信仰心ゼロの聖女様は休みたい
「聖女エレシアは偽物だったのです! そして私、ヴィオラ・メルプルこそが真の聖女ですわ!」
神殿に響き渡ったその叫びは、場の空気を一瞬で凍らせた。
声の主はメルプル男爵家のヴィオラ嬢。顔を数回見た程度で、社交界の場で会話を交わしたことが一度あったかどうかの関係だ。
そして彼女の横にはギルベルト王子がこちらを睨みつけながら佇んでいる。
ローディエンス王国の第二王子、ギルベルトに連れられてヴィオラ嬢は神殿までやって来た。
一体何事かと思えば、ヴィオラ嬢は私は偽りの聖女であり、自分自身こそが真の聖女だと宣言したのだ。
「そんなまさか……聖女様が偽物だと?」
「無礼者め、聖女様になんて口の利き方だ!」
私の背後に控えていた、二人の神父が怒りのままに声を上げた。
「二人とも、お静かに。……コホンッ、これは一体どういうことなのでしょうか? 説明してください。ヴィオラ嬢を連れてきたのは貴方でしょう? ギルベルト王子」
ヴィオラ嬢を片手で抱きかかえるようにして、こちらを睨みつけるギルベルト王子に説明を求める。
「フンッ! この、麗しく可憐なヴィオラ嬢は、僕がみすぼらしい石ころの攻撃によって地面に落下した時負った傷を、聖女の力で癒してくれたのだ!」
拳をギュッと握りしめて、熱く語るギルベルト王子。
面倒な言い回しをしているが、要するに“小石につまずいて転んだ”というだけである。
しかし、問題はそこではない。ヴィオラ嬢が癒しの力を見せた。それは紛れもなく、聖女に与えられた奇跡の証だ。
「傷を癒した……?」
ギルベルト王子は、陰で(私に)“マヌケ王子”と呼ばれるほど抜けている人だが、嘘をつくような人ではない。彼の証言は確かに事実なのだろう。
「ああ、そうだ! エレシア、君は偽りの聖女だったんだろう? 今まで僕たちを騙してきた、悪女だったのではないか!」
「まあまあ、ギルベルト王子。どうか落ち着いてください」
ビシッ! と、私に向かって指を突き刺すギルベルトの傍でこちらに視線を向けるヴィオラ嬢。
その勝ち誇ったような笑みは、一体なんなのだろうか。
「落ち着いてなどいられるものか! 君が現れなければ、僕は偽聖女と結婚することになっていたんだぞ!」
――この国には、昔からの言い伝えがあった。
〈聖女が生まれる時、世界に光が満ちる。聖女と王は手を取り合い、国を治める。〉
つまり、王子である彼が国王になれば、聖女である私を妃に迎えるという訳だが……そんなのはっきり言ってお断りだ。
そもそも、どうして彼は国王になれる気でいるのだろうか。王子はこの国に彼一人ではないというのに。
「あら、なんということでしょう……」
とりあえず、聖女らしく可憐に眉を下げておいた。
そんなことを言われても、私だって聖女になりたくてなったわけではない。今だって聖女の力は何となく使っていただけだから、自分が聖女であることを言葉で説明しろと言われても困るし……。
――私には、物心がついたころから前世の記憶があった。
前世の私は、いわゆるお嬢様学校に通っていた。私立学校、ミッションスクール。幼稚園から高校まで揃った名門女子校。
「少女神マリアンヌよ。どうか、わたしの罪をお許しください」
家族が信仰していたとか、そういうわけではない。ただ、偏差値と家柄的にそこが私のキャラに合っていたから通っていただけ。正確には、過保護な両親に放り込まれた、という方が正しいかもしれない。
そんな少し異質な学校で、私は毎日、一生徒として神へ祈りを捧げていた。
しかし不運にも、私は登校中に交通事故にあい、短い人生に幕を下ろした。
――そして、私はこの世界で目を覚ました。
今の私の名前は、エレシア・ウェンライト。
ウェンライト侯爵家の長女で、跡継ぎの兄が一人。侯爵家の愛娘として、私は本当によく可愛がられた。
まさに、親ガチャ勝ち組人生だ。
偉大な兄の後ろに隠れながら、贅沢三昧な暮らしを楽しむ! ……そう、思っていたのに。
私は、聖女になってしまったのだ。
私が聖女の力を得たのは、両親に連れられて教会を訪れた時のこと。
「少女神マリアンヌよ。どうか、わたしの罪をお許しください――」
前世で何百回と繰り返した祈りの言葉を、私はつい口にしてしまったのだ。
「――アーメン」
その瞬間だった。
教会にいた全員がピタリと動きを止め、私の方を振り返った。
「今の言葉は……! 伝承にある“聖女の祈り”では……!?」
「へ?」
一体なんのことだとポカンとしていたその時。私の両手のひらから、青白い光が溢れ出した。
後々説明を受けて知ったことだが、前世では当たり前のように皆が口にしていた「アーメン」という言葉は、この世界では聖女だけが口にできる言葉だったそう。
──それが、私の“聖女人生”の始まりだった。
家族は涙を流し、民は祝福し、国は騒ぎ立てた。
皆が歓喜したその中で、私はただ一人、顔を引きつらせていた。
嬉しくなんてなかった。人生を強制され、自由を無くし、毎日聖女として職務をこなす日々が始まったのだから。
前世も、現世も、神に対して信仰心も無ければ、兼愛も無い私にとって聖女としての勤めは苦痛でしかなかった。
前世では友達とお祈りの言葉をどれだけ早く言えるか競ったり、『アーメン』を『ラーメン』に変えてみて先生にバレて怒られる……なんて、バカバカしいことをして笑っていたのに。
ミサの時間がこの世の何よりも苦痛でしかなかったのに!
それなのに毎日毎日、聖女として神殿に閉じ込められて……。
(聖女なんて嫌! やめたいよぉ!)
……そう思っていた時だった。私の前に、ヴィオラ嬢が現れたのは。
「何か言ったらどうなんだ、エレシア!」
彼女が偽者であろうと、本物であろうと、どちらでもよかった。
一体どんな事情があり、経緯があったのかは分からないが聖女になりたいのならなればいい。
私は聖女なんて、今すぐにでも投げ出したかったのだから、今すぐにでも喜んで譲ろう。
(ありがとうございます神様! 神様万歳! 今まで祈ってきて本当に良かった!)
「そうですよ、聖女様! なんとか仰ってください!」
私の後ろに控えていた神父の一人が焦った様子で声を上げる。先ほどから何も言い返さず、口を閉ざす私に不信感でも覚えたのだろうか。
「まあ……少女神マリアンヌ様がヴィオラ嬢にお力をお与えになられた? それはつまり、マリアンヌ様が新たな聖女に、ヴィオラ嬢をお選びになったということでしょうか」
ハンカチを取り出し、口元に優しく添える。
「それがマリアンヌ様のご意志ならば、私は従い、ここを去るしかありませんね……」
グスン。
一筋の涙が、頬を伝った。
(演技は完璧。……バイバイ、聖女の座!!)
「認めたぞ!」
「聖女が偽物だったことを認めた!」
「捕えろ!」
──ガシャンッ!
「へっ?」
何が起きたのかを理解する前に、ギルベルト王子が連れてきた騎士たちが一斉に動きだし、あっという間に私を取り囲んだ。
「ま、待て! なにもそこまでする必要はないのではないか……?」
焦った様子で割って入ってきたのは、ギルベルト王子だった。
だが、それを許さないとでも言いたげにすかさず声が飛ぶ。
「まあ! ギルベルト王子ったら何を仰るのですか! 彼女は自分が聖女だと偽っていた悪人ですよ。さっさと処刑してしまうべきですわ!」
(え? 処刑?)
思わぬ言葉が飛び出し、開いた口が塞がらない。
確かに私は聖女という役目は捨てたかった。面倒くさくて、重たくて、神に仕えるとか性に合わないし。けれど、けして死にたいわけではない。
私が聖女を辞めたいのは、普通の令嬢たちのように楽しい人生を送りたいから。こんなところで処刑されるわけにはいかないのに。
「彼女は国を騙した大罪人です! ねえ、お願いします。ギルベルト様ぁ♡」
ヴィオラ嬢は鋭い目つきで私を睨みつけていたかと思えば、すぐにギルベルト王子へと視線をずらし、彼の腕にしがみつくようにして抱き着くと、甘い声色を囁いた。
「しかしだな……」
ヴィオラの必死な色仕掛けに屈することなく、流石に処刑までは可哀想ではないかと声を上げたギルベルト王子。
元はと言えば、誰のせいでこうなっているんだと言ってやりたかったが、グッと堪えた。
聖女だなんだと奉って、大好きな家族がいる侯爵家から私を連れ出したんだから、そのくらいの責任は取りなさいよ。
ギルベルト王子……。私はアンタのことなんて死ぬほど嫌いだったけど、それでも長い間一緒に居たんだから情くらい移ってるわよね?
小さい頃、婿候補だと何度も会わせられて、よく遊んであげていたことを覚えてる? まあ、ほとんど私が貴方をからかって遊んでいたけれど……。
(それでも、私が殺されるとなれば、私を守ってくれるわよね?)
「まあ、ヴィオラがそう言うのなら仕方がないな!」
「わぁい! さすがですわ、ギルベルト王子!」
「フン! さあ、衛兵よ! 偽物の聖女を連れてゆけ!」
(……やっぱり、アンタはいつまで経ってもマヌケだわ)
「はあ……ギルベルト王子……」
深いため息が自然と口からこぼれ落ちる。
「なんだ? エレシア、まだ言いたいことがあるのか」
「これは、聖女でも令嬢としてでもなく、幼いころから貴方を見てきた幼馴染としての言葉だと思って聞いてください」
「フンッ! 子供の頃からの知り合いだからといって助けを請うつもりか? 情けない奴め!」
「いいえ、そうではありません。ただ……貴方は今まで数えきれないほどの令嬢たちに騙されてこられましたよね? 女運の悪さでいえば、貴方以上に強い人はいないほど」
「だ、だから何だって言うんだ! 確かに僕は今までどうしようもない悪女たちに騙されてきたが……ヴィオラ嬢だけは違うッ! 今度こそ、これは運命なのだ!」
「……ああ、ハイ、そうですか……」
王子さまがそういうのなら仕方あるまい。
どうでもいいという気持ちが半分。残る半分は、呆れ。
その感情はおバカなギルベルト王子に向けたものだけではなかった。やんちゃな王子様に問題ごとに巻き込まれるのは、もう慣れっこになっていたから。
何が神だ。
すべてを叶えてくれる存在だなんて、嘘ばっかり。
私を聖女に選んでおいてこんな仕打ちを与えるなんて、どう考えても理不尽だ。
あの長ったらしい祈りの言葉を毎日毎日、何時間もかけて唱えてやったというのに。
私は今まで、前世でも、現世でも、最大限に神に尽くしてきたつもりだ。
何十時間も神殿で祈りを捧げて、儀式のたびに身体を冷やして。
それなのに、こんなにも私を蔑ろにするのなら……。
祈った時間、返してもらえます?
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
数日後、裁判が開かれた。
争点は至って単純。本物の聖女はどちらなのか、ただそれだけのこと。
つい先日まで私のことを「聖女様」と崇め、祈りを求めてひれ伏していた者たち。
今ではその面影すらなく、彼らの目はすっかり変わり果てていた。
敬意も、信頼も、すべてどこかへ消え失せ、代わりに向けられているのは疑惑と敵意が入り混じった冷たい視線。
(まあ、想定内ではあるけれど……ここまでくると、笑えちゃうわね)
神殿から連行された私は、裁判までの数日間、来客者用の部屋で監視付きの生活を送っていた。
監視付きといっても、罪人のように鎖に繋がれていたわけではない。扉の外に衛兵が一人立っているだけで、部屋の中はまるっきり自由。誰からも話しかけられず、見られることもない、おひとりさま状態。
私はこの世界に生まれて、初めて自分だけの時間を手に入れることができた。
朝から晩まで祈りに明け暮れ、誰かの期待を一身に背負って生きてきた私にとって、それは夢のような開放感だった。
寝不足だった身体を休ませ、朝昼夜と眠りたいだけ眠る。起きたらぼんやり天井を眺め、気が向いたらお茶を飲み、ご飯を食べて、また眠る。
だらけ切ったその時間は、神の加護なんかよりもよほどありがたく、心身ともに生き返ったようだった。
おかげで、裁判当日の今、私は心も体も絶好調だ。
肌の調子も良いし、目の下のクマも見事に消えた。
何より、ここ最近で一番、清々しい気分でいられている。
「私は一度も、自分が聖女であることを偽っておりません。人のことを偽物扱いするのは、いい加減にしてください」
「ならばどうしてあの場で否定しなかったのだ!」
私の反論に、すかさずギルベルト王子が声を上げる。
今日も今日とて、貴方は元気いっぱいなお坊ちゃまね。
私は苛立ちを押さえるように「はあ」とため息をつく。
「仕方がないではありませんか。あの日私は三日間も寝ておらず頭が上手く回っていなかったのです。そのせいか、少し欲が出てしまい……。私は物心ついた頃から神殿の奥深くに閉じ込められていました。朝から晩まで、神に祈る日々。それが私の日常だったのです。そんな人生の中で、たった一度でも普通の人間のように休みたいと思ったことが罪になりますか?」
一瞬の沈黙の後、今度はヴィオラ嬢が前に出て、傲然と胸を張って言い放った。
「本物の聖女である私は神聖なる祈りに苦労を感じることはありません! 聖女として当然の務めを苦に感じること、それが全てを表しているではありませんか!」
胸に手を当て、そう声を上げるヴィオラ嬢の姿はまるで舞台に立つ演者のよう。
ヴィオラ嬢は今、完全に悲劇のヒロインのつもりなのだろう。
「聖女だったら苦労を感じたりしない……? それは素晴らしいですね。ですが、聖女だってただの人間です。いくら神聖力で身体を癒せたとしても精神的な疲労までは癒せません」
神に祈れば全て報われる。そんなものは、単なる幻想だ。
癒しの力を人々に授けると、人を癒す代わりに自分自身がすり減っていく。夢のような奇跡を期待されながら、誰にも見えない場所で疲弊していく――それが“聖女”の現実だから。
「私のようなものが発言するのは恐れ多いのですが……エレシア様は確かに聖女の力を使われていましたし、聖女にしか口にできない“聖女の祈り”も詠われました。今さらすべてが偽りだったというには、少々無理があるのではないでしょうか?」
静まり返る法廷の中、そう異議を唱えたのは神殿に仕えてまだ日が浅い、若い神父だった。
その理路整然とした指摘に、思わず心の中で拍手を送りたくなる。
ああ、やっぱりあなたが一番優秀ね。
事がすべて片付いた暁には、今傍に置いている年老いた神父は追い出して貴方を傍に置くことにするわ。
「ふむ……では、ヴィオラ嬢。ギルベルト王子に使われたという聖女の力を今ここで使うことは出来ますか?」
静寂の中、その問いが落とされた瞬間、場の空気が張り詰めた。
けれどもヴィオラは、微塵のためらいも見せずににっこりと微笑みを浮かべる。
「ええ、もちろんですわ」
その言葉と同時に、彼女は優雅に手を掲げた。
指先から青白い光がふわりと溢れ出す。まるで空気の中に溶けるように、淡く、美しく。
「おお! これは確かに、聖女様のお力……!」
誰かが感嘆の声を上げた。
人々の視線が彼女の手元に集中し、光に魅入られたように固まる。
確かにそれは聖女の力だった。そう、聖女である私の。
(これ、私の力だ……)
青白く揺れるその光は他の誰のものでもない、私の力だった。
この国で唯一、私にしか宿らないはずの聖女の神聖力。
私の瞳と同じ淡い水色の輝き。ずっと祈り続けて、神と繋がり続けてきた証。
それを今、彼女が何の躊躇いもなく、さも当然のように使っている。
(私の努力を……なんだと思っているのかしら?)
たった今初めて、私の中でヴィオラ嬢に対し、腹立たしい気持ちが湧いた。
怒り、苛立ち。それこそ、こんな感情を抱く聖女はいないと言われてしまいそうだけれど、私だって一人の人間。腹が立つことくらいある。
「皆さん、これで分かりましたでしょう? 私には聖女の力が与えられたのです!」
ヴィオラ嬢はキュッと口角を上げると、まるで舞台女優のような抑揚で堂々とそう宣言した。
「私はただ選ばれてしまっただけ」
「ああ、どうかお許しくださいね? エレシア様」
「敬愛なるマリアンヌ様が私を選んでくださったのならば――私は聖女として、この身を捧げます……!」
その言葉の最後、わざとらしく震える声で言い終えたヴィオラ嬢はギルベルト王子の胸元へふわりと身を預ける。
ギルベルト王子はそれを満更でもない顔で受け止めた。
「さあ、分かったか! お前はもう終わりだ! 来い、エレシ――うわっ!」
ギルベルト王子が私の方へ歩み寄り、手を伸ばしかけた――その瞬間。
眩いほどの青い光が空間を裂き、ビリビリと空気を震わせる音とともに鋭い閃光が法廷中を包み込んだ。あまりの眩しさに、誰もが思わず目を覆う。
それは、私が放った神聖力の力――身勝手に私へと手を伸ばそうとした、ギルベルト王子に対する明確な拒絶。
聖女の力は癒しの能力だけではない。これは私自身が常に引き受けている「代償の痛み」。そして今、その一端を脅しとして見せただけ。実際に攻撃する気はさらさらない。
「ギルベルト王子。私に触れても良いと貴方に許可を出した覚えはありません」
私の言葉に、ギルベルト王子は一瞬驚いたように目を見開くと、すぐに苛立ったように眉間を寄せ、声を荒げた。
「ここはローディエンス王国だぞ! 王子の僕にこんな真似をして許されると思っているのか!」
「手荒い真似をしたことは謝罪します。ですが、ここはローディエンス王国である前に神殿内です。神に仕える身として、聖女たる私に無断で手を触れるなど、たとえ王子である貴方でも許されることではありません」
「なんだと? 僕はお前の婚約者なんだぞ!」
「全くもって理由になっていませんよ……。あと、まだそのような勘違いをされているのですね」
呆れと諦めが入り混じった吐息が自然と口をついてこぼれ落ちた。
バカみたいに顔を真っ赤にしているギルベルト王子から、驚きに口が塞がらないのか、マヌケな顔をしたヴィオラ嬢へと視線をずらす。
「ヴィオラ嬢」
「何を……嫌、近づかないでください!」
私はヴィオラ嬢の手首を強く掴み、ぐっと上に引き上げる。
袖口の隙間から見えたのは、翡翠色の宝石をあしらった細身のブレスレット。
(……ああ、やっぱりこれの力だったのね)
ブレスレットを見つめながら、私は心の中でため息をついた。
「これは、私がかつて戦地で傷ついた騎士たちのために作ったもの。聖女の治癒能力を封じ込めた加護の宝石です。私が直接、神殿に奉納した品のひとつ。それが何故貴女の手にあるのかは分かりませんが……」
戦地、神殿、奉納。ヴィオラ・メルプル――……メルプル男爵家。
「そういえば、貴女の家。メルプル男爵家には令息が二人おられましたね。確か、次男の方は帝国騎士団にお勤めだったとか」
裁判の場がしんと静まり返る。
ヴィオラの顔からは、分かりやすいほど血の気が引いており、顔面が真っ青になっていた。
「な、なんだと……? ヴィオラ嬢、それは本当なのか? 僕の傷を癒したのも、このブレスレットによる手品だったというのか?」
ギルベルト王子が震える声でヴィオラ嬢に問いかける。
彼の目は信じたいという希望と、裏切られたかもしれないという疑念で揺れていた。
「ギルベルト王子……それは、その……」
「僕を……騙したのかッ、ヴィオラ……!」
絶望の声を上げたギルベルト王子は、がくりと膝をつき、崩れ落ちるように項垂れた。
(全く……王子のこんな姿を見るのは、もう何度目になるかしら)
「やっ、やはり聖女様は本物だ!」
「そうだそうだ! 私たちはずっとお傍で見守って来たんだ!」
「聖女様! 私たちはずっと、初めから、貴女様を信じておりましたよ!」
沈黙を破ったのは後方に居た神父たちの喚き声。
ああ、うるさい。
何が初めから信じていただ。調子がいいにもほどがある。
「皆さん、お静まりください。ここは神殿。少女神マリアンヌ様の前ですよ。今一度、敬意と静謐を思い出していただきますよう」
ニッコリと聖女スマイルとやらを浮かべ、ギャーギャーとうるさい神父共を黙らせる。
さっきまで騒いでいた神父たちは、一斉に青ざめた顔で口を閉じ、罰が悪そうに頭を垂れた。
(まったく……神だの聖女だの、ホント笑わせてくれるわね)
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
普段から私の周りをウロチョロすることしか能が無い神父たちを下がらせ、護衛の者にヴィオラ嬢を神殿から追い出すように指示を出した。
彼女の処罰に関しては全て任せると伝えたが、明日にでもメルプル家の男爵と夫人が「娘はつい魔が差しただけです! どうかお許しを!」などと騒ぎに来るだろう。
(正直、どうでもいいから来ないでほしい。対応するのも面倒くさいもの)
「ギルベルト王子……ドンマイです」
崩れ落ちたギルベルト王子の肩に、そっと手を置き、パチンとウィンクを決めてみる。
ギルベルト王子の行動に腹が立たないわけじゃない。けれど、彼はただひたすらに純粋で、ただただ騙されやすいだけなのだ。
今までも何度となく令嬢たちにコロリと騙され、私が巻き込まれるのももはや恒例行事。
(馬鹿な子ほど可愛い、ってやつだっけ? ……いや、ここまでくるとむしろ笑えるかな。ある意味才能よね)
「お前、昔からそのドンマイ? ってよく言うけど、どういう意味なんだ?」
「……聖女に伝わる祝福の言葉ですよ」
「そ、そうなのか? ……まあ、仕方ない。お前が本当の聖女ならばお前と結婚するしかないだろう」
「ギルベルト王子……前々から思っていたのですが、私とギルベルト王子の結婚はまだ決まっていませんよね」
「何を言っているんだ? 僕は王子で、お前は聖女。予言の通りなら――」
そのとき、神殿の大扉が重たく音を立てて開いた。
この神聖な場所に立ち入れるのは、洗礼を受けた神父やシスターたち、そして王家の人間だけ。
静寂の中、響いたのは低く、威厳に満ちた声だった。
「何か勘違いをしていないか。我が弟よ」
そこに立っていたのは、この国の第一王子――フレデリック・フォン・ローディエンス。
漆黒の礼服に身を包み、背筋を伸ばして立つその姿には威厳と冷静さが滲み出ている。
美しい漆黒の髪が、差し込む光を受けて静かに煌めく。
その深い蒼の瞳は、一切の感情を排したまま、ただ冷ややかに弟を射抜いていた。
彼は今、寮制の王立学園に通っているはずだが、どうしてここに……。
「聖女と結婚するのは、この国の次期国王。第一王位継承権はこの国の第一王子である俺のものだが……お前はいつから、自分が王太子気取りだったんだ?」
「ふ、フレデリック兄上……!」
この国で最も、私の――聖女の夫となる可能性が高い男。
フレデリック第一王子。圧倒的な存在感を放つその男は、迷いなくこちらへと歩を進めてくる。
そして地面に膝をついたままのギルベルト王子の前に立ち、真っ直ぐに彼を見下ろした。
「エレシア、俺は可愛い弟と二人きりで話をしたい。あの場所で待っていてくれるか?」
「……ああ、はいはい」
「ま、待ってくれエレシア! 僕を置いて行かないでくれ……!」
ギルベルト王子の切羽詰まった声が背中から追いかけてくるが、私は聞こえないフリをして足早に歩き出した。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
手を伸ばし、聖女の力を発揮する。指先から、淡く青白い光が広がっていく。その光が包むように少年の傷口を撫でると、まるで最初から何もなかったかのように肌は綺麗に再生した。
「お姉さん……もしかして聖女様ですか?」
「ええ。残念ながらね」
「えっ?」
私の返事に、困惑したような顔を浮かべる少年。私はそれ以上は語らず、あくまで柔らかく促す。
「さあ、立ちなさい。傷が癒えたのなら、もう泣いてはいけないわ」
「は、はい!」
ヒック、ヒックとまだ少し残っているしゃっくりを堪えながら、少年は必死に袖で目元を拭う。そして、懸命に口元を上げて、笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます! 聖女様!」
「はーい。バイバイ~」
走りながらこっちに向かって手を振る少年に、こちらからも手を振り返す。
あの場所こと、神殿の裏庭。
恐らくあの子供は神殿に祈りに来た子だろう。神聖力は感じられなかったから、これから洗礼を受ける子供だろうか。
「なんだ、意外と元気そうにしているじゃないか」
背後から声が聞こえ、急いで振り返る。
そこに立っていたのは、先ほど私に「あの場所に行け」と告げた張本人――フレデリック王子だった。
彼が言った『あの場所』とは、かつて私とフレデリック王子、そしてギルベルト王子の三人でよく遊んだ、神殿裏の小さな庭園だ。
季節ごとに異なる草花が咲き乱れ、私たちの幼き日々の記憶が残る場所。
その一角に立つフレデリック王子は、あの頃と変わらぬ美しい黒髪を風になびかせ、微かに口元を吊り上げてこちらを見下ろしていた。
澄んだ青の瞳が、私のすべてを見透かすように静かに揺れている。
「いつお戻りになられたのですか?」
「ついさっきさ」
「まさか、国にたった一人の聖女を心配してわざわざ会いに来てくださったのですか? フレデリック王子は相変わらずお優しいですね~」
わざとらしく笑ってみせる私に、片眉を上げ、皮肉な笑みを浮かべるフレデリック王子。
「いや、俺は偽聖女とやらに会いに来たんだ。君は聖女じゃなかったんだろ?」
「はい? 私は正真正銘の聖女ですけど。私を信じて助けに来てくださったのではないのですか?」
「まさか。聖女じゃなかったと聞いて納得したよ。少女神マリアンヌに信仰心もなければ、忠誠心も何もないお前が聖女なはずがないんだ」
「ハハッ、相変わらず憎たらしい男ですね」
「エレシア、それは王族侮辱罪にあたるが?」
「偉大なるフレデリック王子殿下! いつまでもお慕いしております!」
媚びるように笑みを浮かべた私を見て、耐え切れないと言った様子でふっと笑みを零したフレデリック王子。
(こいつ……相変わらず私をバカにして遊んでいるのね?)
「それで? ギルベルト王子はどうされたのですか?」
「今回の罰として、一ヶ月神殿で修行させることにした」
「修行って、まさか精神の間でひたすら祈り続けるアレ……ですか?」
「ああ、そうだ」
「……悪魔ですね、あなた。アレの辛さは身に染みて分かっているくせに」
呆れ混じりにそう言えば、フレデリック王子はどこか懐かしむように目を細めて笑った。
「懐かしいな。昔、俺たちもあそこに閉じ込められたことがあったな」
「二人でギルベルト王子にあることないこと吹き込んで泣かせてしまって怒られたやつですね……」
「二人だと? ギルベルトを泣かしたのは君の方じゃないか、エレシア。『少女神マリアンヌ様はギルベルト王子のことを見放されましたね』って、真顔で言ってただろ」
「だって、私の言葉に怯えるギルベルト王子が可愛かったんですもの。私の言うことは全部真実って信じちゃって。可愛いかったですよね、あの頃のギルベルト王子」
「そりゃあ、聖女が嘘を付くとは到底思わないだろう」
「え~そうですか? 聖女だって人間なんだから、嘘くらいつきますよ」
私は目の前に広がる美しい庭園の中から一輪を摘み取る。花弁を指先で撫で、香りを確かめるように鼻先に寄せた。
「相変わらず、花が好きなんだな」
不意にかけられたフレデリック王子の声。私は視線を薔薇から彼へと移し、微笑む。
「ええ、花は無害ですから」
私が答えると、フレデリックは私に向かって一歩足を進めた。
そして、私の髪をすくうように取ったかと思うと、触れるようにキスをした。
「……なんですか?」
私が訝しげに問い返すと、彼はいたずらっぽく目を細めて答えた。
「エレシア。君は正真正銘、神に愛された聖女だ。この国の掟に従って、君は俺と結婚することになるよ」
「そんなことになったら私は逃げます」
「どこへ?」
「ど、どこかです。遠いどこか!」
「ははっ、大丈夫。そうなったとしても、必ず俺は君を見つけてみせるよ」
軽やかに笑いながら放たれたその言葉は、やけに確信めいていた。
「はあ……そりゃあ、大切な聖女が国から逃げ出したら困りますものね」
「ああ、君に逃げ出されたら、俺は非常に困る」
「? ハイ」
なぜか一瞬だけ間を置いてから繰り返されたその一言に、なんだか変な含みを感じてしまった私は、思わず不穏な返事を返してしまう。
フレデリック王子は、ニコニコと上機嫌な笑みを浮かべたまま、まるで楽しんでいるかのように私の顔を見つめている。
どうやらこの人とって、私が反抗すればするほど愉快らしい。
笑うな、と想いを込めながらフレデリックを睨みつけ、「繰り返さなくて結構です」と返事を返した。
初・聖女モノです。
書いてみたかったんですよね~('_')
少しでも面白いと思っていただけましたら下にある☆マークから評価をお願いいたします。いいね、感想、レビューもお持ちしております。とても励みになります⋈*.。