再悪 後編
彼の背後から、可愛らしい子供のような声がしたのだ。
「うぉ!?」
予想していなかった方向からの声にビクッと驚いたブラボがすぐさま振り向くと、祭壇の上に小さな子供程のサイズの、全身灰色の小さなナニカがいた。
ソレは四肢の先に丸く指のない触手が生えており、胴体は丸い。頭部も丸く円らな黒点の瞳を持ち、鼻の位置には何も生えておらず口部分には鳥の嘴のような形状の突起があり、その色は漆黒である。
長きに渡る封印から解き放たれて、邪神メギドは現世に降臨したのだ。
「あれが邪神、なのか。普通に人の言葉を喋ったような……」
ぽつりと呟いたレノンは、邪神の姿に衝撃を受けて目を丸くした。
「顔が鳥みたいで人の形に似てて小さい、けど……」
マチは初見の印象を口に出した後、表情を険しくさせた。
「邪悪な神には見えませんが、禍々しい圧力は感じますよ」
ルイも同様に厳しい表情で邪神を眺める。
人形のような丸々とした形状だ。凶悪な姿を想像していた一行は一瞬拍子抜けしたものの、次の瞬間に感じ取ったオーラは、寒気がするまでに邪悪で強烈だった。
「はー、久しぶりのシャバだ。とっても空気がうまいぜい」
邪神は腹を突き出して大げさに深呼吸をしている。
ブラボは恐れることなく邪神に接近し、
「邪神よ、感謝しろ。俺がお前を封印から解き放ってやった恩人だ!」
自身が恩人であると強調した言葉をかけた。
邪神は幾年振りに意思疎通を測ってきた人間、ブラボを見ながら軽い調子で礼を言う。
「へーそうなんだ、ありがと」
ブラボは満面の笑みで本題に入る。
「さっそくだが見返りがほしい。遥か昔のように、人間の俺にお前の力を寄こせ!」
「は? いきなり何なの。そんなん嫌に決まってるしょ」
しかし邪神メギドは、あからさまに不快感を露わにして拒否した。
「何!」
想定外の返答を受けて、ブラボは思わず仰け反った。
邪神メギドは祭壇上でゆらゆらと歩きながら召喚した恩人に近づくと、可愛らしい声から反転ドスの効いた声で威圧するように言った。
「箱の中からずーっと聴いてた。僕ティンの力で僕ティンを滅ぼすって? ナマイキだぞ下等な人間如きが。ナンガの血を引いてるだけで、よくそこまで思い上がれたもんだよ」
「……!?」
猛禽に睨まれた蛇の如く、ブラボは固まった。
豹変。離れた位置で慎重に様子を伺っていた一行も、邪神から発せられた本領の片鱗を受けて、後退りしてしまう程に怯んだ。
「人間に力をまるっと貸して遊んで余裕ぶっこいてたから封印されるハメになったんだ。だからもう力は貸してやらない。油断しないで徹底的にこの世界を潰すって決めたのさ」
瞳を閉じたメギドは腕を組むように触手を交差させ、しみじみと言った。
次いで円らな瞳を斜めに鋭く傾かせ、歯をガチガチとならして怯えるブラボを睨む。
「だけどちっちゃい俺単体じゃ、まーだ力不足なのもネックなんだよなぁ。そこでお願いなんだけどうぬのナンガの異能をさ、身体ごと俺にくれないかなーって」
「なんだと!?」
困った表情をしたメギドがブラボへ理不尽な要求をした後、みるみるうちに縮小していき、最終的には人間の拳よりも小さくなったのだ。
人間達全員は愕然としたまま、その様子を眺めていた。
「あれ、びっくりした? 俺の力の一つだよ。そんじゃ、恩人に感謝して頂くよん」
小人になった邪神は祭壇上で助走をつけると、ブラボの口内目掛けて飛び上がった。
「――ッ!? はがッ」
一気に跳躍した邪神は勢いそのままにブラボの顔面にひっつき、有無を言わせず唇をこじ開けて侵入していこうとする。
衝撃的光景に一行の顔が一様に引きつった。
「ぐが、ぐががッ」
だがブラボは言いなりにならず、口の中に手を伸ばしてメギドを掴み、追い払おうと必死に抵抗している。呆気にとられていた一行の視界に、ブラボの近くで未だ立ち尽くしているナナの姿が映った。
(ナナだけは助けないと!)
三人の頭の中へ同時にその想いが浮かんだ。
ブラボはメギドの相手をしているため、一行の様子を気にしている余裕はない。
仕掛けるなら今――
「なんだかわからないが今のうちに、マチの妹だけでもこっちに!」
まずレノンが動いた。
「レノンッ!」「レノンさんッ」
マチとルイがハッとして叫ぶ。
全速力でナナの元へ駆け寄ったレノン。彼女を抱きかかえた刹那。
「はぎゃぁあおッ」
奇声をあげたブラボがレノンへ突如接近し、ナナを持った彼の腰を蹴り上げたのだ。
「ぐえッ!?」
不意の攻撃に反応できず吹き飛ばされる。
このままでは床に激突してしまう。
「レノンさん!」
だが二人ごとルイが器用に受け止めた。彼女の首元の連珠はすでに光り輝いている。
「大丈夫ですか!」
「レノンッ!」
ルイとマチがレノンへ必死に呼びかける。
「くぅ……」
突然の攻撃からナナを掴み守りきったレノンは、苦悶の表情を浮かべている。
彼の腰は青く腫れ上がっており、衝撃の強さを物語っている。
マチはフラフラと酔っているような様子のブラボを訝しげに見た。
(人の時のブラボはあんなやばたんな力を持っていないはず。だとしたら、あの力は)
大蛇になったブラボならまだしも、痩躯の彼がルイのような蹴力を持つはずがない。
おそらくブラボはレノンに襲いかかった時点で、身体に何らかの変化が起きた後だったとマチは推察する。
邪神メギドは言葉通りブラボの口内へ入り込んだ。そしてデタラメな異能で身体に乗り移り、限界以上の身体能力を引き出したのだとも。
忙しなく揺れていたブラボだったものは静止し、人間達を睨みつけた。
充血し見開いた瞳はもはや、ブラボのものではなかった。
「よっと、乗っ取り完了。ナンガの血が流れてる人間が箱を開けようと奔走してくれるなんて、やっぱ最後に勝つのは俺っしょ。今度こそ世界をぐっちゃぐちゃに出来るねん」
声色もメギドそのものに変化。
肩や首をポキポキと鳴らした邪神は、高揚感のあまりゾクゾクと打ち震える。
一方覚悟を決めた二人――マチはルイに目配せし、ルイはマチの意図を察し頷いた。
ブラボではなく最凶の存在との命をかけた激闘が始まる。その前に戦えない二人を安全な箇所へ移動させなければならない。ルイはレノンとナナを両肩へ担いだ。
ルガー神の武術だけでなく剛力をも降ろしている彼女は現在「力持ち」である。
辺りを見渡すルイの目に別室への扉が映った。
(あそこならどうでしょうか)
ルイは早々と駆けて行った。
ちなみに悪夢のような状況下でも、レノンの服の中の湖鼬は爆睡している。
「あれ?」
そしてマチは、ルイに担がれたナナの瞼が閉じている点に気がついた。
(ナナの目が! 邪神が身体を乗っ取ったからブラボの異能がなくなったのかな)
瞬きすらしなかった瞳が閉じたとなれば、操りの呪縛から解放された可能性がある。
涙腺が緩んだものの、マチは振り切って強大な敵と対峙した。
今は妹の状態変化へ喜ぶよりも先に、メギドとの闘いに集中しなければいけない。
ブラボ――もとい邪神メギドはマチと対峙し、指差して言った。
「おい! 忌々しいクソ腹立つ三神の魂を分けた人間共、いるんだろ。関係ない顔なんてできねーぞお前ら。箱の中から聴いてたって言ったろオイ。狭くて苦しいところに閉じ込められてる間、よくも楽しそうにアホ面下げて暮らしていたねぇ。クソムカつくったらありゃしゃない!」
恨み節を吐いたメギドは、もはや元のブラボの人相が変わるまでの憤怒の形相で、続けて宣言した。
「お前らはメギド様の脱出記念のご馳走にしてやる。お前らの死を皮切りにタコイの里を含めた世界の人間共を殺し喰いまくって、俺だけが楽しい悲鳴に満ち溢れた世界にしてやるよッ」
己の存在を誇示するかのようにばっと四肢を広げたメギドの身体から、白い閃光が発現した。
大蛇変化――。
「きたッ――!」
マチは相変わらずの眩しさに目を瞑りそうになるものの、両腕を翳しながら敵から目を背けない。
レノンとナナを神殿の物置部屋に置いた後、現場に戻ってきたルイも異形の存在に変わっていく眩い光へ、真っ向から立ち向かうように目を逸らさない。
二度目の対峙になるが、ナンガ神の血を引く肉体を奪い取った邪神の変化は、そのままのものには至らなかった。
「え――ッ! こ、こんな……」
「うわぁ。前よりも大きくなってるじゃないですか!?」
マチとルイは、本能的に恐怖を覚えて後ずさってしまった。
赤黒く不気味な鱗甲に覆われた巨体が、蜷局を巻く。ただでさえ規格外だった大蛇は、更に以前の倍程のサイズとなったのだ。
「さぁさぁさぁ覚悟しな。すーぱー殺戮ぶっ殺タイムの始まりだよーん」
メギドは人を軽く一飲み出来る口を開いて、処刑執行宣言を愉快そうに告げた。
大陸の命運を分ける闘いが今、幕を開ける。