メギドの箱
祭殿内の掃除を終えたマチは、足を崩して放心していた。
いつの間にか、長い時間が経ったような気がしている。
瞑想を終えた彼女とルイは、祭殿裏に雑草を除去して作った修練場と呼ばれるただっ広い空間で、それぞれの神霊の「力の発現」をしたのだ。
(はー、疲れた)
終わってみればあっという間だったと感じるが、それでも始まる前はやる気がなくて動きたくないので、マチの心の中では結局面倒だという結論に至る。
そんなことを考えつつもマチがぼーっとしていると、ふいに気配を感じた。
顔をあげると、ロンが前に立っていた。
「マチよ、そろそろ帰るぞ」
娘は大の字になって背伸びをした。
「父さんか。あれ、ナナとルイは?」
「お前がぼーっとしている間に二人はとっくに帰ったぞ。またお前が最後だ」
「そーなんだ。やばたんだー、あたしもう寝ちゃいそう。疲れちゃったよ」
差し込む日の光が赤くなっているとマチは気がついた。鳥も大群で泣いている。
「あぁ。お疲れだったな、今日もよくやった」
ロンは娘を優しい声で労った。
欠伸をしながら首を鳴らす彼も眠そうな顔をしている。
「父さんも眠たそうだね」
「眠たそうというか、もはや少し寝てしまったよ。俺も疲れているんだろうな」
「大変だねぇ。父さんは今の族長達の中で一人だけ降ろし手に選ばれた経験があるから、修練を見てくれてるんだもんね」
「そうだぞ。修練をつけてやる他にも、今年の収穫祭の打ち合わせやらやることが――」
マチとの会話の途中だった。
「むぅッ!?」
ロンは総毛立つまでの恐ろしい気配を突然に感じた。
ハッとして祭殿内を落ち着きなく見渡した彼の視界には、奥の祭壇――円形に近い石台の上に置かれた、金色の装飾がなされた小さな箱が映った。
(まさか……。しかし長いこと祭殿に出入りしているが、あのような気配は――)
ロンは険しい顔つきで腕を組んだ。
「どったの父さん」
マチは立ち上がり、冷や汗を流しながら祭殿奥を睨む父親を怪訝そうに見た。
「い、いや。何でもない、気のせいだ」
「気のせいって……。奥がどうかしたの?」
父の視線の先には邪神が封印されていると言われるかの箱があり、その後ろにはタコイの民が崇める三人の神霊を模した茎人形が聳え立っている。
里を囲む森に生えている植物の茎を乾燥させたもの加工してで制作されたソレは、大柄な男性よりも大きく、箱を見下ろすように立ち並んでいる。
その下の石台にはゴリンの実や木の実等、供物が捧げられていた。
「メギドの箱が、どうかした?」
マチは父が、かの箱に畏怖していたのではないかと察した。
「いやぁ、箱から嫌な気配がしたんだがな。けど勘違いだったよ。アレはお前達に宿った神霊様方が力を抑えてくださってるものな」
無理に笑うロン。
マチは眉をひそめた。自身もあの箱をあまり見ていたくない。
何故と言われれば、邪神が入っている危ない箱だからというしかないが、確かに触れてはいけない何かが入っていると本能的に感じ取れた。
「メギドの箱、か。確かに気味が悪い箱だよねぇ」
見つめていると禍々しさが漏れ出して、大きな黒い手の形になって自分を握りつぶしてしまうのではないかという、そんな悪夢に駆られる。
(うぅ、相変わらず見てるだけで具合が悪くなる嫌な箱だ)
マチは生唾を飲み込み、怯えの色を視線に宿した。
急に寒気を覚えたように身を震わせる。平静になったロンはマチの異変を感じ取り、守るように片手で抱き寄せる。
「マチ、アレに何が封印されてるかお前はわかっとるだろ」
「流石に知ってるって、邪神でしょ。大昔、楽園タコイに住んでいた人間を誑かして強大な力を与えて厄災をもたらした迷惑な奴。それで楽園を逃げた人と残って天に祈りを捧げた人に分かれたけど、邪神をみかねた神様の内三人が、祈ってくれた人達と一緒に邪神と手先に堕ちた人間を倒して邪神をその金ぴか箱に封印したっていうお話だったよね」
父に触れられたことで多少安心したマチが精一杯強がった口調で、耳を塞ぎたくなる程聞いた話を返した。
ロンは「うむ」と頷いて古代神話を語りだした。
「そうだ。邪神との壮絶な戦いに勝利したが、三人の神は死の淵まで追い込まれたため自ら神霊となった。そして共に戦うため残った勇敢な人間達から三名を選び、魂を憑依させその力を繋ぎ行使出来るための神器を授けたのだ」
「で、封印の鍵となる言葉――真言を教えて、メギドの箱が悪しき者の手に渡らないよう神器を使って人間に守護するよう命じた、でしょ」
神話の続きを補足したマチは、神器である自身の虹色連珠を握りしめる。
何故だかわからないが、触れた途端に冷静な心を取り戻した。
次いで邪悪な気配がする箱に対して、負けないという意思表示の鋭く燃えるような視線で刺した。普段は神霊の降ろし手に選ばれた運命を嫌だと嘆いていたが、この時ばかりは感謝を覚える。
「流石にそれくらいはわかっているか」
ロンは娘を支える腕を離した。
心の強度を取り戻し頼もしく見えた彼女に、心配は不要だと安心したからだ。
「だって、うんざりするくらい聞いたもんね」
肩をすくめるマチ。ロンは咳ばらいをして続ける。
「とにかくだ。我々タコイの民は神々から選ばれ、世界の平和を守る重大な任を先祖代々受け継いでいくのだ。その引換えにタコイの里にしか生えていないと言われる、ゴリンの実を食べることも許されとるのだぞ」
「ようするに、ご褒美ってことでしょ」
父の話を聞いて、マチは供物にされている赤い果実に視線を移した。
外から来た人間に聞いたことがある。ゴリンの実は外の世界で見た経験食べた経験がないと。
「それはまぁやくとく、ってうやつだけどさぁ」
マチはタコイの里が楽園なのだと改めて実感する。
甘く美味しいゴリンの実を世界中でタコイの里の者だけが、独占的に食べることが出来るとは、まさに特権だ。
「マチよ、よく聞きなさい」
ロンがマチの小さな双肩に両手を当てて、目をしっかり見合わせた。話はこれで終わらないようだ。
(やばたん。父さんの話、まーた長くなるなこりゃ)
マチは苦笑いをしつつも、父親に叱られるのは嫌なので、我慢して話を聞くかとしぶしぶ耳を傾ける。
「お前だけでなく、歴代の降ろし手にも攻めてこない敵を想定してどうすると言っていた者は少なくなかった……。俺は違うがな」
「ふーん、父さんはずっと真面目に降ろし手を続けてたんだ」
疑いの目を向けられるものの、ロンは冷や汗を若干かきながらも真顔を崩さない。
「当たり前だ。マチよ、森の外、いわば楽園から逃げ出した人間の子孫である外世界の者達にも、タコイの歴史は古代に起こった真実だと知れ渡っとる。だからこそ、邪な心を持つ者がいつメギドが箱の中から放つ悪しき気へ惹かれてくるかわからん。神霊に選ばれた者だという自覚を持ち、警戒を怠るな」
「でも今までここに辿り着いて定着した人は、ポンさんみたいにいい人ばかりだったじゃん。メギドの箱だってあたしら三人の内誰かが真言を言わなければ開かないし」
伏し目がちに反論するマチ。
邪神の箱が開くまでは至らないと強く思っていた。
ロンは鼻息を荒くして、マチが納得させようと説き伏せる。
「確かに彼のように良き者ばかりが里に流れ着いたのは幸いだった。外世界に帰った者にも悪い者はいなかったが、それらは代々族長が人間の判断をしているのと運が良かっただけ、警戒し続けない理由にはならん。箱もそうだ、外世界にも異能を使う者がいるが、そんな奴らがよからぬ企みを持ってくるかもしれんのだぞ」
「異能? ポンさんとか外の人が言ってた、あたし達みたいな力を使う人がいるって言ってたやつ?」
「そうだ。動物に変化したり体の一部を武器にする者等様々だがな。中には人の異能を奪う者や心を欺く者、神々の力さえ無効化する者もいるらしい。だから油断大敵なのだ」
マチも話に聞いたことはあった。
自分達のような摩訶不思議な力を持った者達が、外世界にはいると。
「これは我々の使命だ。他の年頃の娘がしない修練をする運命にあるのは疲れるだろうし、俺としても心苦しいがな、神霊様のご意志なのだからどうすることもできんのだ。わかってくれるか、マチ」
優しく諭すようにロンが付け加えた。
箱の守護者に選ばれたマチの不満を、過去に降ろし手だった彼も痛い程理解していた。
(娘達にもルイちゃんにも苦労をかける。だが、俺もそうしてきたように修練を耐える、それだけでいい。それだけでいいんだ)
部族長の一人として里を取り仕切りながら、修練をこなして生きてきた。
そして歳を取るにつれて神霊と同調する感覚が鈍くなったため降ろし手を引退しようと、自身に宿った神霊の意志に委ねて、啓示を受けた。
そして、里の若者の中から選ばれた実の娘マチが担い手となったのだ。
ルイとナナに神霊を継承した者達も、ロンと同様の理由で引退している。
「はーい。父さんにそこまで言われたら、引き継いだお役目をはたせるよう頑張るって」
マチは素直に頷いた。
普段は厳格な父に申し訳なさそうな表情を向けられると、何も言えなくなってしまう。
「いい子だ、神から授かった運命に背くことなく頑張れ」
言ってマチの頭を撫でるロン。
しかし彼も本当は、マチの意見に思うところがあった。
(立場上は言いつけなければならないが、俺もマチの言い分はわかる。今に至るまで邪神復活を試みる目的で危険を犯し、森を越えてくる者はいなかった。外世界では我らの森は聖域扱いであるしな)
外世界の者達には、里を囲う森は神の領域だと畏敬の念を持つ者も少なくはない。
普段は厳しくマチを律するロンも偶然訪れる外の者達に対し、深い部分で油断していた。
「よし、話は終わりだ。では今度こそ帰るぞ、マチ」
「ほーい」
教戒終了。二人は祭殿を後にする。
外は太陽が沈みかけており、一日の作業を終えた里の者達も、帰路に着こうとぞろぞろ歩いていた。
自宅があるロサキ地区に入る二人。マチはロンの随分先にいた。両手を上げて鳥のマネをしながら小走りしている。彼女を見て、すれ違う子供が笑った。
ロンは若い夫婦と子とすれ違った際、亡き妻との日々をふいに思い出す。
(レン。お前が生きてれば俺とお前とマチ、ナナと四人で歩くこともできたろうなぁ)
羨ましいと羨ましいという感情が素直に芽生えた。
心の奥に閉じ込めていた悲しみが少しだけ溢れそうになるが、
(星々のどこかで見守っていてくれ。俺の魂もあと幾年かで星に還る。その時を迎えるまでには、俺達の娘を一人前に育ててみせるからな)
押し込めて顔を上げた。瞳に宿りそうだった悲哀の色は消えている。
タコイの里は三神の加護を受ける聖なる地。恵まれた天候にゴリンの実等、様々な恩恵を享受する代償として、里で生まれてから中年期の終わりに至るまで生きてこれた者は、身体の状態に関係なく魂と肉体がゆっくりと消失していくのだ。そして亡くなった者達は天上の星々となり、神々に祝福されるという死生観を持っている。ロン含め里の者達は、死は怖い思いをするばかりではなく、先に星々となった各々の大切な人と再会できる喜びもあるのだと知っていた。だからロンは哀傷をすでに克服している。
二人は歩き続け、住まいがあるクイシ地区に入った。
「あっお家だ。ごっはんご飯」
自身の家が見えて気分が高揚したマチは駆け出した。里の民の住居様式である、堀立柱の木造住居だ。
「やっと帰ってきた! おっそいよ、お姉もお父も。早く皆でご飯食べようよ!」
頬を膨らませたナナが家から出てきて、二人を呼んでいる。
マチは「ごめーん怒らないでー」と言いつつも、妹を抱きしめようと正面から飛び跳ねたがひらりとかわされる。
ロンは手を振って「すまーん!」と大声で返した後、仲の良い娘達を暖かい眼差しで眺めた。