異文化の中で
「時効不成立」 3
第2章 異文化の中で
狭間良孝がロンドン・ヒースロー空港に降り立つと、冷たい空気が身を〆た。
片言の英語もしゃべらないように、と言われていたので、何も言わなかったが、差し出した書類を見て、向こうが勝手に入国の判を押していた。
幾分うろつき加減に表に出ると、自分の名前が書かれた、画用紙大の紙を持っている美人が目についた。
ややウエーヴのかかった黒髪の裾から、首筋が美しく見える。
白いブラウスに空色のスーツ、膝小僧すれすれのタイト・スカート、その上に、薄いベージュのバーバリー七分コートのボタンを外して、羽織っている。
三十代前半の若い丸山登美子だった。
彼女は、日英生地貿易商の間黒豊明の紹介で来た狭間良孝を、空港に出迎え、丁寧に挨拶をすると、駐車場に向った。
空港の駐車場に停めてある車は意外に埃っぽく、長期利用を思わせている。
丸山の後ろを歩きながら、狭間は女優の若尾文子に似ているなと思った。
埃っぽい満車に混じって、一際目立つメタルレッドのフォルクスワーゲン・ゴルフに乗り込むと、ゆっくりと駐車場を出た。
空港の敷地を離れた頃、長い地下道に入った。
かなりの交通量だったが、そこを抜けると、いたるところに林のように木があり、丘は、緑の絨毯と言うにふさわしい芝生で覆われていた。
その中に赤いレンガ造りの住宅が混在し、近代的なビルディングがあり、さすがに外国だと、その景観に狭間は見とれた。
車内は女性オーナーだけあって、綺麗に掃除がされ、僅かな香水か、オーディコロンの香もした。
それに混じって、女の香も漂っていた。
高速道に入ると、車の流れは想像以上に滑らかで、最高時速は一〇〇キロと言いながらも、一二〇・三十キロで走っていた。
ロンドン市内に入ると、さすがにスピードは落ちた。
信号の無い歩行者用のゼブラ模様に、歩行者が足を踏み入れると、車は静かに止まった。
狭間は、流石ジェントルマンの国だなと、感心した。
鈴掛けの大木の並木が、切れ切れとはいえ、いたるところにある。
やがて車は、取り立てて大きな建物は無いが、棟続きの繁華街に入り、電気店の前に止まった。
車内の暖房に慣れたせいか、ドアを開けた瞬間、乾いて冷たい空気が気持ちよかった。
後から車を降りた丸山登美子が、ここです。と言った所は、三階建ての二階だった。
入り口の、覗き窓のない木製のドアを開けると、一階への左の通路と並んで、二階への幅広の上り階段が右にあった。
上って踊り場に立ち、部屋のドアを開けると、靴脱ぎ場があり、左にすぐ、ドアの付いたバス・トイレがあった。
全体が白に近い薄い灰色で明るい部屋だった。
二十畳位の大きな一間の部屋の奥、左片隅に、L字型にキッチンが据えられ、電気オーブン付きの調理器と、 流し台が並び、食器を仕舞う天袋があった。
流しの左手には洗濯機も有り、反対の右には洋服箪笥が据え置かれている。
そのキッチンスペースは、横幅四メートル、奥行き二メートル位の板の間になって、あとは濃紺のカーペットが敷かれ、箪笥の手前、板の間と直角に、ダブルベッドが壁に沿ってあった。
入り口に立って右手に、大きな二つの窓があり、レースのカーテンがかけてあり、緞帳のようなワインカラーのカーテンが、左右に分けられ、窓脇に縛られていた。
窓の下には、それぞれ暖房用のパネルがあった。
「どう、気に入ってもらえたかしら」と丸山がそう言って、ベッドに腰を下ろした。
「豪華な部屋ですね、買い物も近いし、便利そうで気に入りました。有難うございます」
「荷物は、後から来るの?」と丸山は、まさかと言う顔で言った。
「いえ、これだけ」と狭間は、黒い庖丁ケースと買い物袋を揺すった。
「え、随分あっさりね。でも、楽しみが有っていいかもしれないわ。この夜具、一・二度使ったきりで、洗濯もしてありますから」と言って丸山が顔をほてらせた。
「後は全部、大家さんのですから、なくしたり、壊したりしないようにしてくださいね」と丸山は照れ隠しのように言った。
「へー、全部、ですか?」と俯きかげんに狭間は言た。
「嫌ね、変なこと考えないでください」と言って丸山は再び顔を赤くした。
「え、べ、別に、かまいませんよ。英国って、便利ですね」
「日本と、そこが違うのよ。どんなに外が寒くとも、部屋の中は暖かいから、寝る時でも、毛布一枚で充分なのよ」と丸山は言いながら、小さなカメラをカバンから取り出した。
そして部屋の隅々からバス・トイレの隅々まで、フラッシュを使って撮り、天袋と、キッチンの下の仕舞い棚のドアを開け、撮影をした。
「その写真、どうするのですか」と狭間は、何か疑われでもしているような気分になって聞いた。
「ここを契約する時は、大家さんの前でも撮って置いたの、日付が入っているから、おかしなことになった時の証拠になるの」
「おかしな事って?」
「例えば、ほら、ここの傷」と言って丸山が箪笥の角を示した。
「ここを出る時、この傷は住んでいる人がつけたから、損害賠償してくれ、なんて云われかねないのよ。ところがこうして証拠の写真を見せれば、入る以前から、有ったと言う事が出来るわけ、日本では、そんな事言いたくないし、言われたくもないから、初めから何も置いていない、と言うわけよ」
「なるほどねぇ」
「釘一本打つにも、大家さんの承諾書が要る訳、だから便利に棚を付けようなんて、して欲しくないのね、それとタバコ、これは充分気をつけてください。 浴槽も、週に一度は石灰を洗い流すようにね」
「なんですか、その石灰って?」
「英国の水は、多量に石灰分がある硬水なの、水回りには、石膏のようにこびりつくの、それを洗剤で、洗い落としておかないと、積もってからでは大変ですから、それと」と言って丸山は入り口のドアに向かった。
「このドア、錘やバネが仕込んであって、自動的に閉まりますから、出る時は必ず鍵を持って出るように」と言って、彼女はドアを開け、蝶番の付いている方の、ドアの淵の陰から壁の中に伸びている、自転車のチェーに似た鎖を指差した。
なるほど、開けたドアは、ゆっくりと動いて、カチッとロックの音がして、閉まった。
「それじゃ明日、お店に案内しますから、近いのですけど、お迎えに来ます。それとも、これからお店に行って見ます?」
「有り難いですが、今は勘弁してください。眠いのですけど」と狭間が言うと、丸山はふと時計を見た。
「アラ、うっかりして、狭間さんは今、真夜中モードだものね。店はすぐ近くなのですよ。歩いて五分ぐらい。お疲れでしたのに、気が付かなくて、ごめんなさい」と丸山は、ヒースロー空港に彼を迎に行って、年甲斐もなく興奮している自分を、少し照れた。
狭間良孝は、案外に素直な彼女に、好感を持った。
こうして、狭間良孝のロンドン生活が始まった。
丸山登美子が、薄いピンクのワンピースにバーバリーを羽織り、黒の革ジャンを着た狭間良孝を車で迎に来た。
社宅の前から狭間を乗せた車は、程なく公園の近くに停った。
「随分と早いですね。こんなに近くなら、言ってくれれば、一人でも来れたのに」と言って狭間は車から降りた。
「ここ、丁度お店の裏の通りになるのよ」と丸山も降り立って言った。
低めの黒いヒールを履き、背をすっきりと伸ばし、手にはイヴサンローラのカバンを持って先に立ち、小気味のいいテンポで歩き出した。
狭間は、それにしても、空港から出る時も、出てからも、日本女性を見たが、誰もが、その歩き方は、足をピンと伸ばさずに歩を運ぶ、どこか自信のなさを感じたが、丸山登美子は違うな、と思った。
その後姿に彼は、十歳に近い年の差がある若い女性経営者の丸山登美子に、何かくすぐったい心地よさを感じた。
道を左に曲がると、丸山が、木枠にガラス張りの片開きの小さなスウィング・ドアの前に立った。
「小さいけど、場所がいいし、レイ・アウトはお任せしたいと思っていますから、あとは設備をどうするか、何が必要か、言って下されば購入しますから」と言って丸山が店のドアを開けた。
「まだ開店はしていない。と聞いてはいましたが、遣り甲斐がありますね」
「寿司丸」に生まれ変わろうとしている店は、ウエスト・エンドレーンの通りに面し、間口は狭いが、奥行の有る鰻の寝床を思わせ、地下室もあった。
階段を下りて地下へ行くと、すぐ正面にトイレがあった。
階段の真下を物置にし、反対側を仕込み場に出来ると狭間は思った。
トイレの反対の奥は、小さいながらも事務所を置く事が出来る面積だった。
上の店内は、丁度事務所の真上に当たる所をキッチンにし、客席との境に寿司のカウンターを設置するようにした。
狭間は、だいたいのレイ・アウトと、寸法を大工に指示し、表に出た。
彼女の運転するゴルフに乗って、必要最小限の厨房設備を注文した。
注文先を回って店に帰り、隣の喫茶店に入った。
「寿司ケースは日本から来るということですが、サイズはわかりますか?」
「これがカタログ」と言って、丸山がカバンから取り出し、狭間に渡した。
「ああ、これだと、カウンターのくの字の角に丁度納まりますよ」
「アラ、さすがね、あ、滞在届け、出しておいて下さいね」
「なんですか、それ、どこに出すのですか?」
「別に強制じゃないのですけど、在英日本大使館へ、届けることになっているから」
「どこにあるのですか、それ?」
「グリーンパーク公園の前なのだけど」
「ってどこですか、わかりませんよ」と狭間はどこか甘えるように言った。
「アラ、そうよね、でも、今日は忙しくて、案内できないので、地図を見て見学かたがた行って見てはどう?」
アラ、というのが、彼女の口癖のようだった。
「それもいいですね」
「じゃ、また夕方、五時頃、大工さんが帰る頃に、お店でお待ちしていますから」
二人は喫茶店を出ると、丸山は停めてあったフォルクスワーゲン・ゴルフで、去った。
狭間は教えられたように、電車バス兼用のワンディー・チケットを、ウエスト・ハムステット駅で買い、地下鉄ジュビリーラインに乗った。
彼は日本大使館へ行く気はなく、オックスフォード・ストリートで、降りた。
混雑は、東京のラッシュアワーと変わりがないと狭間は思いながら、地下から地上に出たが、そこも同じだった。
始めて、東京の上野駅に降りた、あの朝の感覚が蘇った。
あれは丁度二十年前の、極寒の二月だった。
狭間良孝と三浦美智雄が、恩師の紹介で料亭『上総』に高校の新卒で、弟子入りすると言う事がもてはやされたのだったが、二人は半年もしないうちに、畑山源太の、ホモ行為に悩まされる事になったのである。
彼は痩せ小柄な、店の専属運転手で、年は三十前後と言うが、髪の毛は薄く、神経質そうに、掛けている眼鏡をいじりながら歩く、せっかちそうな男だった。
二人が部屋で酒を飲んでいると、どこか先輩ズラをして必ず入って来て、ほどほどにして寝ると言うと、源太は大人しく帰るが、二人が寝付いた頃を見計らい、彼らの寝ている部屋に戻ってくるのだった。
すると、いきなり三浦が、大声で怒鳴っていた。
始めの頃こそ、狭間は、なぜ三浦が怒鳴ったのか知らなかったが、一年が過ぎ、店が暇になった夏、三浦が、痔の手術で入院し、そこへ見舞いに行った時に解った。
「どうだい、調子は?」
狭間は何の気なしに、病院のベッドに寝ていた三浦に声を掛けた。
「ん、大丈夫だよ。それより狭間」
三浦は言葉を切って、何かを言いよどんでいた。
「どうしたい。店の事なら、暇だから心配ないぞ。ニッパチって言って、二月と八月は暇なのだそうだ」
「そんな事じゃない。あの源太、気を付けた方がいいぞ」
「なんだい、なにかあったのか?」
「恥かしいが、お前にだけは言って置きたい、あいつ、ホモ野郎だ」
「え、なんだって、ホモ」
「ああ・・・」
「先生に相談したのか?」
「したよ」
「なんだって?」
「へらへら笑っていただけだよ」と三浦は投げるように言って、ふてた顔をした。
「それだけか?」
「どっちかと言うと、店では暗黙の了解のようだよ」
「な、なんだって、親方もか、総帥は知っているのか?」
三浦は、疲れたのか、俯いてしまった。
そして三浦は、退院すると自宅療養ということで帰り、そのまま店には戻ってこなかった。
やがて秋の結婚シーズンが近づき、店は再び忙しさが続いた。
当然飲む機会も増えた。
明けて、一九六九年の松飾りも取れ、「上総」の内輪で、去年より、雪の降る日が多いといって、雪見酒があったその日、なぜか畑山源太は酒を飲まなかった。
「リョウ、ドライブしないか?」と源太が狭間の部屋に来て言った。
三浦美智雄以外の人は、狭間良孝を、そう呼んでいた。
「ドライブ、どこへ、第一雪が降っている夜中に、危ないじゃないですか」と狭間は、部屋の入り口に立っている源太に言った。
「なんだ、以外に度胸がないな」
そう言われて、狭間はムキになった。
源太は、白いトックリセーターに、白いジャンパーを着て、立っていた。
「寒いから、嫌ですよ」と狭間が断ると
「車の中は寒くないから心配ない」と言って源太が狭間の腕を掴んだ。
狭間は源太の、どこか軟弱な力に促されるように、従った。
外は、肌を刺す粉雪だった。
車は五分も走っただろうか、人家も見えない路の脇に止まった。
「引き返した方がよさそうだな」と源太は独り言のようにつぶやくと、狭間の太腿に手を伸ばした。狭間は暖房の効いた車内でまどろみ、源太の手を感じると
「止めて下さいよ、源太さん」とまるで寝言のように言った。
「いいじゃないか、ここまで来たのだし」
「勝手に連れてきておいて、何するの?」
だが源太は、狭間が強い抵抗をしないのを良い事に、図に乗り、手を止めようともせず、狭間のズボンのファスナーを下ろしにかかってきた。
狭間は、その手を捻り上げ、
「いい加減にしろよ、三浦が言ったことは本当だったな。残念だが、俺にその手の趣味はねぇ」と狭間は静かだが、野太く言うと、さらに
「サッサと車、店に戻せよ、え、おい源太」と凄んで言って、キジも鳴かずば撃たれまいって事知ってるか、と付け加えて、睨み付けた。
源太は、主人の顔でも思い出したのか、あっさりと車を出し、店に戻った。
雪の降り積むその翌日の午後だった。
何の予告もなく、狭間の母親が店に来た。
「どうしたんだい母ちゃん?」
「良孝、大変なことになった」
「だからさ、なんだい、何があった?」
「父ちゃんが、父ちゃんがな、事件を起こしてしまった」
「何やったんだ、又喧嘩か?」
「い、今、古川刑務所に居る・・・」
「・・・刑務所・・・何時の話だ、それ?」
狭間は何も知らなかった。
事件を起こし、警察に捕まったと言うならまだしも、いきなり刑務所とは。
古川刑務所は、車で店から十分位の距離の所にあり、一度、客からの注文で、差し入れを配達した事があった。
狭間は、親方の権堂和夫に、一寸出て来ますと言って、外の母親の所へ行った。
母は、ガラス戸越しに見える帳場の「上総」の親方に向って、ぺこりと頭を下げ、背を丸め、辺りを憚る様に小さくなって歩きだした。
狭間が、何やったんだ。と母に聞くと、自分の口からは言えないから、父ちゃんに会って話を聞けと言った。
庭は昨夜からの雪で、築山が溜息の出るほど見事に、白く着飾っていた。
雪は小降りになったとはいえ、まだ降り続いていた。
狭間が今朝、一番に雪かきをし、築山の周りに雪道を作ったのだったが、そこは既に白く、かすかな地面を感じさせるだけになっていた。
雪の町をしばらく歩き、やがて、雪に覆われた灰色の大きな建物の前に出た。
高く、長い大きなコンクリートの塀は雪溶けに濡れ、黒ずんでいた。
聳え立つような鉄格子の門の脇に、黒いオーバーコートを着た男が、小脇にカバンを抱えて立っていた。
母親は良孝に弁護士だと紹介し、彼を次男だと言った。
弁護士が、小さな鉄板の扉を開けると、三人はそこをくぐった。
塀の中の庭は、降るに任せた雪に覆われていた。
「スイマセン、あのォ、親父、何やったんですか?」と狭間は弁護士に聞いた。
弁護士は、何の感情も見せずに黙って、薄くらい頑丈そうなガラス戸を開けた。
入るとすぐ右の部屋には、ドブねずみ色の制服を着た看守がいた。
弁護士が、そこの小窓で何か話をすると、軽く頷き、奥に向かって歩き出した。
その後ろに二人は付いていった。
薄暗い空間に、裸電球一つだけが宙に浮かんで、頼りなく灯り、それは黒いコンクリートの額縁に収まった絵の様だった。
艶の無い木の長椅子に座るまでの時間が、とてつもなく長く感じられた。
弁護士は、二人をそこに座らせ、どこかへ消えた。
狭間が、傍の母を横目で見ると、俯いて息を殺しているのが判った。
どこかでドアの音がし、目を向けると、開けたドアから顔を出している弁護士が、狭間を手招きしていた。
その部屋も、裸電球一個あるだけで、何も無いコンクリートの箱だった。
「貴方のお父さんは、強姦未遂で逮捕されました」と弁護士が低い淀みのない声で、それだけ言ったその瞬間、狭間良孝にとって部屋は、泥の中のような静けさに、押しつぶされていくような空間に変わった。
狭間良孝はオックスフォード・ストリートの混雑の中で、歩きながら思った。
どうしてあの時期に、ホモ野郎、親父の事件、文通相手からの不通と、事件が重なったのだろう・・・・・・。
母に言われて、保釈金十万円を、給料八千円の中から貯めた金を手渡した。
翌日からは、まるで何も無かったように仕事が始まった。
新年会シーズンも終わり、暦は極寒の二月になろうとしていた。
誰も狭間良孝の家庭の事に触れることも無く、誰もが何食わぬ顔で、日が過ぎていった。
いつものことながら、朝七時に起き、冷たい空気を掻き分けるように部屋を出、手をこすりながら庭の雪をかき、帳場を掃除し、厨房の準備をしていた。
ふと廊下に、せわしげな足音を聞くと、狭間は顔を上げ、なぜこんな早く源太が、と小首をかしげ、仙台に月末の買出しでもあるのかと、思った。
厨房の入り口まで来た源太が
「なんだ、ここ汚いじゃないか」といきなり言い出した。
「あ、窓はこれからです」と狭間は盛り台を拭きながら言った。
「まったく、親が親なら子も子で、駄目だ」と吐き捨てるように源太が言った。
「今、なんか言いましたか?」と狭間は源太に近寄り、いきなりストレートを放った。
見事にヒットすると、源太は廊下に飛んでうずくまり、這いずりながら、手探りで眼鏡を探し、起き上がろうとしている傍に、狭間は仁王立ちに立った。
「そんなに俺や三浦を虐めて、楽しいのか?」
「ふん、修行だよ」と言って源太は、薄笑いさえ浮かべた。
口から流れる血を手の甲で拭き、さらに何かを言いかけた源太を、狭間はその襟首を掴み、ゴミ袋を引きずるように源太を厨房の中に引きずって行き、洗ったばかりの大きなポリ容器に、源太を頭から突っ込んだ。
騒ぎを聞きつけた店の者が来ると、口々に、狭間良孝に、謝れと迫った。
狭間は、テーブルを拭いて、そのままにしてあった雑巾を掴むと、思いきり床に叩き付けた。
部屋に走り戻って、呆然と突っ立っていたが、そそくさと庖丁を細長い黒いカバンに詰め、表に飛び出していった。
家には行きたくないとなれば、足は自然に松島に向かっていた。
松島の親元で、うなぎ職人の修行をしている小野寺正則に、こうした事があるから、店に居辛くなったと、相談した。
彼は、狭間に、人の噂も七十五日だから、ほとぼりが冷めるまで、そこにいたらどうかと、年の割には落ち着いたアドバイスをしてくれた。
同級生のアドバイスに従って、狭間は頷いた。
狭間良孝にとって、小野寺正則は高校の友人で、学校の休みには、アルバイトをさせてくれた。
松島の小野寺が、心配の電話を狭間によこしたのは、間もなくの事だった。
(居辛くなっていないか?)
「相談したい事が山ほどあるんだ」としか狭間はいえなかった。
(なんだよ、水くせぇな、いって見ろよ)
「電話じゃ、いえねぇ」
(来いよ)
「休めねぇ」
(じゃ、俺が行く、いいか、はやまった事、するなよ)
翌日、小野寺正則は、関光男と高橋正美の三人で狭間を訪ね、『上総』に来た。
狭間は親方から時間を貰い、近くの喫茶店に四人で行った。
「何、ホモ、ホモ野郎がいるのか、あの店に?」
「とにかく、毎晩だ、叩殺したくなる」
「ヤバイな、狭間」
「松島に、来いよ」
「正則、おめぇってよ」と言う狭間の声が詰まった。
「なぁに、バイトの時からお袋が言ってた。おめぇら兄弟だって、で、狭間、どうするんだ?」
「にげる・・・」
「理由を、言ったほうがいい」
「なんかいも言った。だめだ、誰も知らん振りだ。三浦の時とまったく同じだ」
「親方もか?」と関が呆れた。
狭間は首を、こくりと下げた。
「解った、お前らを紹介した幸助先生は探すだろうが、俺の所でくい止るから来い」
「正則に、迷惑かける事になる。駄目だ」
「どうする?」
「二月二十八日、俺、東京へ行く」
「なんでだ。今から来いよ」
「借金が有る、払って出る」
「金、あるのか?」
「ない」
「とにかく、その日、迎えに来てやる、又考えよう」
その日が来て、狭間は日の射さない暗い部屋で、荷物をまとめ終わり、その上に、借りた現金二万円同封の、置手紙をした。
茶の間でテレビを見ていた親方和夫の祖父母、料亭「上総」の包丁人・総帥・権堂久次朗と海老子に、飲みに行きますと、いつもより丁寧な挨拶をした。
狭間良孝は、飲みに行って来ます。とは言わなかった。
「疲れが取れたら、すぐ帰って来いよ」と総帥の優しい声がした。
疲れたら・・・か、総帥、俺、もう疲れてますよ。と狭間良孝は心で言った。
表のくぐり戸を出ると彼は、「上総」を振り仰ぎ、頭を深々と下げ、無言の挨拶をした。
古川駅で、三人が待っていた。
「狭間、これ持って行け」と正則が言って、白い封筒を、狭間のポケットに突っ込んだ。
古川駅から東北本線の小牛田駅で、関と高橋は降りた。
小野寺正則は、狭間良孝を仙台駅まで送ってきた。
東北本線、仙台駅から東京まで、鈍行六時間の距離を、転寝さえも出来ないままに、乗降客で込み合う上野駅に着いたのは、明けて三月の朝だった。
桜の蕾もまだ固い上野駅に、狭間良孝は立った。
行く当てなどなかった。
とにかく住み込みか、寮の完備している求人広告を探す事が第一だった。
それに見合った求人が、浅草の喫茶店にあった。
行くとその場で採用された。
幾日か経って、東京に三月の雪が降ってきた。
降る雪は、東京のネオンや街灯を、真綿で包むように静かに降っていた。
店から寮へ帰る深夜、狭間は突然、咳き込んだ。
タバコの吸い過ぎかなと思ったが、なお咳き込んだ。
喉に付いた痰を、ペッと雪の上に吐いた時、そこを赤い血が染めた。
狭間良孝は、心細さに拍車がかかり、東京から逃げるように大貫に戻った。
大貫の家にまだ、父の良蔵は戻っていなかった。
正則にだけは電話をしようと、隣の遠藤マーケットから松島に電話をした。
(電話じゃだめだ、とにかく、すぐ来い)
怒鳴るような、その正則の電話に、狭間は胸が熱くなった。
狭間は、小野寺正則の居る料理屋「石田屋」に行った翌日から、仕事をもらえた。
松島の観光シーズンが、島から上がる花火大会で区切りがつく九月になった。
「おい、狭間、店の表に、誰か来てるぞ」と小野寺が言った。
表に出て行くと、大貫の家の隣で、理髪店をやっている伊田作だった。
彼は、狭間の頭髪が伸びると、自分の好きなように切って良いか、それとも、良孝の注文通りにやるか、どっちがいい? と聞き、狭間はいつも、好きにやって良いですよ、その代わり、只、と言って任せてしまえる理容師だった。
暇な時は、女性のような髪形から始まって、少し前髪を残す舟木がり、最後は決って、角刈りにいくらか丸みの有る潮来がりだった。
たっぷりと時間をかけられると、何時しか狭間は眠ってしまうのが常で、ある時などは、ツルツルと頭を撫でられて目が覚め、鏡に映っている自分を見ると、スキンヘッドにされていた事もあった。
髪が指櫛で摘めるようになるまでの、中途半端な二・三か月間は、さすがにそれは嫌だった。
そして、後頭部の髪の伸びが早いなとか、お前の髯って、顔で渦を巻いているから剃り難い、などと言っていた。
狭間良孝はその伊田作が、松島見物にでも来て、飯を食いに来たぐらいに思い、表に出て行った。
「めずらしじゃないの、水族館でも見に来たの」
「良孝、喜蔵さんが死んだんだ」
「え、誰?」
「喜蔵さんだよ。良孝の父ちゃんの兄貴、喜蔵さんが死んだんだよ」
「どうして・・・?」
「話しは、後にして、とにかくすぐ大貫へ行こう」
狭間は、分かったというと、そのことを正則に話し、取る物とりあえず、彼の車に乗った。
「お前の父ちゃんが出てくるの、知ってるだろ。喜蔵さんはその身元引受人として働いていた時、バイクで車にぶつかってしまったんだ」
伊田作は車の中で狭間に、事の成り行きを話した。
狭間は、庖丁の重さと同時に、そこに宿る業のようなものを見た気がした。
一本の庖丁が、一人の罪人と死者を呼んだのではないかと思うと、生半可なことでは板前にはなれないと思った。
親方の和夫が、負けずに頑張って欲しい。と言った事を聞いたのは、初めて親父と「上総」行った時だった。
何に負けるなと言ったのか分からなかったが、今、分かるような気がしてきた。
些細な事が、人の運命を決め兼ねないと思うと狭間良孝は、小さくなっていく自分を感じ、その運命を、幸福の彼岸に運ぶことは出来ないものかと、思った。
「ここで事故に遭ったんだ」と伊田作が言って、車を止めた。
そこは、やがて北上川と合流する堀に沿って、登米ー古川間を結ぶ陸前バスの通りと、左からの下り坂がそのバス通りと交差し、橋を渡り、右の田園へと続く十字路だった。
左の坂は畑の中にあり、右の道は田園の中に在った。
周りは畑と田圃だけの、見通しの利く場所にもかかわらず、バス通りを走っていた二トントラックとバイクは正面衝突した。と彼は言った。
「トラックの運転手は、バイクが坂を下りてくるのを確認していたが、自分の方が優先走行である為、バイクが一旦停止するものと思い、スピードを落とさなかったそうだ。
ところがバイクは、バス通りが目の前に迫ったにもかかわらず、スピードを緩める気配すらなく、そのままトラックの前に出て来たと言う。
トラックの運転手は、急ブレーキを掛けたが、既に遅く、バイクは、バス通りの側を流れる堀にバウンドして突っ込んだ。トラックは制限時速を守っていたが、舗装されていない道だったから、十メートルものスリップ後が有ったよ」と伊田作は言って、車を発進させ、左の坂を登って行った。
狭間は、口にこそ出さなかったが、事の顛末が見えるだけ、暗い空洞を歩くような重苦しい葬儀を終え、再び松島に戻った。
その後、割き方三年、焼き方一生と言われるウナギを、五年間やり、東京に出て、寿司屋、天麩羅屋と、店を渡り、いつしか流れ板前になっていた。
あれから二十年か、と狭間良孝は、オックス・ストリートの喫茶店で目を細めた。
その間に、両親は死に、お袋最後の手料理となった卓袱台に置かれた御飯、白菜の漬物、きんぴらごぼう、団子のような野菜の天麩羅、沢山の茗荷が入った豆腐汁、あれはお袋の味、もう食えないな。と思った。
腕時計をみると、四時半になっていた。
来た行程をそのまま帰り、店の前を見ると、既に丸山登美子のゴルフが止まっていた。
スイングドアーを引いて入ると、木屑と埃が床に貯まっていた。
「ね、このカウンター少し広過ぎないかしら?」
「座ってみてください、落ち着くサイズなんですよ」と狭間がカウンター用の椅子を引き寄せた。
「アラ、そうね、落ち着いて、ゆっくり、沢山食べてもらえそうね」と丸山は言って、体をねじり、レジカウンターを向くと、どうしてあそこの高さは九十二センチとカウンターより高いのかと聞いた。
「ええ、聞いた話なんですが、人間がお金を出し入れするのに、一番抵抗を感じない高さなんだそうです。それ以上でも以下でも、心理的に違和感を持ってしまうんだそうです。機材は何時来ますか?」
「そんなもんかしら、一週間以内といってたから、もう少し後ね、その間に、魚屋さんを当たってみましょ」
「日本と同じくらいに、食材は手に入るんですか?」
「大丈夫よ、ロンドンには今、百店舗以上も日本食のお店が出来て、食材のお店も結構忙しいから」
「え、そんなにあるんですか」
二人はいつしか、砕けた話し言葉になっていた。
「それで従業員、ウエイトレスとかウエイターはどうするんですか?」
「来週の新聞に載る予定で、募集広告を出してあるから、電話が来たら面接しないとね。在留届、どうでした?」
「あんなの、なんの役に立つんですかね、九月四日と書いて、苦労して死ぬか、って思ってしまいましたよ」
すると丸山が、鈴を転がすような声で笑い出し
「お店のために、そうしてくれると嬉しいわね」と冗談とも本気とも取れる言い方をし、狭間を見つめ、心なしか目を潤ませた。
狭間は、ドキッとしたが、嬉しさの欠片だけを顔に表した。
間口は狭いが、奥行きのある店内。
入り口に向ったキッチンと六人がけカウンター。
全体が白黒のツートンカラー。
入って左右の壁は鏡張り。
三つの四人がけテーブルといった、いたってシンプルな内装の店が出来上がった。
合計二十二の客席、従業員数、延べ八人、常時三人、土日で四・五人という、小さな「寿司丸」は十二月一日開店と決った。




