いきなり安眠しっぱい
人間が幸福に暮らす楽園があった。
年間を通じて程よく暖かく雨も降る時は振り、冬は多少肌寒くなるものの雪は降らない。
この地にしか自生しない果樹を収獲する者や森に出て狩りや採集をする者、清らかな川で魚を獲る者。植物を加工し編み込み衣類を作る者や、日常道具を手入れする者もいる。
老若男女が平和に暮らし、好きな色の服を着ている。食べ物にも困らないため貧富の差も目立った争いもない。まさに神に愛された土地である。
事実、四方を森で囲まれそこそこ広いこの地――タコイの里には、遠い昔に神様から盟約を受けたタコイ族という民族が住んでいたのだ。
その盟約を今も守り続けているもののあまりにも時が経っているため、皆が何のためにどういう経緯でこの地へ住んでいるのか、そして人間の心には闇があることさえも忘れかけていた。
そんな平和に染まり切った里を展望できる不幸明媚な丘で、一人の少女が今日もだらけていた。
里特有の植物繊維で縫われた橙色の貫頭型の民族服を着た少女マチが、草っぱらで背伸びをしていた。
「気持ちいいーっ。今日も今日とて空が綺麗だなぁ。おかげで里もよーく見えるし、一日中いたくなっちゃうねぇ」
太陽の恵みを十分受けた小麦色の肌のマチは、曇りなき青空と自分が生きる世界を、やわらかな黒い瞳で眺めながら呟く。そよ風で揺れる草原の寝床を堪能していた。
「そういえば、今日は何か用事があった気がしたけどまぁいいや。ぽかぽか日和だしこのまま寝ちゃおうかな」
肩までかかる黒髪をいじくった後、森の獣の皮を加工され作られた皮靴を脱ぎ、ごろんと仰向けになったのだが――
「マチ! やっぱりここにいましたねっ」
「え? この声は……」
クリアな声に遮られた。
ばっと頭を上げると、丘を駆け上がってくる銀色の髪の小柄な少女が見えた。
マチの民族衣装とは色違いの水色を基調とした民族服を着ている。
「はぁはぁ、やっと着きました。マチ、すぐに起きなさい」
息も切れきれな彼女は腰まで伸びた艶やかな銀の髪をかきあげて呼吸を整えた後、呆れた様子で腰を手に当てて口を開いた。
「何で朝が過ぎたのにまだ寝てるんですか。今日は何の日が絶対わかってるでしょーに」
マチはばつの悪そうに視線を逸らした。
「や、やぁルイ。今日もすべすべお肌で一段と可愛いねぇ」
引きつった顔のマチが、ルイと呼んだ彼女の上品な顔立ちと色白な肌を称える言葉で、機嫌をとろうと試みるものの、
「そんな言葉で褒めても無駄ですよ、マチ。数えきれないほど交わされたこのやりとりに私は憤っています」
不機嫌そうに小さな口を尖らせた。喋り方も品がある言葉使いである。
そしてルイは瑠璃色の大きな瞳でタコイの里を見渡し、
「まっ、ここから見る里の景色が最高なのは同意ですけど」
と言いながらマチに手を貸して、起き上がらせた。
「でっしょー。あたし、大好きな里の景色を見てた後また寝ちゃいそうになって」
「里への愛は認めますけど寝すぎですあなたは。一日に何回寝るんです。とにかく今日は修練の日ですよ。あなたの父様にマチを探して祭殿まで呼ぶよう頼まれたんですから」
「そんなの知ってるって。面倒だしさぼっちゃおうって気分になってここに来たからね」
悪びれもなく喋りながら、全身に付いた細かい草をはらう。
相変わらず厳しい父親の命だろうと、マチは最初から把握していた。
ルイはジト目でぐうたら娘を見ながら、
「あなたという人は。私達は神霊様を降ろされた選ばれし者なんですよ。邪神の封印された箱を守護する使命を全うしないといけないんですからね」
聞き分けの悪い子供を諭すように話した。
「会って早々またその話!? やばたん、聞きたくないよ~」
マチは彼女にとって聞き飽きた重い話に、うんざりしたように鼻を鳴らした。
二人がつけている首飾りが太陽に照らされてそれぞれ光る。
均一化された小さな玉が多数連なるように繋げられたものだ。それはかつて世界に降りた神々が姿を変え人間達に力を預けて、使命を遂行させる約定となるものでもあった。
「聞きなさいマチ。これは私が武神レガー様の神霊から相棒と認められた証です。私が選ばれて、父さんも母さんも光栄の極みで誇らしいと褒めてくれたんですよ」
ルイは自身の赤色の連珠を嬉しそうに眺めるが、マチは対照的に自身の虹色連珠をまるで枷でもつけているかのように、不満そうに眺めた。
「あたしは炎を司るエレナ神様ねぇ、選ばれたくなかったけど。適当に決められたとしか思えないよ。前任の父さんだって自分がどういう基準で選ばれたかわかってないし」
「神霊様は残留している意識に同調出来る、一番相性のいい人を選定されたんです。神様に選ばれた誇りを持ちましょう」
「神霊の継承者になって大分経つけど、今のところ運が悪かったとしか思えない。無駄な修練もやらされるし。ホントあたしを選んだワケを今すぐ教えてほしいよ」
言いながらマチは周囲を訝しげに見渡すも、「神霊の力」を行使してない現在は「神霊の意識」を探り感じることはできない。
「だいたい、邪神の封印なんて誰が解きに来るのさ」
ふいに問われたルイは、しどろもどろになった。
「それは! その、外世界の悪い心を持った人達が来るかもしれないじゃないですか」
「森の外から迷い込んで来た人達は今まで何人もいたけど、誰も里の民を脅迫して封印を解く悪人なんていなかったそうじゃん。ここに居ついて平和に暮らしてるのが大半だよ」
マチは里の外を囲むタコイの森を流し見ながら言った。
世界はこの楽園だけではないことを、里の者は知っている。森とそこに住む凶暴な獣が、外界からタコイの里を遮断してしまっていることも。
「確かに、そうですけどぉ」
ルイは上手く返せず縮こまった、マチは彼女の肩をぽんぽんと叩き、
「まっ、とりあえずあたしはこれからも適当にやらせてもらうよん」
しぶしぶ歩き出した。
自身へ課せられた壮大な使命への想いは薄い。
そして、
「あたしはルイや妹みたいにやる気が湧かないからさ。それでも二人のことは真面目で凄いなーとは思ってるよ」
同じ命運を背負った親友や、自身の妹への尊敬の想いを素直に吐露した。
マチに心から同感だとルイは深く頷いた。
「妹さんは誰かさんと違って優秀ですよね。修練の時は誰より先に祭殿へ着いてますし、そのやる気を誰かさんに分けてあげてほしいものです」
ルイは肩をすくめてしみじみと言ったが本人の心には響いておらず、笑って流される。
「あはは。ところでルイ、あたしから一つ提案があるんだけども、聞いてくれない?」
「なんですか」
「あたしが先に祭殿へ着いたら……。祭殿の掃除当番を変わって頂戴!」
言ってマチは、隼のような瞬発力で丘を駆け下りた。
ぐうたら娘の悪いクセが発動。勝手なことを言っていきなり走り出した彼女へ対し、
「はい?」
ルイはぽかんとした顔で、数瞬程唖然とするしかなかったものの、
「って、そんなこと許されるワケないでしょっ。マチ、掃除をするのはあなたです!」
やがて言葉の意味を理解し、遅れて駆け出したのだった。
タコイの里は今日も平和である。