第7話 エリーゼ=アルセリアの過去
エリーゼ=アルセリアの過去──冷たい館で
アルセリア侯爵家。
それは、王国で現アルゼリア侯爵の時に、伯爵家から侯爵へと昇爵している。
代々王家に忠誠を誓い、地位と富と名声を築き上げてきた名家。その一族に生まれたことを、幼いころのエリーゼは心から誇りに思っていた。
──だが。
エリーゼにとって、その誇りは次第に、重く冷たい鎖へと変わっていった。
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「……エリーゼ、どうしてそんな泥だらけになっているの? みっともないわね」
「す、すみません、姉様……」
幼い日、庭園で遊んでいたときのことだ。
美しい姉カリーナが、白いレースのドレスを汚したエリーゼを見下ろして、軽蔑を隠さずに吐き捨てた。
カリーナは、アルセリア家の誇りだった。
誰もが見惚れるような金髪碧眼、美貌、賢さ、そして気品。
両親はカリーナを溺愛し、あらゆるものを与えた。
ドレスも、宝石も、馬車も、家庭教師も──。
一方、エリーゼは……その陰に追いやられた。
与えられるのは、カリーナのおさがりの服。
読み古された本。傷だらけの小物。
何をするにも、「カリーナ様の邪魔をするな」「お前は控えめにしていろ」と言われ続けた。
けれど、エリーゼはそれでも必死に、認めてもらおうと努力した。
勉学に励み、礼儀作法を学び、舞踏会ではぎこちないながらも微笑みを絶やさなかった。
父や母に褒められたくて、ただそれだけのために。
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「エリーゼ、お前は来なくていい。今日はカリーナの晴れ舞台だからな」
「……はい、父上」
初めての大舞踏会の日、そう告げられたときの、胸の奥を締めつけられるような痛みを、エリーゼは今でも覚えている。
冷たい石畳の廊下に一人座り、遠く響く音楽と笑い声を聞きながら、膝を抱えて震えていた夜。
誰にも、気づかれないように。
誰にも、見つからないように。
「エリーゼ、お姉様にお茶を運びなさい」
「エリーゼ、今すぐ庭の掃除をしておきなさい」
召使いのように使われる日々。
それでも、カリーナの笑顔のために、両親に褒められるためにと、エリーゼは逆らうことなく従った。
だが、何をしても、誰もエリーゼに優しい言葉をかけてはくれなかった。
時には、カリーナがわざとエリーゼの失敗を大げさに告げ口し、母親が平手打ちをすることさえあった。
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「どうしてあなたは、いつもカリーナの足を引っ張るの? 恥ずかしい子」
「……すみません……母上」
その言葉が、どれほど心をえぐったか。
どれほど自尊心を削ったか。
どれほど、泣きたくても泣けない夜を過ごしたか。
エリーゼには、もう分からなかった。
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それでも。
まだ小さかったエリーゼは、信じていた。
「いつか、ちゃんと見てもらえる日が来る」
「いつか、私にも微笑んでくれる日が来る」──と。
その希望だけを胸に抱きしめ、日々を耐えていた。
──そして、数年前。
エリーゼに婚約の話が持ち上がった。
相手は王家の第一王子、シャルル=レインハルト。
「これでようやく、父上や母上に認めてもらえる」
エリーゼは、涙が出るほど嬉しかった。
必死に舞踏の稽古に励み、マナーを磨き、身なりを整えた。
だが、カリーナは許さなかった。
嫉妬──それとも、単なる嫌がらせだったのか。
エリーゼの幸福を、姉は決して許そうとしなかった。
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「ねえ、エリーゼ。知ってる? シャルル様は、本当は私に一目惚れだったのよ」
「……そんな、はず……」
「嘘じゃないわ。だって、私たち、今でも文をやり取りしているもの」
微笑みながら、毒を盛るように。
カリーナは幾度となく、エリーゼの心に傷を刻みつけた。
舞踏会では、わざとエリーゼのドレスに飲み物をこぼす。
王子の前では、エリーゼを悪者に仕立て上げるような言動を繰り返す。
小さな積み重ねが、次第に王子の心を蝕み、エリーゼへの信頼を削っていった。
エリーゼは、耐えた。
必死に、信じた。
けれど──
それら全てが、無駄だったのだと、
今、エリーゼは知った。
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冷たい石畳の広間。
嘲るような姉の笑み。
顔を背ける両親。
──そして、婚約破棄と国外追放。
すべては、初めから決まっていたのだ。
「……私、は……」
エリーゼの中で、何かが静かに壊れていった。
この世界で、自分に味方してくれる者などいない。
この家に生まれたことすら、間違いだったのかもしれない。
涙は、出なかった。
泣く価値すら、失っていた。
エリーゼはただ、兵士たちに引きずられるようにして、王宮を後にした。
──誇り高きアルセリア家の、捨てられた娘として。