葉に凌雪は耳まで真っ赤になった。心を通わせてからというもの、寝所に呼ばれることが増えたが、景耀は毎回必ず、行くかどうかの決断を凌雪に委ねていた。それが、景耀なりの優しさなのだと、凌雪にはわかっていた。
――本当に殿下は私を愛してくださっているのだな……。
肌を合わせるたびに、景耀は王太子という仮面を脱ぎ、ただの景耀として凌雪を求めてくる。その必死さ、切なさ、愛おしさ――すべてが凌雪の心を震わせる。
――この幸せが、永遠に続いてほしい。
外で風が鳴る。枯れ枝が軋む音が、不吉な予兆のように響いた。
次の瞬間、遠くから鐘の音が鳴り響いた。低く、重く、まるで地を震わせるような音。凌雪は即座に理解した――緊急事態を知らせる報せの鐘だ
「……殿下、これは――」
「報せの鐘だ」
景耀の声が変わった。先ほどまでの優しい響きは消え、冷たい刃のような鋭さを帯びる。凌雪の背から腕が離れ、外套を掴み取る音がした。
「凌雪、東門とこの書房を閉鎖せよ。控えの間の宦官を避難させ、近衛を呼べ!」
「承知いたしました!」
凌雪はすぐさま走り出した。平穏な朝は、一瞬で戦場に姿を変えた。
外に出ると、空気が異様に張り詰めている。焦げ臭い匂いが風に乗り、遠くから怒号と剣戟の音が聞こえてきた。凌雪は胸が締めつけられるようだった。
廊下を行き交う書吏や官吏たちが騒ぎ、兵が駆け抜けていく。その顔には恐怖と困惑が浮かんでいた。
「宰相の兵が宮に侵入したぞ!」
「王命を騙っている! 蒼穹宮が封鎖された!」
「逃げろ! 東門へ向かえ!」
その声を聞いて、凌雪の背筋が冷たくなった。
魏嵐が、ついに動いた。長い間準備してきた反乱が、今まさに始まったのだ。
凌雪は控えの間へ急ぎ、震えている宦官たちに避難を命じた。彼らは凌雪の指示に従い、東門へと向かっていく。その後、近衛たちを集め、東宮へと戻った。
景耀はすでに兵たちの前に立っていた。近衛たちの顔には緊張が走っていたが、誰も逃げ出そうとはしない。
一人の近衛が息を切らしながら報告する。
「殿下、宰相府の兵が南門から侵入を――」
「民家のある方角には近づかせるな。民の犠牲は許さぬ」
景耀の声は静かだったが、その響きには鋼のような強さがあった。凌雪は、近衛たちの背筋が伸びるのを見た。
「東門を封鎖し、書房に火の手が回らぬように。凌雪、お前は伝令を担え。各持ち場の報告をここへ」
「はっ!」
凌雪は再び走り出した。
風が頬を刺す。氷のように冷たい空気の中、心臓の鼓動だけが熱い。足音が石畳に響き、息が白く凍る。
回廊の角を曲がるたびに、兵たちが交錯し、剣の音が鳴り響いた。
「政務棟が炎上中!」
「医官を呼べ! 負傷者が出たぞ!」
「殿下のもとを守れ!」
怒号が飛び交い、宮廷全体が混乱の渦に呑まれていた。
凌雪は息を荒げながら叫ぶ。
「太子殿下の御命令! 民家には近づくな、東門を固めよ!」
その声に、近衛たちが頷き、槍を構えた。凌雪には、彼らの目にわずかな希望の光が宿るのが見えた。
宮廷が、戦場に変わった。
やがて、東宮の正門前に一通の怪文書が貼られているのを凌雪は見つけた。宰相・魏嵐の名で書かれた檄文だった。
『王太子、宦官に惑わされ、青龍の印を私す』
『国の秩序を取り戻すため、宰相・魏嵐が臨時に政を執る』
反乱の檄だった。
その文を見た瞬間、凌雪の喉が締めつけられるようだった。
宦官に惑わされ――。
――自分の存在が、殿下を罪人にする。
歯を食いしばり、拳をにぎりしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。だが、その痛みすら感じなかった。




