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金木犀の香りが風にのって東宮書房まで届く。格子窓から外に目を向ければ中庭には菊と芙蓉の花が朝露をまとい煌めいていた。
凌雪が書房の窓を開け放つと爽やかな風が吹き込んできた。見上げると、空高くに綿のような雲が優雅に漂っていた。季節は確実に秋へと移り変わっている。
「殿下、寒くはありませんか?」
「大丈夫だ。爽やかで気が引き締まる」
景耀は顔を上げることなく、筆を走らせながらいった。その横顔は真剣そのもので、書簡に全神経を集中させているのがわかる。
「肌寒く感じましたら、おっしゃってください」
「うん」
凌雪は景耀に目を向ける。王太子は背筋をピンと伸ばし迷いのない瞳で書簡と向き合っている。その表情には、どんな困難にも立ち向かおうとする強い意志が感じられた。その横顔は美しく、思わず見とれてしまいそうになる。
凌雪も机に座り山のように積み上げられた書類の分類を始める。相変わらず文書との格闘は続けているが、乾いた風が頬を撫でるたび、気持ちも晴れやかになる。
湿気の多かった夏が去り、空気が乾いてくると仕事もはかどる。筆を走らせる音だけが書房内に響く。
しばらくすると、景耀が「うーむ」と唸り声をあげた。その声音には明らかな怒りが含まれている。
「殿下、どうされました?」
凌雪は筆を置き、景耀の机の前に行くと、景耀は奏書を指でとんとんと叩いて眉間に皺を寄せた。その目には、恐ろしいほどの怒りが宿っていた。
「……疫病が蔓延していたようだ」
「ではすぐに……」
「いや……。疫病はすでに鎮圧されたとのことだ」
「……っ!」
凌雪は思わず息を呑んだ。ここのようなことが王太子の耳に届く前に終息するのは、おかしい。疫病は人の命にかかわる重大事だ。それを景耀に報告せずに処理したというのは、通常では考えられないことだ。
「ま、まさか……」
「……っ、魏嵐!」
景耀は怒りのあまり、口を歪めた。そして机を力一杯叩いて立ち上がり、書房を出て行こうとする。その動きは荒々しく、普段の冷静な景耀からは想像できないほどだ。
「殿下! どちらに?」
「宰相のもとに決まっているだろう!」
「お待ちくださいっ!」
凌雪は思わず景耀の腕をつかんだ。その腕は筋肉が緊張し、怒りで震えているのがわかる。
「わたくしが行ってまいりますので、殿下はこちらでお待ちください」
「いや、私が直接行く!」
「なりませんっ!」
凌雪は景耀の腕をつかむ手に、ぐっと力を込めた。景耀の体温が手のひらを通して伝わってくる。
「これは、殿下を誘い出す手口かもしれません。殿下の御身に何かあったら、わたくしは――」
凌雪はすがるようにつぶやいた。声が震えている。
「わたくしには、耐えられません……」
「……凌雪」
景耀は怒りがおさまったのか、凌雪がつかんでいる手をそっと撫でた。その手は温かい。怒りに震えていたはずの手が、今は優しく凌雪の手を包んでいる。
「ならば、お前に任せてもよいか? ただし、無茶はせぬように。私も、お前に何かあっては困るからな」
それまで怒りで目を釣り上げていたのが嘘のように、景耀は目尻を下げ優しく微笑んだ。景耀の指先が、凌雪の頬をそっと撫でる。景耀が触れた部分が熱くなるのを感じた。
「……殿下……」
心臓が跳ね上がる。こんな風に優しく触れられると、胸の奥が、じんわりと痺れる。
「一筆したためるゆえ、ちょっと待て」
景耀は机に戻り、素早く筆を走らせた。その筆さばきは見事で、迷いがない。
凌雪は書簡を受け取ると拱手をして、書房を後にした。向かう先は宰相の執務室だった。
*
政務棟に向かう間、凌雪は考えを巡らしていた。
疫病は夏場に流行りやすい。洪水などによって井戸水が汚染されると、それが原因となって熱病が急速に広がることがある。
――それほど多くの国民が感染したわけではないのだろうか?
大掛かりな疫病の鎮圧なら、国の主導で薬師や医官の派遣が必要となる。そのような処置を許可するのは国王の代理である景耀の務めである。もしその決裁が不要だったのだとすれば、「蔓延」とまでは呼べない程度の感染者数だった可能性も考えられる。
先ほど景耀が凌雪に見せた奏書には、「疫病を鎮圧した」という結果だけが記されており、具体的にどの地方でどれだけの人数が感染したかは書かれていなかった。
――もしかしたら、宰相派が何か仕掛けてくるのかもしれんな。
凌雪は顎に手をやりながら考えた。魏嵐が何かを企んでいるのは、ほぼ確実だと凌雪は感じた。
宰相の執務室に向かう途中、通り過ぎようとした部屋の中から官吏たちの話し声が聞こえてきた。
「国王の容態がさらに悪化したそうだ」
「だとしたら、いよいよ……」
「そうだな。次の国王は王太子ではなく、魏嵐様で決まりだな」
「今回の疫病の鎮圧も見事でしたしな」
「魏嵐様こそこの国を導くのにふさわしい」
「王太子には力が足りない。真にこの国を担うべきは魏嵐様だ」
凌雪はその声を聞き、息を呑んだ。足が思わず止まる。
――いつの間に! 宰相が国王になるなど、到底考えられない。
蒼嶺国は血統主義が貫かれており、王族以外の人間が国王になるなど前代未聞だ。それでも、この会話は冗談ではなく、本気なのだと凌雪は悟った。
そのとき、政務に力を尽くす景耀の顔が思い浮かぶ。国民のことを常に考えている景耀が、力不足であるはずがない。彼こそが本来、国王にふさわしい――その思いと怒りが、凌雪の胸の奥で激しく燃え上がった。
――殿下の邪魔は、絶対にさせない。
凌雪は急ぎ足で宰相の執務室へと向かった。




