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第9話 黒魔の森の魔物たち

   黒魔の森


 ──生きなければ。

 そのためには、まずこの手首のロープを何とかしなければ。


 エリーゼは、荒く息を吐きながら周囲を見渡した。石。鋭く角ばった岩が一つ、地面に突き出ている。それを見つけるや否や、彼女は身を引きずって近づいた。そして、擦る。繰り返し、何度も、皮膚が焼けるような痛みとともに、手首のロープを岩に擦りつけた。


 やがて、ばさりと音を立てて縄が解けた。

 痣が浮かび、赤く腫れ上がった手首。けれど、痛みに構っている暇はない。

 座った姿勢で、もう一度、馬車がある場所を確認するために後ろを振り返る。まだ、馬車は残っている。どうにかして馬車が去れば森に入らずに済む。

 じっと見ていると、馬車から兵士が降りて来るのが見えた。鞘から剣を抜いていた。刀を振り上げ、森へ入れと、叫んでいる。このまま戻ることはできそうにない。

 ここにいれば、兵士に斬られることも考えられた。彼らにしてみれば、罪人を斬り捨てて任務を早く終えたいと考えているかもしれない。

 仕方ない。このまま馬車が去るのを待つのは難しいようだ。


 震える足で立ち上がる。全身が怯えていた。

 それでも、一歩踏み出す。


 見張られている以上、森に入るしかない。そして、馬車がいなくなるまで、隠れていればいい。とりあえずこの場からは、逃げなければ。ここに留まれば、兵士に殺されるだろう。

 やり過ごせばよい、少しの時間でも森に隠れ、兵士が去るのを待てば良いのだ。少しだけなら大丈夫だと思う。エリーゼは森の中へと足を踏み入れた。


 森に入った途端、空気が変わった。少しだけという考えが甘かったかもしれないと後悔した。

 まるで異界。昼間とは思えぬほどの暗さ。太陽の光は一筋も差し込まず、黒い霧が空を覆っていた。


 腐葉土の匂いと、湿った泥のぬかるみが、足元から体温を奪う。

 歩くたびに、足が沈む。転びそうになる。何度も手をつき、泥にまみれた。


 ──どろり、とした霧が、まるで意思を持つかのように彼女の肌にまとわりつく。


「っ、く……」


 あちこちから、不気味な鳴き声が聞こえる。

 鳥か、獣か、それとも──もっと別の、異形の何かか。


 森が、彼女を嘲笑う(あざわらう)ようだった。

 逃げ道など、ないと告げているかのように。


 倒木を乗り越え、枝をかき分け、時に地に這いながら、エリーゼは進む。

 とにかく、兵士たちから見えないところまでは、進まなければ、助からない。

 けれど──


(怖い……)

 

 恐怖が、喉を締め上げるようだった。

 それでも、彼女は震える声で自分に言い聞かせた。


「私は、負けない……負けたりしない……っ」


 それは自らに課した呪文。倒れぬための言葉。

 頬を裂く枝の痛みも、衣服を汚す泥も、もう構っていられない。


 だが──運命は、彼女をさらに深い絶望へと突き落とす。


 ──ガサリ。


 音がした。密林の奥、深い闇の中から。

 何かが、こちらに近づいてくる。


 エリーゼは反射的に振り返った。

 そこに──いた。


 銀色の毛並み。獣にしては整いすぎた姿。

 赤く光る双眸(そうぼう)。ぎらついた殺意。


 ──ウルフの魔物。


 王国の記録に載る、黒魔の森の魔獣。

 騎士でなければ討伐不可能とされる、魔物だった。


(……どうして、こんなタイミングで)


 絶望が、心を満たす。

 足がすくんだ。逃げたいのに、動かない。


 牙が()かれる。唸り声。

 その目には、明確な敵意と、愉悦(ゆえつ)が宿っていた。


 ──ああ。私は、ここで──


 死ぬのか。

 今度こそ、本当に。


「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 絶叫とともに、エリーゼは目を閉じた。

 死を覚悟し、全身が強張る。


 ──終わった。


 そう思った、瞬間だった。

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