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好きな作品を語る

好きな作品を語る④ バタイユ「青空」

 私の持っている本では、バタイユ「空の青み」となっているのだが、他の訳では「青空」となっている。「青空」の方が歯切れが良いし、いい訳だと思うので「青空」の方を採用させてもらった。


 私はバタイユの「青空」という小説が好きだ。この作品にはバタイユの哲学が明確に埋め込まれているが、私は昔にこの本を読んだ時、どこか爽やかな印象を受けた。


 「青空」の主人公はろくでもない人間である。バタイユ本人を思わせる人物で、私小説風に作られていると言ってもいい。主人公は女とセックスしたり、しなかったり、吐いたり、やたらめそめそ泣いたりする。なんというか、内臓的な小説とでも言うもので、どろどろとした粘液、精液、血液、胃液というものがうごめいているような、そんな小説だ。


 この雰囲気はもちろん、バタイユ本人のもので、彼のサドへの愛好ともつながっている。私は本来、こうした、意図してグロテスクな方向に行く作家というのは好きではない。こうしたタイプの作家は往々にして、ただの嗜好、変態性を重要な意味のあるものだと勘違いしてしまう。奇態なファンがついたりして、その傾向は悪化する。


 バタイユは、人間の中の醜いものを愛した人間だったが、私はバタイユが嫌いになった事は一度もなく、むしろある信頼を置いてきた。


 私の感覚を裏打ちするような感じで、作中では、シモーヌ・ヴェイユがモデルのラザールという人物が出てくる。シモーヌ・ヴェイユは、現代の聖女とでもいった人で、自分の罪を感じてほとんど自死に近い死に方をした人だ。


 バタイユが真っ暗なイメージ、悪、醜といった黒い哲学者だとすると、ヴェイユは自らの罪に耐えられずに死んだ聖女、即ち、白を基調とする哲学者だと言っていいだろう。しかし、表と裏は奇妙に通い合うものがあって、二人の相貌はどこか似ている。


 作中では、主人公は、ラザールという人物を嫌悪していながらも、奇妙にこの人物に惹かれている。主人公はラザールに苛立つ。というのは、いつでもラザールは聖女であり、人間的な醜さ、愚かさをこそげ落としたような生き方をしているからだ。主人公は苛立ち、わざとラザールが嫌悪を催すような事を言う。


 作中で、ラザールの手の爪がひどく汚れていると描写する場面がある。それに比べると、主人公の爪はよく手入れされており、綺麗だ。ここで主人公が、ラザールに対して優越している、バタイユは読者にそう示そうとしているーーそうみなすようなら読解力がないと言わざるを得ないだろう。二人は白と黒のように互いに向かい合っているが、それぞれに同じものに吸引されている、その姿が、爪の垢のような些細なものを使って描写されている。


 バタイユはラザールに奇妙に惹かれているが、かといって二人の関係はどうにもならない。互いに憎しみあいながらも、どこか互いを認めているという不思議な関係が作品内には浮かんでいる。


 ※

 「青空」という小説は、主人公の女との関わりが主な筋となっている。主人公は愛している女とはセックスができず、愛していない女とはセックスができる、というような事をわざわざ告白したりする。


 作品のクライマックスは、女と主人公が、墓地でセックスをする描写で、これは明確にバタイユの哲学を示している。性と死が交差するある瞬間、その光、熱、そうしたものをバタイユは追い求めていた。端的に言えば、そこに神を見ようとしたのだろう。


 バタイユは裏返った形で聖なるものを求めていた。その雰囲気が作品全体には横溢している。バタイユは、日本の私小説作家のように、自らの醜さを全てさらけ出そうとしていた。醜さを全てさらけ出したいという願望は、聖なるもの、美しいものへの憧れを裏から語るものである。理想に対した時、自らが醜く見えるからこそ、かえってその醜さの中に突入せざるを得ない、バタイユのそうした心性が作品には溢れている。


 私は以前、「青空」を読んだ時、どこか爽やかな印象を受けたと言った。それは、バタイユが自分の全てを語り切りたいと願ったその心性が、どこか爽やかな微風のように感じたからだった。


 それとは全く真逆の印象を受けた小説がある。川上弘美の「センセイの鞄」だ。川上の小説は、彼女が思うような「綺麗なもの」で作品を作り上げようとするが為に、醜い部分、嫌な部分を隠してしまった。


 私は「センセイの鞄」を読んで、人工的に作り上げられた半端な美的構築物を見たように感じたし、それ以上に、彼女が現実の、また自分自身の醜さを隠そうとする作家的手付きが「醜い」と感じた。


 無論、露悪に走れば即、素晴らしいというわけではない。ただ、私の中では川上の作品とバタイユの作品は真逆なものに思える。小説というのは「小さな説」と書く。小説はいずれ、卑小な人間について書く芸術だが、それを書くのは、実際には卑小ではない何ものかを想定する故なのだ。


 作家は、書かれていないものと連動しながら何かを表現しようとする。バタイユとシモーヌ・ヴェイユのような、黒と白の哲学者は互いに似通った存在だったが、人間を超える何か大きなものを全く感知しない川上弘美のような作家はバタイユともヴェーユとも似ていない。それでも、表面的に綺麗なものがいいと思う人は、「センセイの鞄」のような小説の方を好ましいと感じる事だろう。


 

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