月と太陽
丸い月が映える真夜中。鬱蒼と茂る森の中を少女が必死の形相で駆けている。
肩までかかる黒髪を振り乱した少女が履いている皮靴は泥まみれ、小麦色の肌も汗まみれ。
腕や足に傷があり血で滲んでいた。
身に纏った橙色の貫頭衣も枝木で傷つき破れている。
月光と足元を照らす発光植物の明かりを頼りに走る。蔦や伸びた蔓が時々少女の両足を絡み取ろうとするが、彼女はその都度本能的に反応して転倒を回避した。
倒れることは死を意味すると、五体が理解しているからだ。
「――ッ」
極限の緊張と疲労で息切れをして倒れそうだが、堪える。
狂暴な生物が数体、彼女を追いかけまわしていたのだ。
ずらりと生えた長い牙と太く鋭い爪を持った、突き出た頭部から尻尾まで灰色の毛に包まれた四足獣である。
少女の倍の体躯を持つソレはけたましい咆哮で威圧するも、彼女は怯えを押し込め振り返らずに快足をとばして走り続ける。
(どうしてっ。どうしてどうしてこんなことに!)
しかし涙を抑えきれない。彼女は好き好んで死の森を疾走しているわけではない。
家族、友人、隣人、自身を取り巻く全ての世界が、邪悪な心を持ったある者達によって引き裂かれてしまったからだ。愛する者を救うため絶望の淵から脱したのだ。
(もういい加減しつこいよ!)
首につけた虹色の連珠が白く輝きだし、続けて少女自身も白い光を帯びる。
右手を後方から迫る獣に翳した。掌の先が小さく爆ぜる。
赤く細長い瞳で自身を捉える獣へ、反撃する手段を身に宿していた。
(これでもくらえ――ッ)
その異能で追い払おうとするも――
(あッ、そうだったダメだ! あいつに気がつかれるッ)
行使する前に慌てて止めた。
上空。針葉木の上を旋回する異形の怪物が吠声を轟かせていた。
怪物の上には人間が乗っていた。手綱を握り操っているのだ。
少女の故郷を滅茶苦茶にした者の一人だ。明らかに空の下の少女を探していた。
空と陸、二方からの脅威が迫る。だが、ここで見つかるわけにはいかない。
少女は翳した右手をおろし、残る力を振り絞って両足の回転を上げた。
(ルイ、絶対後で必ず生きて会うから頑張れッ)
広大で危険な森で別れてしまった親友と合流し、
(ナナ、どうか無事で)
故郷を襲撃してきた元凶に攫われた妹を助け、
(それと箱を、メギドの箱も必ず取り戻さないと)
自らに課せられた使命を果たなければと、決意を胸にし、
(父さん、里の皆、待っててね。絶対三人で生きて帰ってくるから)
残された者達に心の中で誓いを立てた。
追ってきた獣らは諦めたのか、徐々に四足の回転を落とした後に各々のテリトリーへ引き返していく。空から少女を捜していた怪物と乗り手もすでに見えなくなっている。
やがて密集した大樹の群れが切れて外の光が見えた。
もはや月光が地平線の彼方へ溶けて、蒼穹に輝く太陽が現れる。
森が終わる。少女にとって初めて触れる世界だった。思わず手を伸ばしたが、木々の間に張られた蜘蛛の巣にかかった。
これから待ち受けるは、見知らぬ世界での苦難の連続だろう。
それでも少女は、彼女にとっての異世界へと勢い任せに飛び出した。