プロローグ
薄暗い雲が頭上を覆う夕暮れ時、舗装された道を歩く人影が見られた。
多くの者は仕事を終え帰路についており、またそれらを対象とした出店や呼び込みの声も聞こえる。
流行り始めたグラフィティや自動車による煤汚れが目立つようになってはいたが、定期的に清掃が入っているためか誰も気にしていなかった。
そんな中、人目を避けるように身を屈めながら歩く人影があった。
薄汚れぼろぼろの服を纏い、伸び切って放置された髪の毛を揺らし、何日も水浴びをしていない身体からは悪臭が放たれている。
ところどころ穴の開いたズボンと上着は変色し、瞳の色と同様に茶色がかっていた。
控えめに言って酷い有様である。
左手に袋に入ったライパンと野菜くずを持った痩せた青年は、賑やかな通りから細道を行き裏通りに入った。
1本道を外れれば、そこはもう無法地帯である。
道で寝転ぶ者もいれば、違法な取引をする者もいる。
薬物を使ったのか身体を痙攣させた人間が転がっていたが、誰からも無視されていた。
青年は脇目もふらず、他人とも視線を合わさず裏道を進んでいく。慣れた足取りだった。
青年は手で汚れを払うと、狭く崩れかけた石造りの家の鍵を開け中に入った。
「エド、帰ったぞ」
声をかけながら廊下を進み寝室の扉を開ける。
寝室にはベッドに寝たきりの少年と、その側で椅子に腰かける少女がいた。
二人とも、恰好や衛生状況は青年と大差ない。
「お帰り、兄さん」
「お帰りなさい、ノヴさん」
寝たきりの少年、エドの顔色は良くなかった。ずいぶん前から発熱が続き、家から出ていないにも関わらず疲れ切っている。
少女の手に握られている布切れはエドの汗を拭くためのものなのか、湿っているように見えた。
「今日はこれしかなかった...。ローン、これで何かを作ってくれるか?」
ノヴと呼ばれた青年が持っていたライパンと野菜くずの入った袋を少女に渡す。
「はい。わかりました」
彼女はそれを受け取ると、立ち上がってキッチンへ向かっていった。
空席になったベッド脇の椅子に腰かける。
「調子はどうだ?」
「まあ、変わらないかな」
「そっか。そうだよなあ...」
弟のエドは病気だ。それも『肺病』と呼ばれる不治の病を患っている。
誰かが噂をしていたが、近年肺病になる人が増えているらしい。
気付いていないだけで俺も患っている可能性もあった。
健康的な生活をしていればそれなりには生きられると聞いているが、食べていくのが精一杯の俺達ではそれも難しい。
このままではエドは遠くない将来、死んでしまうだろう。
それが1週間後か、1ヵ月後か、1年後かはわからないが。
「じゃあ、ローンとはどうなんだ?」
先の事を考えると暗くなりそうだったので、少しからかってやることにする。
「...いやあ、どうって言われても別に何も......」
先ほどキッチンへ向かったローンという少女は、エドのガールフレンドだ。
俺やエドと違い髪を刈り上げて短くしているので、パっと見は少年にも見える。
この辺りの女性はみんな襲われないために似たような髪型だ。
ローンはエドと仲良くなってから我が家(という名の元空き家)に居ついていた。
お互い身寄りのない者同士、数年一緒に住んで家族のように過ごしている。
「昼過ぎから一緒にいたんだろ? 何もないってことないだろ」
「何もないよ。一緒に本を読んでただけ」
「もっと、こう......あるだろ? 若い男女が二人きりなわけだし」
「おっさん臭いよ...」
呆れられてしまった。なんでだ、俺は二人の仲を応援したいだけなのに。
エドは俺と違って頭が良い。まともな教育を受けていないのに文字を読めるようになったのだから、地頭の良さと忍耐力は相当だ。
俺みたいに木を伐ったり物を運んだり、ローンのように裁縫したり畑の手伝いをしたり、そんな『学が無いやつでもできる仕事』以外のことができるようになるだろう。
将来的には市民権を得て、大成するはずだ。
そのはず、だった。肺病にさえならなければ。
母親に捨てられてこの町に辿り着いてから、二人で支え合って生きてきた。
凍える夜を抱き合って過ごした夜もあれば、少ない食べ物を譲り合ってお互いが腹を鳴らして笑い合ったこともある。
エドは俺にとって心の支えであり、生きる意味であり、この世界で唯一心の底から信頼している人間だ。
失うわけにはいかない。だが、どうすればいいのかわからない。
日銭を稼ぎ、体調が悪化しないように気を付ける以外に何ができる?
頼れる人間も、助言をくれる人間も、どこにもいやしない。
ずっとそうだ。これからも、ずっと。
ノヴは半日の仕事を終えたあと、昔から世話になっている保税倉庫に向かった。
輸出入貨物の貨物の保管を行っている場所だと聞いたが、彼にはさっぱり意味がわからなった。
表通りに面しているため、人通りはそれなりにある。
臭いのせいか、見苦しいせいか、まともな感性をしている人間はノヴを見ると顔をそらした。
彼が倉庫に向かう理由は仕事をせびるためでもあったが、恩人に近況報告する意味合いも兼ねている。
弟の流行り病のこともあり、しばらく顔を出さないと死亡したと見なされる恐れがあった。
「よう。来たかノヴ」
ノヴが倉庫に入ろうとした直前、入口の脇で煙草を吸っていた白髪の男性が彼に声をかけた。
リジッド・ボナフィード、齢50近いこの倉庫の責任者である。
「どうも。これから入れる仕事、何かない?」
「仕事はない、が......大事な話がある、ちょっと店に来い」
「? なんだよ、大事な話って」
「いいから来い。お前と弟の今後に関係する話だ」
仕事がなければさっさと帰るつもりでいたが、2人の今後の話と言われればどうしても興味は湧いてしまう。
ノヴはリジッドに連れられ倉庫の従業員室に向かった。
途中、すれ違う従業員は彼を見て顔をしかめた。
どうしてこんなやつを中に入れたんだと言わんばかりだった。
リジッドは頑固者で短気という欠点はあるが、誠実かつ善人だと思っている。
苦手だと言う人もいるしその気持ちもわかるが、少なくとも俺には嫌いになれない。
この人が手を焼いてくれなかったなら、俺とエドは生きてはこれなかっただろう。
「そこに座れ」
「わかった」
やたらと硬い椅子に座り、簡素な机を挟んでリジッドと向き合う。
「エドの具合はどうだ?」
「変わらない。どうすりゃ良くなるんだ?」
「...肺病はどうしようもない。体に良い物食べて沢山寝な」
「それができれば苦労しないんだけどな」
栄養がある食べ物は軒並み高い。
欲しがる人間が沢山いるのだから、当然値上がっている。
「それで、何の話なんだ?」
「はぁ......お前達がこの町に来てから何年たった?」
さすがに人の顔を見ながら溜息をつくのは失礼じゃないか。
「さあ、どれくらいだったかな。10年は経ったと思うけど」
「そうか......うーん...」
リジッドは腕を組み唸ってみせた。
何かを悩んでいるように見える。
「...............」
「...なんだよ」
誰かに真っ直ぐ見られるのは慣れていない。
何かやらかした時にエドに怒られる時くらいだ。
「お前、フロンティアって聞いたことあるか?」
「俺の質問には答えてくれないのに聞いてばっかりだな」
「いいから、知っているか答えろ」
「フロンティアって言うと、あれだろ......行けば大金を稼げる開発都市、だっけ」
フロンティアに行って大金を稼いできた、なんてのはよく聞く話だ。
大昔のお宝が眠っているだとか、希少な金属が取れるだとか、誰も見たことのない生き物がいるだとか、そういった話には事欠かない。
『俺はフロンティアで〇〇をしていた』なんてホラを吹く人間は、酒場に行けばいくらでも見ることができる。
「まあ、そうだな。あそこにいけばいくらでも稼げる、という話は一部だけを切り取れば事実ではある」
「一部だけ?」
「誰もやりたがらないような危険な職業があってな、その仕事を続けられれば稼げるらしい」
「ふぅん。詳しいんだな」
「昔フロンティアにいた知り合いが......いや、違う。重要なのはそこじゃない」
リジッドは頭を振ると、ことさら真剣な表情で俺を見た。
「そこには肺病を治せる特攻薬が販売されているらしい」
「.........はあ?」
この爺さん、ついにボケてしまったのか。
「肺病はどうしようもない、って言ったのはアンタだぞ。そんな物があるわけないだろ」
「俺も話に聞いただけで本当に『在る』かはわからない。だがフロンティアには可能性があるんだ」
これが初対面の相手なら、ふざけた話をしやがってと殴りかかっていた。
こちらの事情を知っているのだから猶更だ。
「.........で、それが何なんだよ。特攻薬を探して買ってこいって言いたいのか?」
フロンティアには厳しい入出制限があるため、許可がなければ入ることも出ることもできないと聞いたことがある。
ひと昔前ならともかく、大金を稼げるなんて噂が広まった後はなおさらだ。
リジッドの言葉を信じるのであれば、確かに希望がある。
肺病を治せる。その可能性が僅かでもあるなら話に乗るべきだ。
だけどそんな妄想話はこの世の中にいくらでも転がっていて、ほぼ全てのが実在しないものだ。
母親は俺とエドを貨物列車に押し込んだとき「必ず迎えに行く」と言った。
だけど、それは嘘だった。
今の今までその約束は守られていない。
もう諦めた。
期待させるだけさせて裏切られるのは、もう沢山だ。
「ああ、そうだ。探してこい」
だがリジッドは本気だった。
「お前に何としても弟を助けたいという覚悟があるなら」
それでも希望を持てと、俺に呪いをかけた。
「フロンティアに行ってこい」
初投稿になります。よろしくお願いいたします。
とんでもなく書くのが遅いので、申し訳ないですが更新頻度については全く期待しないでください。