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第6話 ある王宮兵士の話

  ──それは、あまりに唐突で、あまりに不自然な光景だった。


 俺は王宮に仕える兵士のひとりだ。名などない。玉座の間の警護、それがこの日割り当てられた任務だった。だが、その日、俺は人生で二度と忘れられないものを見た。


 玉座の間に響いた第一王子の声──「婚約破棄」そして「国外追放」。それを受けた少女、エリーゼ=アルセリアの震える声と、絶望に崩れ落ちる姿。俺は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


 どうしてあんなことが許されたのか。なぜ誰も止めなかったのか。


 答えは簡単だった。……そこに、王も、宰相もいなかったからだ。


 第一王子シャルル殿下──人々は聡明な若者と称するが、我々下々の兵士にはその裏の顔も知られていた。野心家であり、威圧的であり、自分の権威に酔うあまり、人の命すら道具のように扱う男だ。


 そして彼の隣にいたのは、カリーナ=アルセリア嬢。かつては聡明で優しい令嬢と噂されたが……今やその面影はなく、王子の腕に絡みつきながら妹の破滅を笑う姿は、まさに妖魔のようだった。


 あの日、国王陛下と王妃は政務で外遊に、宰相殿は外地の調停に赴いていた。玉座は空席、宮廷を統べる者は誰もいない。


 ──その隙を突いた、追放劇だった。


 俺はエリーゼ嬢のことを、遠くから見知っていた。彼女は常に礼儀正しく、誰に対しても分け隔てなく接していた。兵士の我々にさえ、通りすがりに微笑みかけてくれるような方だった。


 その彼女が、王子に向かって「姉をいじめた」と非難され、涙を浮かべて否定する姿を見るのは、胸が張り裂けそうだった。


「私は……姉様に、そんなことしていません……!」


 どれほど真っ直ぐな声だったか。だが、王子の顔には冷笑しかなかった。カリーナ嬢の表情もまた、嘲るような勝ち誇りに満ちていた。


 そして、誰も彼女をかばわなかった。周囲の貴族たちは目を逸らし、家族であるアルセリア侯爵夫妻すら、沈黙を守った。否、彼らは沈黙という形でこの仕打ちを肯定したのだ。


 ……正気の沙汰ではなかった。


 だが、我々兵士には止めることなどできない。命令には逆らえぬ。命をかけて抗えば、次に縛られるのは自分なのだから。


「兵士、出よ」


 あの声に従い、俺は同僚とともに前に出た。形式とはいえ、王命だ。逆らうことはできない。


 だが──その手が震えていたことは、誰にも見られなかったはずだ。目の前にいるのは、泣き崩れる一人の少女。罪人の顔ではなかった。ただ、絶望と困惑に満ちた、優しき貴族令嬢の姿。


 俺は声を押し殺したまま、震える手で彼女の両手を後ろで縛った。鎖が鳴った音が、今でも耳から離れない。


「離して、ください……っ」


 その声は、俺の胸を貫いた。だが、俺には何もできなかった。ただ任務をこなすしか、方法がなかったのだ。


 王も、宰相もいない王宮は、まるで無法地帯だった。


 正義も、礼節も、貴族の矜持さえも、すべては力と立場で塗り潰される。あの日の広間は、まるで冷たい墓所のようだった。煌びやかな装飾も、赤絨毯も、燭台(しょくだい)の光も──少女の悲しみに光を与えることはなかった。


 思えば、あの場にいたすべての者が「沈黙」という名の罪を犯していたのだろう。我々兵士も例外ではない。


 いや、最も罪深いのは、シャルル王子その人だった。


 自らの権威の誇示のため、ひとりの少女を断罪し、婚約を破棄し、追放を命じる。王家の名のもとに、個人的な情念を押し通した。


 ……それが「王家の威信」だというのなら、俺はそんな威信など、信じたくはない。


 エリーゼ嬢が連れ去られた後、俺たち兵士の間には、言葉にできない沈黙が流れていた。誰も何も言わない。だが、全員が同じことを思っていた。


「……これは、間違っている」と。


 我々兵士は剣を持つが、口を持たない。語ることは許されず、思うことすら禁じられている。だが、それでも、人としての感情までは失っていない。


 あの広間で、少女が見せた絶望。


 それは、俺たちの中にも深く突き刺さっていたのだ。


 ──このまま、彼女が忘れ去られてしまうことだけは、あってはならない。


 いつか、王が戻り、宰相が真実を知り、全てが明るみに出る日が来ることを、俺は願わずにはいられない。


 そして、密かに心の中で誓った。


 この出来事を、決して忘れまいと。


 正義が眠っていた日を、誰かが語り継がねばならぬのだ。


 我々兵士は、黙して剣を握る者。だが、心までは売らぬ。あの日の光景は、王国の未来を揺るがす闇の種となるかもしれないのだから。


 ──これは、王なき王宮で起きた、ひとつの不正義の記録である。

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