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 道端で暮らす浮浪者や、俯いて顔を隠している怪しげな男たちが、メネスとシールをジロジロ睨んでいた。

 劣悪な環境であるエリア五では、満足いく食事も得られず、病気になっても薬がない。

 ここでは、欲しいものがあれば、奪うのが常だ。

 メネスはそいつらへ向けて、赤い瞳で睨み返す。ヒッ、と、路地裏に逃げていく連中を見ていると、頭をポン、と叩かれた。


「メネスさん、あまり怖がらせないでください」


 身元が割れないよう、フードを被り、マスクをしたシールがメネスを叱った。


「悪い。だけどちょっとは脅かさないと、襲ってくるだろ」

「世の中、そんな悪い人ばかりではありませんよ」

「半年もここで過ごして、まだ言うか」


 エリア五は、それだけ危険なのだ。ラリッた薬物中毒者や物乞いが、いつ刃物を手に襲ってくるのかわからない。

 メネスはそう心配するのだが、いつもシールは笑って言うのだ。


「いざという時は、メネスさんが守ってくれますから」


 こう言われてしまうと、メネスはなにも言えなくなる。


 シールと出会ってから、もう半年になる。最初はシールから、もっと血を奪うため一緒にいた。だが、シールの誰にでも優しく接する性格と、夢に対するひたむきさから、だんだんとメネスの考えは改まった。


それまでの自分のことしか考えなかったことを恥じ、同時に救ってくれたシールへ恩を返したいと思うようになった。


 だから、シールの夢――エリア五に病院を造るという考えに賛同し、助けるようになっていた。今ではすっかり体調も回復し、吸血鬼として、シールのボディガードから荷物持ちまで引き受けている。


 金ならシールが呆れるほど持っていたので、病院の建築自体は、もう終わっている。シールは悩んでいたが、医薬品も裏ルートで仕入れている。その他、病院として必要になる物は、ほとんど揃っていた。


「手と手を繋ぐ病院か」


 メネスが、つい先日造られた看板を目にしてそう言う。

 こんなところに病院を建てるとは。半年前から、よく考え直せと言ったものだ。

 誰かが物資を盗んでいくかもしれない。金を奪いに来るかもしれない。


 とにかく、懸念材料はたくさんあった。

 まさかそれらを跳ねのけ、実現するとは思ってもみなかった。

 ようやく看板も完成した病院は、お世辞にも綺麗とは言えない。しかし、シールは満足げだ。


「そういえば聞いてなかったな。手と手を繋ぐっていうのはどういう意味なんだ」


 完成したので聞くと、シールは微笑んで、両手を大きく広げた。


「それはもう、誰とも手を取り合える病院にしたいんです! 人間もオパーズも、貧しい人も誰もかれも、分け隔てなく診察する。そういう意味で、この名前にしました! それに……」


 メネスは半年もシールに付き合っていると、夢見がちな性格にも慣れた。

だが今も、夢の途中なのだ。


「いつかは、このエリア五の治安を改善します。エリア四も、三も――全てです。私は下から、浮遊都市社会を変えていくつもりです。貧富の差をなくし、人間とオパーズが手を取り合える社会を創るんです!」

「なら、俺はその夢が叶うまで一緒にいよう」


 すると、シールが寂しげな顔をした。


「夢が叶ったら、メネスさんはいなくなってしまうのですか……?」

「ああいや! そういうわけじゃない! 病院ができても、社会を変えても、一緒にいる! ずっと隣にいる!」


 と、そこまで口にして、隠されていないシールの顔が真っ赤になっていることに気づいた。メネスも落ち着くと、自分がなにを口走っていたのか気づき、思わず顔を逸らした。

 メネスの手を掴み、シールは口を開く。「一緒にいてください」と。「どうか、いなくならないでください」と。


 エリア一にある大富豪の家に生まれたシールには、本当の意味で仲良くなってくれる人がいなかった。誰もがシール個人ではなく、後ろにあるシルトベイル家を見ていたのだ。

 本当の意味で友達と呼べる相手はいなかった。異性も、親が選んだ金持ちばかりだ。

 だからこそ、シールという女性一人についてきたメネスは、彼女にとって一番の宝物なのだ。


「……ああ、一緒にいる。どこにもいかない」


 シールの頭を、メネスは不器用に撫でた。落ち込んでいたシールは安心するように、微笑を浮かべた。

 メネスの中では、そんな約束はしなくてもよかった。シールの夢を手伝い、いつか叶えさせる。その後シールがどう変わろうと、メネスは一緒にいるつもりだった。


 たとえシールが死んでも、メネスは吸血鬼としての余命をすべて使って、夢を守り続ける。よく父の言っていた、永遠のように長い余命の使い方を、メネスは見つけていた。


「二人で仲のよろしいことですね」


 病院の前でのやり取りを、エミリーがジトッとした目で見ていた。メネスは慌てて手を離した。


「まぁ、二人に喧嘩されると、私としても面倒ですから。それより内装の方は、もう完成したみたいですよ」

「本当ですか!」


 シールがメネスから離れ飛びつくと、エミリーは自分で見るように言った。中に飛び込んでいくシールとは違い、メネスは肩をすくめていた。


「元気だな、アイツ」

「長年の夢だったと聞いています。私たちには理解できない感性ですね」


 エミリーは決して、シールを馬鹿にして理解できない感性と言ったのではない。


「吸血鬼の俺たちからすれば、十年や二十年かけても長年とは呼ばないからな」


 数百年生きる吸血鬼と人間では、感性が違い過ぎる。他のオパーズとも違うだろうし、人間も人により違う。

 シールはいつか、そのすべてが手を取り合えるようにできるのだろうか。


「……違うな」


 呟くと、メネスはこの先数百年の生涯に思いを馳せる。

 シールが成せなくとも、メネスが夢を受け継ぐのだ。死ぬまで数百年。それだけあれば、狭い浮遊都市の中でくらい、手を取り合うことはできるだろう。

 シールの夢を叶えることが、メネスの夢になっていた。


「それでは、私はエリア三に用がありますので」

「買い物か?」

「そうですね。中を見ればわかりますが、明日にでも病院として開くこともできるでしょうから。客が来れば、なにかと必要になる物が増えるでしょう」


 エミリーは気が利く女だ。メネスのように行き倒れていたところを、一か月ほど前にシールが見つけ、助けた。行く当てもないというので、ここで働くことになった。細かな気の配りようから、どんな仕事をさせても上手くいくような気がする。けれども、ここでシールのために働いてくれるのは、恩返しだと思いたい。


「さて、夢の途中はどうなってるのか」


 メネスは完成したという院内に入っていった。清潔で白く、いかにも病院といった内装だ。その真ん中で、シールは嬉しそうに見て回っていた。マスクもフードも外し、すっかり見慣れた顔が、喜びに満ちている。


「ここから続いていくんですね……!」

「夢がか?」

「ええ! まだ、夢の途中ですから!」


 心底嬉しそうだ。メネスまで笑みがこぼれる。


「あの、エミリーさんはどちらに?」


 遠慮しているようなシールへ、メネスは「買い物」とだけ答えた。なおも気にするシールへ、「行き先はエリア三」とも付け足す。


 シールがもじもじとしていた。『あのこと』だろうと、メネスは口を開く。


「エミリーが戻る前に、あれをやるか」

「よろしいの、ですか?」

「今更気にするな」


 シールの頭をクシャクシャと撫でて、本当に気にする必要はないと言っておく。


「では、あちらへ」


シールの果てしなく大きな夢。社会を変えるという夢とは別に、もう一つある。

シールは、「新薬」を作ろうとしているのだ。

 吸血鬼の肉体は、人間よりずっと頑丈だ。傷の治りも早く、病気にもかからない。それは、吸血鬼の血によるものだった。シールはそれに着目し、新たな薬として使えないかと、研究をしている。

 しかしこちらの夢だが、メネスは難しいと思っている。吸血鬼の血を注射でもすれば、グールか、従属になってしまう。


 とはいえ確かに、吸血鬼の血を薬に転用できれば、どんな病気だろうと治せるだろう。

 しかし、吸血鬼の血は吸血鬼のもの。物事にはどうしようもないことがあるのだと、メネスはシールを説得していた。だが、いくら言っても夢を譲らないシールに、メネスが折れた。いつか無駄だとわかれば、こんなことも止めるだろう。そう思うことにした。


「どうでしょう」


 メネスの血と他の薬とを混ぜ合わせたカプセルが差し出される。メネスは元々吸血鬼なので、飲んだところでたいしたことはない。人体実験のようなのでシールは遠慮しているのだが、これで諦めてくれるよう、メネスは付き合っていた。


 カプセルを飲み込むと、体の中で溶けていった。やがて、胃が痛む。

 寄り添うシールへ、メネスは真剣な面持ちで口にする。


「俺でこうなるなら、人間に飲ませたら死んでもおかしくない」


 その一言に、シールは「そうですか……」と、肩を落とした。


「人間の知恵と、吸血鬼の能力。それらが手を取り合った薬を流通できれば、オパーズへの格差問題の解決にもつながるのですが……」


 そう簡単にいかない。仮に薬ができても、レムレースの一件で、オパーズへの偏見は強い。

 そんな折、エミリーが帰ってきた。早すぎる帰還に急いで新薬に関するものを隠そうとして、


「忘れ物をしたので帰ってくれば……なんですか、これは」


 メネスの血が混じるカプセルを、エミリーは摘まんで目にしている。反感を買いたくなかったので黙っていたのだが、エミリーはカプセルを開けると、面白そうに中身を見ている。

 そうしてなにが入っているのか確認すると、シールへ文句をぶつけた。


「こういうものを作るなら、私にも協力させてください」


 予想外の反応に、メネスとシールは顔を見合わせた。


「怒ったり、しないのですか?」

「怒る? なぜ私が、そのようなことを?」

「いえ、黙っていただけではなく、吸血鬼の血を相談もなしに使っていたので……」


 小さな声のシールに、エミリーはフッと笑った。


「とても面白そうじゃないですか。あとで、詳しく教えてくださいよ」


 本当に予想外だ。これでは、シールを諦めさせるのに時間がかかる。


(まぁ、思いもよらず成功するかもしれないか)


 楽観的に捉えることにし、第二のシールの夢はエミリーに任せることにした。



~~~




 病院が完成してから三日も経たず、シールは診察を開始した。シルトベイル家が全エリアを捜しているというので顔は隠しているが、診察はシールが行う。


 その横で、メネスはシールの指示を受け、共に仕事をしている。

 訪れる客に、あまり違いはない。エリア五には元から薬物中毒者や破産者しかいないからだ。


 しかしそんな連中でも、シールは受け入れた。エリア一にいた頃、医学に関しては、ほとんど頭に入れていたのだ。手と手を繋ぐ病院は、外科であり内科であり精神科でもあるのだ。

 シールはもっとたくさんの人を受け入れられるよう、今も勉強している。メネスはエリア五の住民の診察を見ながら、努力家だなと思っていた。


 病院の名前が広がると、訪れる患者の種類が増えた。薬物中毒者や破産者ではなく、風邪や頭痛などを抱える患者が来るようになったのだ。エリア四からわざわざ降りてくる人もいるほどだ。

 エリア五の精神的な病気の患者と、エリア四の一般的な病気の患者。時にはオパーズが訪れても、分け隔てなく診察している。


 社会を変えるというのも、こうして見ていると、まんざら不可能ではないように思えた。得られる対価は非常に少ないが、シールにとっては、気にすることでもないのだろう。患者によっては、無料で診察するほどなのだから。


 少しずつ、夢が進みつつある。シールとエミリーと三人、ここで病院をやっていたいと、メネスは思うようになっていた。



~~~




 ある晩のことだった。ドームの外で大雨が降る中、扉をノックする音が聞こえた。診療時間は過ぎていたが、シールはもし急を要するのなら診察すると、扉へ向かう。

 メネスはそれをいったん止めた。


「こんな時間に来るのは変だ。まずは俺が出る」

「そんな、疑ってかかるのは……」

「エリア五の夜は危険だ。ここを誰かが狙っていてもおかしくない」


 メネスはシールの前に立ち、扉の先へ向けて「どなたですか」と、まだ慣れない敬語で問いかける。扉の向こうでしばらくダンマリが続くと、「頭が割れるように痛い」と返ってきた。


 一応、病人のようだ。扉を開けると、まずその風体に驚いた。子供の様に小さな体躯に、身の丈ほどの真っ赤なロングコートを羽織っている。そして、臭ってくるのだ。なにかの塗り薬のような、鼻をつく奇妙な臭いが。

 鼻をつまみそうになったメネスとは違い、シールは中へ迎え入れる。


(なにかの……薬草の臭いか?)


 頭痛に対し、そういう治療法があるとは聞いている。他にも緊張を和らげるなどあるが、とにかく診察室へ招き入れた。


 シールと向かい合うように座った中性的な見た目の相手は、ニオと名乗った。男性のようで、前屈みに座ると、深いため息を吐き出した。


「いやぁ、頭痛がひどくてひどくて。効くっていうから藁にもすがる思いで薬を体中に塗っているんだけど、効果がないんだ。ああ、もしも臭かったら言ってね。できるだけ早く出てくから」


 どこか奇妙な言い回しに聞こえた。いつ出ていくのかは、シールが診察して決めることだ。


「しかし、頭痛というのは厄介だね。冷やしたりしてたんだけど、まったく効果がなくてさ」

「そうですか。では、他の病院で薬を処方されたりはしていますか?」

「いや、ここが初めてだよ。それこそ病院なんて生まれて初めてかもしれない」

「そう、ですか……」


 シールが言葉に詰まると、ニオはハハハ、と笑う。やはり、この男は不気味だ。

 それでもシールは診察を続けた。


「頭痛と一口に言いましても、心因性のものや、日々の姿勢、血流の悪さなど、様々な原因が考えられます。なにか、心当たりはありますか?」

「心当たり? ああ、心当たりかぁ……そうだなぁ、いろいろあるよ。でも一番は、最近親友が殺されたことかなぁ」


 途端に、危険な臭いがした。エリア五では人を殺しただとかナイフで刺したという話は絶えないが、そのような患者は殻にこもるよう、感情を表に出さない。


 しかし、このニオはどうだ。親友が殺され、頭が割れるような頭痛がするというのに、笑っているのだ。薬物で頭がイカレタのかもしれない。シールを襲わせないよう、メネスはすぐに身構えると、


「ああ、そっちの君。そんな警戒しなくてもいいじゃないか」


 メネスに驚きが走る。身構えるとはいっても、少し体を前向きにする程度だ。ニオは、たったそれだけの動作でメネスの目的を察した。

 シールも、流石に訝しむようになっている。


「……それで、あなたは薬が欲しいのでしょうか。痛み止めなら、いくらかありますよ」


 シールは、診察を終わらそうとしている。メネスもそれには同意で、一般的に流通している痛み止めを差し出した。

 シールが薬について説明しようとする前に、ニオはカプセルをつまむと、口に放り込んだ。歯で噛んで、飲み込んでいる。


 とうとう、シールは絶句した。メネスも、そこらの異常者ではないと判断を下す。


「横から悪いが、今日はもう店じまいだ。明日また来てくれるか」


 メネスがそう言うと、ニオは首を振る。


「ここじゃないと治せないんだ。さっき、心因性がどうとか言ってたけど、まさにその通りなんだよ。ボクの頭に響く頭痛は、根本から治さないといけない。つまりは、殺した相手に復讐をしたいんだ」


 もういいだろう。メネスがシールを守るように前へ出た。


「復讐がしたいんならブリシアにでも相談しろ! 相手が人殺しなら、奴らも探してくれる!」

「ああ、確かに。その通りだよ。だけど、ブリシアは決して探さない。ボクの大切な人は世間一般でいうところの悪人で、殺したのは善人なんだから。なんて可笑しな世界。悪人が殺されたら世の中は良くなるとか言われてて、善人が死ねば涙を流す。こんな社会、間違っているとは思わないかい?」

「だから、社会がどうとか話したいんなら、別のところでやれ! ここはただの病院だ!」

「そうだなぁ……なら、せめてこれだけは聞いてくれないかな」


 ニオは俯くと、顔に手を当てた。そのまま、言葉を紡ぐ。


「ボクの親友は、とても努力家だった。社会を変えようとしていたんだ。それを殺したのは誰か。わかるかい? 君――いや、メネス君?」

「なっ!」

「もうわかったかな? ボクの親友……レムレースを殺したのは、君の父親、ブラッドルフだよ。そしてブラッドルフを殺したのは」


「今すぐ逃げろ!」、メネスが叫んだ。しかし、ニオは恐るべき速さでメネスと距離を詰め、その体から想像もつかない力で腹を殴った。唾液を吐き出しながら、メネスは医療棚に激突する。


「ひどいなぁ、人が話してるのに邪魔してさぁ。でもわかったろう? ボクが誰なのか」


 ヘクトール。メネスはなんとかその名を口にした。ヘクトールは瞳からカラーコンタクトを取ると、赤い瞳が露わになる。着込んでいたコートを脱ぐと、奇妙な臭いも消えた。

途端に吸血鬼の臭いと気配がしてくる。


 恐怖がメネスを包んだ。父と母が殺された時、メネスは隠れていたのだ。惨劇の一部始終を、ベッドの下で震えながら聞いていた。ヘクトールは、なにも言わず、淡々と両親を殺したのだ。

 そして今も、ヘクトールはシールの髪を掴んだ。暴れるシールへ、ヘクトールは口を開く。純血の吸血鬼にしか生えていない牙が、小さな口から覗いた。

 なにをするのかは、明白だった。


「ま、待ってくれ! シールを殺さないでくれ!」


 メネスは体中が痛むが、なんとかヘクトールへ頭を下げた。


「俺に恨みがあるなら俺を殺せ! 親の罪は子の罪だろ⁉ だから殺すなら俺にしてくれ!」


 メネスの必死の叫びを、ヘクトールは眺めている。そして顔を歪ませた。


「なんてか弱い吸血鬼。抗うこともしないで、ボクに懇願するというのかい? ああ、それほど、この女は大切なんだ」


 シールは、メネスの生きる理由だ。そしてその先も生きていく目的だ。

 殺されては、メネスには生きている理由がなくなる。何度も何度も、殺さないでくれと懇願する。その度にヘクトールは奇妙に笑う。やがて、言った。 


「ああいいよ、殺さないであげるから、顔を上げるといい」と。

 メネスはすぐに顔を上げた。そして、ヘクトールが歪んだ笑みで言う。


「ジョークだよ。面白かった?」


 メネスがなにか言う前に、ヘクトールはシールの首に噛り付いた。血が飛び散り、シールが悲鳴を上げる。


 もはや体の痛みなど気にせず、恐怖もかなぐり捨てて、メネスは突っ込んだ。しかし、ヘクトールは血を吸いながら、メネスを殴り飛ばし、みぞおちを踏みつけた。


「シー……ル……」


 メネスはそれだけ言い残し、意識を失った。



~~~




 香ばしい香りがする。メネスは目が覚めると、まず鼻へ入ってくる血の匂いに酔っていた。しかし、すぐに意識がはっきりすると、床が血の池になっていることに気づく。


「シール!」


 その名を叫ぶ。すると、弱弱しい声がした。血の池を這っていけば、シールが首から血を流して倒れている。


「あは、ははは……困り、ましたね……」


 大量出血。今にもその限界がきそうだった。


「待ってろ! 今傷口を塞いで輸血を――」


 そうしようとして、シールは冷たい手を血で濡らし、メネスの手を取った。


「もう、助かりません……」

「そんな! そんな……」


 それはそうだ。床が血の池になるほどの出血。助かるはずもない。それでも、シールに生きていて欲しかった。泣きながら抱き着くと、背中をポンポンと叩かれた。


「結局、私の夢は、過ぎた夢だったようです……ですが、」




「あなたを救うことはできた」




 それを言い残し、シールは目を閉じた。死んだという現実を突きつけられ、メネスは絶叫した。悲しみと絶望だけの慟哭には、次第に黒い感情が混ざり始めた。


 その身が血の赤で染まる中、メネスの心が真っ黒に染まっていく。次第に心の中で黒い炎が燃え上がった。黒い炎は、メネスの怒りによって増加していく。


 この黒い炎――これこそが復讐心だと、メネスはこの時、まだ知らなかった。

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