3-2
翌日の昼過ぎ。
夏の日差しは、白大理石の回廊を容赦なく照りつけていた。朝の政務を終えた凌雪は、両腕に文書筒を抱え、汗ばむ掌をそっと拭う。
今日は王太子の命で、治水事業に関する歳出案を宰相府へ届ける伝令役を仰せつかっていた。熱気で空気が揺らぐ中、政務棟へと続く長い石畳を一歩ずつ進んでいく。
回廊の両脇には柱が立ち並び、その影が涼しげに見える。だが実際は蒸し暑く、一歩歩くごとに汗が噴き出す。
途中、何人かの官吏とすれ違う。彼らは凌雪を一瞥すると、顔を背けるか、あからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
――宰相派の者たちか……。
凌雪は表情を変えず、まっすぐに前を見て歩き続けた。
宰相の控えの間は、いつもながら張り詰めた空気に満ちている。外よりは幾分涼しいが、迎える者たちの視線は、真夏の陽射しより刺さるように痛い。
中にいた数名の書記官が一斉に顔を上げた。その視線には明らかな敵意が含まれている。
凌雪は一歩進み出て、拱手して告げる。
「太子殿下よりの報告書を、宰相閣下へ。治水事業の新案および歳出案、正副二通にございます」
最年長の書記官が受け取りに来た。眉を寄せながら封印を見て、口の端を歪める。その表情には明らかな不快感が浮かんでいる。
「……太子殿下は、ずいぶんとご熱心なことだ。治水など、本来は我らが詮議すべきことであろうに」
周囲から、くぐもった笑い声が漏れた。他の書記官たちも口々にいい始める。
「最近は『太子府』の書類がやけに増えた。まるで自分が国王にでもなったつもりか」
「いや……宰相閣下に楯突く口実をお作りになっているのだろう。誰が入れ知恵をしているのやら」
視線が一瞬、凌雪をかすめた。その目には、明らかな侮蔑の色が宿っていた。
「ああ、なるほど。宦官風情が殿下に取り入って、偉そうに政務に口を出しているのか」
「おぞましいことだ。卑しい身分の者が政にかかわるなど」
凌雪は微動だにせず、両手を差し出したまま立ち尽くす。冷や汗が背をつたうのを感じたが、表情は崩さなかった。拳を握りしめ、怒りを抑える。
――耐えろ。ここで反論しても何も変わらない……。
「お取り次ぎ、お願い申し上げます」
凌雪の声は平静そのものだった。しかし、その目には静かな怒りの炎が灯っていた。
書記官はわざとゆっくりと文書を受け取ると、小声で吐き捨てるようにいった。
「……太子の犬め」
その言葉は周囲に聞こえるように放たれ、控えの間に薄い笑いが広がった。嘲笑の声が凌雪の耳に突き刺さる。
凌雪は何も返さず、深く拱手をして一礼し、回廊へと出た。背中に突き刺さるような視線と嘲りの余韻が、夏の空気にじっとりとまとわりついてくる。
扉を閉めた瞬間、凌雪の拳が強く握りしめられた。爪が掌に食い込み、痛みが走る。
――……かまうな。務めを果たすだけだ。
だが、心の中では怒りと屈辱が渦巻いていた。どれほど努力しても、宦官という身分は変わらない。どれほど有能でも、彼らにとって自分は「卑しい者」でしかなかった。
青空が眩しく、石畳の上には陽炎が揺れている。東宮への道を急ぐうちに、額の汗がこめかみをつたい落ちた。暑さのせいだけではない。胸の奥に重い鉛が沈んでいた。
*
書房に戻ると、室内にはまだ朝の涼しさが残っていた。景耀は机に向かい、筆を走らせている。朱の印が並ぶ奏状の山があり、その横顔には一点の曇りもなかった。
「戻りました」
凌雪が拱手して報告すると、景耀は顔を上げずにいった。
「……思ったより遅かったな」
「取り次ぎに時間を要しました」
その答えに、景耀は筆を止め、静かに顔を上げた。その蒼い瞳が凌雪をとらえる。
「取り次ぎ『だけ』にしては、ずいぶんと時間がかかったな」
視線が射抜くように凌雪をとらえる。まるで、すべてを見通しているかのような目だ。
凌雪は一拍遅れて深く拱手した。
「殿下……些末にございます」
しばしの沈黙。蝉の声が遠くで鳴いている。窓から差し込む光が、二人の間に落ちている。
景耀は立ち上がると、小宦官に扉を閉めるよう命じた。室内に二人だけの空気が満ちる。
扉が閉まる音が響き、静寂が訪れた。
「……宰相の控えで、何をいわれた」
景耀の声は低く、静かだった。だがその奥には、抑えた怒りがにじんでいる。
凌雪は目を閉じた。――ごまかすこともできる。だが、嘘はこの人の前では通じない。
「……『太子の犬め』と」
その言葉を口にした瞬間、凌雪は自分の声が震えているのに気づいた。悔しさと屈辱が込み上げてくる。
景耀の表情がわずかに強張った。その蒼い瞳に、一瞬鋭い光が走る。
次の瞬間、外の小宦官を呼び寄せ、よく通る声で指示を下す。
「宰相府への奏報は、今後すべて書房経由とする。中庶子が持参した文書を足止めすることは許さぬ。違反あらば名を上げさせよ」
「はっ!」と宦官が応え、走り去る。その足音が遠ざかっていく。
凌雪は思わず顔を上げた。景耀は机の端に手を置き、真っすぐにこちらを見ている。その蒼い瞳には、怒りよりも、冷たい決意が宿っていた。
「中庶子」
「はい」
「お前は、私の舌であり、手だ。誰にも傷つけさせない」
短い言葉だった。だが、凌雪の胸の奥に、強く、熱いものが打ち込まれた。
その言葉の重さが、じわりと心に染み込んでくる。景耀は、自分を守るといっているのだ。
じっとしていると、顔が火照ってしまいそうだったので、拱手を深めて隠した。
「……恐懼に堪えません」
景耀はふっと小さく笑みを浮かべた。それは冷たい政務の顔とは違う、どこか柔らかい表情だった。
「お前が黙って耐えるのはわかっていた。だが、黙っていれば良いというものでもない」
その言葉に、凌雪は胸が詰まった。景耀は、すべてをわかっていたのだ。自分が宰相府でどんな扱いを受けているか。どんな言葉を投げかけられているか。
それでも、凌雪が何もいわないことも知っていた。
「お前は私のものだ。誰にも侮辱させぬ」
その言葉は、まるで宣言のようだった。凌雪は言葉を失った。
胸の内に、夏の陽よりも眩しいものが静かに灯る。この人は、自分をただの宦官とは見ていない――その事実が、熱を帯びて心に染み込んでいった。




