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禁断の忠誠  作者: 海野雫
第三章 秘めた炎

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3-1

 日に日に空気が湿り気を帯びてきた。庭園には梔子くちなしの花が咲き誇り、甘い香りが漂っている。池でははすが淡い桃色の花を咲かせ、庭に彩りを添えていた。


 凌雪りょうせつは政務棟から帰る途中で庭園へ足を運んだ。このところ、景耀けいようの補佐で忙しく、息もつく暇がない。監視されているのは承知の上だが、少し目の保養がしたかった。


「あぁ、蓮の花はもう、閉じてしまったか……」


 蓮の花は早朝に咲き始め、昼には閉じてしまう。その日、政務棟を訪れたのは昼を過ぎてからだったので、すっかり花は閉じてしまい、緑の大きな丸い葉の中に淡い桃色の蕾がぽつぽつと点在しているだけだった。


 池の縁に腰を下ろし、水面を眺める。鯉がゆらゆらと泳ぎ、水草が揺れている。ほんの少しの時間だが、こうして自然を眺めていると心が落ち着く。


 しかし、ここでのんびりしている余裕はない。書房には山のような書類が待っている。凌雪はがっくりと肩を落とし、ため息をついてから東宮へ向かった。


 回廊に乾いた靴音が響き渡る。明るい日差しが白い大理石に反射して眩しかった。汗が額ににじみ、首筋をつたう。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。


 東宮の控えの間を通り過ぎるとき、小宦官たちが忙しそうに動き回っていた。


中庶子ちゅうじょし様、おかえりなさいませ」


 若い宦官が拱手をして挨拶をしてくる。凌雪は微笑んで頷いた。


「ああ。皆も暑い中、大変だな」

「いえ。中庶子様ほどではございません」


 以前とは打って変わって、控えの間の宦官たちは凌雪に好意的になっていた。地道に声をかけ続け、困っている者がいれば手を差し伸べてきた成果だろう。


 韓文かんぶんも以前ほど刺々しくはなくなった。まだ完全に心を開いているわけではないが、少なくとも敵意は感じられなくなった。



 東宮書房に戻ると、机の上には書簡が高く積み上げられていた。どれだけ片付けても、次から次へと文書が増えるので、凌雪はうんざりした。


 景耀の執務机を見ると、そこにも同じように書類が山積みになっている。国王の代理として執務を行う景耀の負担は想像以上だ。


 凌雪は自分の机に向かい、書類の仕分けを始めた。内容を確認し、緊急性の高いものから順に並べていく。治水や税制、国境警備、貿易など、扱う内容は多岐にわたっていた。


 一つひとつの文書に目を通しながら、凌雪は景耀がどれほどの重責を担っているかを改めて実感する。二十二歳という若さで、これほどの政務をこなしているのだ。


 ――殿下は本当に、強い方だ……。


 陽が落ちるより少し前に、灯籠に火を入れた。湿気を帯びた風が灯火をゆらゆらと揺らしている。


 書簡は整理しても全く減らない。陽が落ちた後も、凌雪は書房に入り浸って時間の許す限り仕事をした。


 李徳謙りとくけん詹事せんじ執務室へと戻り、書房には景耀と凌雪の二人だけだった。静寂の中、筆を走らせる音だけが響く。


 ふと、景耀が筆を置いた。


「凌雪、こちらへ」

「はっ」


 景耀から呼ばれ、慌てて立ち上がる。景耀の執務机の前に行くと、彼は机上の奏状を凌雪の方へ押しやった。


「……治水事業の歳出案だ。洪水被害を受けた三郡に新たな堤防と運河を設ける計画だが、予算が膨れ上がってしまう」


 景耀の表情は真剣だった。眉間にわずかな皺が寄り、この問題に頭を悩ませているのがわかる。


 凌雪は拱手して奏状を受け取り、目を通した。数行読むごとに眉がわずかに寄っていく。文書に記された数字と地名を追いながら、頭の中で地図を思い浮かべる。


「殿下……失礼ながら、この案ですと、上流域の河川工事が優先されています。ですが被害の大きいのは、下流域の氾濫地帯ではございませんか?」


 景耀が片眉を上げた。その蒼い瞳が凌雪をじっと見つめる。


「そうだな」

「上流を整えねば下流も治まらぬ、というのは一理ございます。しかし、下流の被害地は農地が多く、今冬を越せぬ民も出るかと。費用の一部を灌漑路の補修と堤防の応急工事に充てれば、氾濫を抑えることは可能かと存じます」


 凌雪は文書を指し示し、具体的な数字を挙げた。


「この地区は昨年も氾濫で収穫の半分を失っております。今年も同じことになれば、餓死者が出る可能性もございます」


 景耀は静かに筆先を弄びながら凌雪を見据えた。その視線は鋭いが、決して否定的ではない。むしろ、興味を示しているようだった。


「……お前、政務に口を出すとはな」

「……差し出がましい真似を……」


 凌雪が慌てて頭を下げると、景耀は薄く笑った。その笑みには満足げな色が浮かんでいる。


「よい。誰もが私に従順な頷きばかり寄越す中で、はっきり物をいえる者は貴重だ」


 そういって、奏状に朱を入れ始める。筆先が紙の上を滑り、力強い文字が刻まれていく。


「下流への費用配分、見直しを指示する――宰相が眉をひそめようが、かまわぬ」


 凌雪は目を見張った。景耀は、まるで当然のようにいって、筆を置いた。


「……お前の目は、侮れぬな」

「身に余るお言葉でございます」


 すると景耀は目を細めて満足そうな顔をした。灯火に照らされたその顔は、いっそう美しく映った。切れ長の瞳、高い鼻筋、引き締まった唇――どれも完璧だった。


 凌雪は思わず見とれてしまい、慌てて視線を逸らした。


「これを明日、宰相へ持って行ってくれ。これも頼む」


 手渡されたのは、治水新案の報告書と、先ほどの歳出案だった。凌雪はそれらを受け取ろうと、机に近づき手を伸ばす。


 すると指先が景耀の手に触れてしまった。


 ハッとして景耀を見るが、彼の蒼い瞳はじっと凌雪を見つめている。その瞳の奥には、何か特別な感情があるようだった。その瞳に引き込まれるように思わず見つめ返してしまう。


 胸の奥に甘い痺れが広がり、息が詰まる。心臓が早鐘のように高鳴った。


 ――なんだ、この感じ……。


 初めて経験する感覚に戸惑った。触れた指先から熱が伝わってくるようだ。


 景耀は手を引く気配が全くない。むしろ、わずかに指先を動かし、凌雪の手に触れている。


 凌雪は慌てて書類を受け取り、頭を下げた。


「申し訳ありません……。お体に触れてしまいました」

「かまわぬ。お前がいてくれて助かる」


 そっけない言葉だったが、優しさがにじんでいた。景耀は再び筆を持ち、別の書簡を広げ始めた。


 しかし、景耀の耳の端はほのかに赤く染まっていた。そのことに気づいた凌雪は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


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