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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

星墜つる

作者: 藤岡柊哉

 まだ残暑の抜けきらない九月の中頃のことだ。

 今でも覚えている。

 午後の熱気が少しずつ収まりつつある夕暮れ。わずかに夏の燦めきを残す空は夕焼けに染まり、真っ白な校舎の壁を赤く照らす。文化祭の話し合いがあっていつもより帰りが遅くなった僕は、いつものように一人校舎裏の砂利道を歩いていた。校庭では野球部が練習をしているはずだけれども、その声は校舎から響く管弦楽部の演奏や合唱部の歌声に掻き消され、校舎裏までは届いていなかった。皆秋に迫る大会にむけて熱心に練習しているらしく、放課後の裏門は音色で満ちていた。どこか不吉めいた、嘘みたいな色の夕暮れ空を見上げ、僕は門をくぐろうとした足を止めた。教室にした忘れ物を思い出したからだ。

 今でも覚えている。

 普段は忘れたりしないのになんで今日に限って、と愚痴をこぼしながら砂利道を引き返した。僕の教室は校舎の三階にあるから、階段を上るのは非常に面倒だ。その時、しっとりと吹いていた風が突然強まった。風の音に掻き消され、数瞬、僕は世界から取り残された。直後。

 どんっ。と、大きな音が少し後ろから聞こえてきた。まるで何か大きな重いものが、高いところから落ちてきたような、そんな音が。まさか、と思い振り返った僕の目の前には、よく見慣れた少女が、見たこともない形で転がっていた。

 音を聞いた生徒が廊下の窓から顔を出し、悲鳴を上げていた。僕は驚きのあまりその場にへたり込み、ただ呆然と少女だったものを見つめていた。近くの裏庭で練習していたらしい演劇部員が悲鳴を聞いて駆けつけてきて、さらにどんどん人が集まってきても、僕は動けないままだった。

 それ、もしかして、仁衡さん……? 誰かがぽつりとつぶやいた。そう、それは確かに、僕のクラスメイトで、幼なじみの、仁衡百合だった。


*   *   *


 九月も終わりに差し掛かり、風が涼しげな顔で僕らの隣を吹き抜けていく季節になった。昼休みの教室は、近づく文化祭のせいか浮き足だった雰囲気が充ち満ちていて、つい先日のことがまるでなかったかのようだ。

 仁衡は事故死だった、と担任は言っていた。彼女が一人で屋上に上がっていくのを、同じ部活の女子生徒が何人か見ていたらしい。それなら自殺なんじゃ、とまでは誰もが考えるところだけれど、明るく友達も多かった仁衡に限ってそれはありえないだろう、ということだろう。屋上にも遺書なんかはなく、遺体も靴は履いたままだった。出された結論は、仁衡が何らかの理由で屋上のフェンスがない場所に出て、足を滑らせたのだろう、というもので。でも、僕は確信している。仁衡は絶対に事故死なんかじゃない。普段の言動から勘違いされがちだけれど、彼女は実は聡明で、とても死の危険を冒すような子じゃなかった。きっと誰かが、彼女を、彼女を……。

 「志波君ってこのクラスで合ってる?」

 教室の入り口から不意に名前を呼ぶ声が聞こえて顔を上げる。そこには見慣れない少女が壁に片手をついて立っていた。なんだか偉そうだけれども、一体誰なんだ。

 「はぁ、僕が志波ですけど、君は?」

 「ここじゃなんだから、ちょっと場所を変えない?」

 言われるままに僕は四階にある美術室まで連れて行かれた。昼休みの喧噪からは想像もつかないほど静まりかえったその空間に、名前も知らない女生徒と二人。独特の匂いが鼻を突く。

 「一体、何の用ですか。そもそも君、誰なんです」

 「自己紹介がまだだったね、ごめん。私は佐倉。志波君に聞きたいことがあってね」

 「僕に聞きたいこと? 一体何さ、僕なんかに何の用が……」

 「仁衡百合さんのこと」

 顔から血の気が引くのを感じた。なんなんだ、この女は。なんで仁衡のことを聞きたがるんだ? 仁衡のことは校内ではかなり有名になっている。が、それはただの不幸な事故として扱われているはずだ。二週間近く経った今になって、彼女のことを聞こうとするなんて、一体――

 「あれ、志波君、仁衡さんと仲がよかったって聞いたんだけど、違ったかな。もし私の勘違いだったらごめん。」

 動揺する僕を尻目に、あっけらかんと彼女は言う。

 「もし仲がよかったとして、仁衡と君に何の関係があるのさ」

 「だって、君は気にならないの? 仁衡さんの噂を聞いて」

 「噂?」

 「仁衡さん、本当は事故じゃなかったんじゃないかって」

 手のひらが汗でじっとりと湿るのを感じた。ああ、その通りだ、彼女が事故で屋上から転落なんてするわけがない。

 「でも、それは君が仁衡について知ろうとする理由にはならない」

 「私もちょっと訳ありでね。どうしても、彼女の死の真相を暴かなきゃいけないんだ。君にとっては気分がよくないかも知れないけど、協力してくれないかな」

 彼女はしっかりとした目線で僕を見据えて言う。その瞳は、僕ではなくどこかもっと遠くを見つめているようにも思えた。たじろいだ僕は言う。

 「協力って、なにをさ」

 「私、仁衡さんとは直接の面識がなかったから、私一人で色々調べたり聞いたりするのには少し無理があるんだよね。周りの目もあるし。でも、仁衡さんと仲がよかった君が真相を知ろうと調べ回っているってなったら、まるで漫画か小説みたいで、ほら、周りも厳しくは咎めないでしょう?」

 「なるほど、つまり僕を隠れ蓑にしたいってわけか」

 「まあ、そういうことだね。君だって知りたいでしょう? 仁衡さんが何故死んだのか」

 もちろんだ。僕は仁衡を殺した相手を許せない。たとえそれが誰であってもだ。仁衡が、あんなに健気で、明るい子が、殺されて良いわけがない。

 「悪くない話だ。いいよ、協力しよう。僕もこのまま全部終わるのには納得がいかなかったんだ」

 「ありがとう、話が早くて助かるよ。早速色々やりたいところなんだけど、もう昼休みが終わっちゃうから」

 時計を見ると、予鈴が鳴るまであと数分しかなかった。ただでさえ目立つ形で教室を出てきたのに、これで授業に遅れたら周りに何を言われるかわからない。

 「志波君、今日の放課後、文化祭の準備とかある?」

 「文化祭までは毎日かなあ。多分五時頃には終わると思うけど」

 うちの高校の文化祭は三年に一度しかない。だから皆夏休みが明けると時間を掛けてクラス展示や出し物の準備をする。うちのクラスも例外ではなかった。

 「そっか、じゃあ五時にまたここで。うちの美術部去年で廃部になってて、放課後は誰も来ないから安心して」

 「わかった、じゃあまた五時に」

 美術室から出て、急いで階段を降りる途中、どこかで見た顔の人とすれ違った。あれは確か、美術の非常勤講師の岬先生だったろうか。さらりとした長髪を後ろで一つにまとめている姿が印象的だったので覚えていた。次の授業の準備だろうか。階段を駆け下り、早足で廊下を進む。席に着いたのは、本鈴がなるちょうど二分前だった。


*   *   *


 西日が燃える焔のように差し込む美術室。四階の端に位置するこの部屋は壁の両面に窓があるので、一日中日が差し込む構造になっている。部屋を広くしても、散らかった石膏像やらイーゼルやらが場所をとっていては意味がないんじゃないか。そんなことを考えていると、一〇分ほど遅れて佐倉が現れた。

 「待たせてごめん。ちょっと野暮用で」

 「僕も来たばかりだから平気。それで、これから何をするつもりなの」

 「まずは君の話を聞かせて。噂では最初に仁衡さんを見つけたの、君なんだよね」

 僕は彼女にあの日の放課後の仔細を話した。あの奇妙で生ぬるい風を、死を孕んだ夕景を、忘れはしない。

 「なるほど、そのとき屋上に彼女の姿を見なかった?」

 「屋上なんて見てなかったからね。もし見上げれば彼女がそこにいたのかもしれないけれど」

 そう、彼女を突き落とした犯人もだ。もしもあのとき僕が屋上に視線を向けていれば、彼女は――。

 「そっか、ありがとう。じゃあ次は聞き込みかなあ。仁衡さんが屋上に行くのを見たって子たち、誰なのかわかる?」

 「ああ、うん。仁衡と同じ吹奏楽部の子たちだよ。多分今もどこかで練習してると思うけど」

 「よし、じゃあ今から聞きに行こう」

 佐倉は勢いよく立ち上がると、僕に案内をせがんだ。行動力の塊みたいな人間だ。

 案内しろと言われても、吹奏楽部は楽器ごと、パートごとに別れて練習しているし、その場所は毎日変わるので、どこにいるのかは見当もつかない。二人で校舎をふらふらと彷徨っていると、美術室とは反対にある階段の踊り場で練習する二人組の姿を見つけた。あの二人だ。彼女たちは、仁衡と同じクラリネットのパートだったはず。

 「あの、すいません。仁衡のことで聞きたいことがあるんですけど……」

 「仁衡さんのことで……?」

 怪訝そうな顔をする二人。そりゃそうだ、人の死に関わる話題なんだから。

 「実は僕、彼女の幼なじみで。彼女が何故不幸な事故に遭ってしまったのかを、どうしても知りたいんです」

 「ああ、そうなんだ。うーん、そういうことなら……」

 彼女たちが語ってくれた内容はこうだった。その日の練習場所は四階と屋上の間の踊り場だったらしい。いつものように練習していると、突然仁衡の携帯電話がなった。画面を見た仁衡は慌てた様子で、ごめん、少し出てくる、といって階段を上がり屋上へ出て行った、と。

 美術室に三度戻ってきた僕たちは、頭を抱えていた。

 「うーん、電話の相手がわからないとなんともなぁ……」

 「そうなんだよね。慌ててる様子だったらしいから、重要な内容だってわかってたのかも」

 「重要な内容かぁ。誰からだったんだろう、親とか、恋人とか……」

 「仁衡に恋人がいるって話は聞いたことないけど」

 「でも、いないって話も聞いたことないでしょう」

 「そりゃそうだけど……」

  そんなのは、仁衡がいない今では証明しようのない話だ。宇宙人がいるのかいないのか、の論争と同じくらいに平行線を辿りかねない。そのとき、不意に美術室の扉が開いた。

 「君たち、もうこんな時間なんだから早く帰りなさい」

 そこに立っていたのは、昼休みに階段ですれ違った岬先生だった。

 「ここを使うのは自由だけれど、部活でもないのにあんまり遅いと親御さんが心配するからね」

 時計に目をやると、もうじき七時になろうというところだった。半ば追い出されるような形で美術室をあとにした僕らは、明日の昼休み、また美術室に集まるという約束をしてお互い帰路についた。

 帰り道、僕の頭の中は仁衡のことでいっぱいだった。いつも明るく友達に囲まれていた仁衡。彼女が死んだことに、僕は未だに実感を持てずにいた。もともと根暗で友達の少ない僕にとっては、彼女のその朗らかさはまるで太陽のように感じられた。これは一種の信仰にも近い感情だった。僕は彼女のその屈託のない明るさに救われていたのだ。その彼女が、何故死ななければならなかったのか。見上げる空にはいまにも泣き出しそうな雲が愁いを帯びて佇んでいた。


*   *   *


 翌日。秋雨の降る中、僕と佐倉は屋上に二人立っていた。なるほどこうやって立ってみると、落下防止のフェンスは腰より少し上くらいの高さしかなく、存外心許ないものだった。校舎自体が古いせいなのだろうか。

 「このあたりだよね。仁衡さんが落ちたのって」

 「ああ、そのはずだと思う。確かに、フェンスの隙間になってて、足を滑らせたらひとたまりもないね」

 「でも、理由もなくこんなところに出てきて足を踏み外すとも思えない」

 「うん。やっぱり事故ってのは無理がある気がするよ」

 遠くに見える町並みが雨で煙る。彼女は最期に何を思い、何を見たのだろう。その死は、偶然だったのか、必然だったのか。降り続く雨は傘を伝い、雫になってまた地面へと落ちていく。ぽたり、ぽたりと。彼女が落ちてきたときの音が、耳に残って、消えない。

 「……君。志波君。聞いてる?」

 「……ああ、ごめん。なんて言った?」

 「思ったんだけど、昨日の二人、屋上と四階の間の踊り場で練習してたんだよね。ってことはもしあの日屋上に誰かがいたんだとしたら、反対側の階段から上っていった可能性が」高くないかな」

 ……なるほど。確かにそうだ。屋上に上がるには、美術室のある側の北階段か、反対側の南階段を使うしかない。南階段の踊り場をクラリネットが練習に使っていたのならば、もし誰かが屋上に行きたければ北階段を使ったはずだ。

 「北階段の屋上と四階の間の踊り場って確か……」

 「うん。さっき通ってきたとおり、用具置き場みたいになってるはず。練習に使われてた、ってことはないと思うよ」

 美術室から近いそこには、大量の道具や絵画が置かれていて、人一人が通るのにギリギリのスペースしか空いていない。ということはそこには放課後誰もいなかったはずだ。

 「じゃあ、三階と四階の間の踊り場を通った人がわかれば……」

 「もし誰かが屋上にいたのなら、特定できる可能性は高いと思うよ」

 佐倉がにやり、と笑みをこぼす。

 「放課後、また聞き込みだね」


*   *   *


 夕方になると雨はいっそう激しさを増し、長袖を着ていても肌寒いくらいに気温が落ち込んでいた。放課後に二人で聞き込みをするつもりだったが、当日誰がどこで練習をしていたのかがさっぱりわからないので、二手に別れて聞き込みをすることにした。もともとこういったことを自分がすると怪しい、という理由で僕と協力したいと言っていたはずなのにこれじゃあ意味がないのではという疑念はあったが、文化祭の準備が長引いたこともあって、とにかく時間がかかるのは避けたかった。

 校舎の一階と二階を歩き回っていろいろな部活動の人間に声をかけたがめぼしい成果が得られず、肩を落として美術室に戻ると、そこにはすでに佐倉が待ち構えていた。

 「佐倉、どうだった?」

 「うん、まあ、ぼちぼちかな。そっちは?」

 「まるで駄目。誰が通ったかどころか、自分たちがどこで練習してたかすらろくに覚えてなかったよみんな」

 「そっか。まあそんなもんだよね、仕方ない。今日はもう終わりにしよ、帰っていいよ、志波君」

 「ん、佐倉は帰らないの?:

 「私はまだやることが残ってるから。気をつけて帰ってね」

 こんな時間から文化祭の準備だろうか。首をかしげながらも佐倉に別れを告げ、美術室を去る。階段を降りようとしたところで、岬先生と鉢合わせた。

 「今日も文化祭の準備ですか? お疲れ様」

 「ありがとうございます。先生こそ、毎日お疲れ様です」

 「私は仕事ですから。もう暗いから、気をつけて帰ってくださいね」

「ありがとうございます、それじゃあ」

 すっかり遅くなってしまった。階段を駆け下り外に出る。雨は未だ止まない。あの日から僕は裏門を通って帰らなくなった。音が、止まない。

 

*   *   *


 夢を見ていた。小さい頃の夢だ。大好きだったテレビ番組のヒーローが、悪の組織と闘っている。僕はそれを画面越しに応援している。あの頃の僕は、純粋にその英雄に憧れていた。それは彼が僕にはないものを持っているからだろう。でもその夢では、ヒーローは闘うことをやめてしまった。ヒーローは変身を解き、普通の暮らしへと戻っていくのだ。悪の組織も何もない、ただの平和な世界の、平和な日常。誰も苦しまないはずのその世界で、僕は一人、画面を見つめ涙を流していた。


*   *   *


 昨日の雨が嘘みたいに晴れ渡った空。昨日何も約束しなかったけれど、今日もきっと、昼には美術室に佐倉がいるのだろう。そういえば、彼女は何年何組なのか。下の名前もしらない。僕は美術室へ向かって階段を駆け上がる。扉に手を掛けると、中から話し声が聞こえた。誰だ。耳を澄まして、会話を聞き取ろうとする。どうやら話しているのは佐倉と岬先生のようだった。

 「ですから……。……は仕方ないことだったんです」

 「仕方ないだって? よく言えたもんですね。いいですか先生、……。」

 なんだ、何を話しているんだ? よく聞き取れない。

 「よく聞いてください佐倉さん。仁衡さんは……」

 仁衡? 何故岬先生が仁衡の名前を口にしているんだ? 矢も盾もたまらず僕は扉を開けた。

 「岬先生、どういうことですか。今、仁衡って。仕方ないって。もしかして、あんたが」

 「志波君」

 佐倉が、初めて驚いたような表情を見せた。まさか何故ここに、といった顔だ。一方で岬先生は、いつもと同じ無表情で、僕をじっと見ている。

 「佐倉さん、話はまた後で」

 「ちょっと待てよ、先生」

 声を荒げたつもりだったが、うまく声が出せなかった。そのまま岬先生は行ってしまう。僕と佐倉の二人が美術室に残された。

 「佐倉、今一体、何の話を……」

 「志波君、ごめん、私、嘘吐いてた」

 「……え?」

 「私、本当は全部知ってたんだ。仁衡さんと岬先生のことも、仁衡さんが事故じゃなくて自殺したってことも」

 「待って、一体、何を、」

 訳がわからなかった。自殺? 仁衡と岬先生のこと? 一体、佐倉は、何を。

 「放課後、また、ここに来て。……傷つく覚悟があるなら」

 呆然と立ち尽くす僕にそう言い放って、佐倉は出て行った。訳がわからない。頭の中がぐちゃぐちゃだった。仁衡が自殺なんてするわけがない。あり得ない。佐倉は何を言っているんだ? 予鈴が鳴る。ゴーン、ゴーン。頭に音が響く。その音は呪いのように。


*   *   *


 午後の授業は何一つ身に入らなかった。授業が終わるとすぐに僕は教室を飛び出し美術室へと向かう。夕焼けがオレンジ色に染め上げるその部屋に、二人はすでに待っていた。

 「なあ、佐倉。一体どういうことなんだ?」

 「志波君。来たんだね。話すよ、全部」

 泣きそうな顔をする佐倉。泣きたいのはこっちだ。ぽつり、と佐倉が話し出す。

 「仁衡さんはね、岬先生と付き合ってたの。もちろん、非常勤とはいえ教師と生徒って立場だから、公にはできなかったけど。そして、私はそのことを知っていた。……実は私、不登校でね。ここ一年はずっと保健室登校してたんだ。そこで保健委員だった仁衡さんと知り合って。仁衡さん、部活の合間とかに私に会いに来てくれて、励ましてくれて、学校通えるようにって。いろんな話をした中で、岬先生の話も……」

 岬先生は、窓の外の夕焼けを見つめている。表情は見えない。

 「彼女が死んだって聞いて、私、信じられなかった。殺されるような子でも、自殺するような子でも、屋上からうっかり落ちるような子でもなかったから。あり得ないって思った。それで、本当のことを知りたくて、仁衡さんの話によく出てきてた君に、協力を持ちかけたんだ。ここまでは本当。でも、彼女と面識無い、ってのは嘘だったんだ。ごめん」

 彼女が一人で仁衡について調べられなかったのは、不登校故に、校舎内で不用意に目立つ行動ができなかったからか。

 「電話を受けて慌てて出て行ったって聞いたときから、だいたい予想はできてたんだ。電話の相手も、仁衡さんが何で死んだのかも、全部。でも、確証がなかった。だから私、志波君と二手に別れて聞き込みしようって提案したの。その時間を使って先生を問いただすために。ね、先生?」

 頭が真っ白になっていた。急にたたきつけられた大量の情報に脳が麻痺している。今すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。でも、できない。聞かなければ。彼女の死を。

 岬先生は、窓を開けるとポケットから煙草を取り出し、火をつけた。ゆっくりと口を開く。

 「私が電話で言ったんです。君のことを考えれば、こんな関係はよくない、もう終わりにしよう、って。もちろん彼女は聞き入れてくれませんでした。私は無理矢理に別れを告げて、電話を切ったんです。そしたら、あんなことに……」

 「あんなことに、じゃないでしょう。あんたが、仁衡さんを殺したんだ」

 感情的な佐倉の声。泣いている。なんで、なんで。

 「仁衡さんはほんとにあんたのことが好きだったんだよ、なのに、それなのにあんたは」

 「仕方が無かったんです。彼女は今年受験を控えていたし、私だってもしばれれば職を失いかねない。元々、歪な関係だったんです」

 「うるさい! 返せよ、仁衡さんを返せ!」

 もう、もうやめてくれ。これ以上、彼女を冒涜しないでくれ。昨日見た夢を思い出す。僕は絶対的な魅力を、自分では決して届かぬ英雄を信仰していた。地に落ちた鳥に、日和ったヒーローに誰が夢を見られるのか。

 崩れる。憧れが死んでいく。目の前では佐倉が先生の胸ぐらにつかみかかっていた。返せ、返せ、と壊れたおもちゃのように泣き叫ぶ佐倉。それを冷めた目で見下ろす岬先生。もう、たくさんだ。

 「やめろ!!」

 怒号をあげて二人の間に割り込む。体勢を大きく崩した佐倉が、とっさに手を伸ばした。その先にあったのは、先生が今し方開けたばかりの窓で。心臓をわしづかみにされたような気分になった。倒れる勢いそのままに、佐倉が、夕景へと消える。目が合った。その双眸は最期に確かに僕を映した。強い風が吹き込み、僕は世界から切り離された。

 どんっ。まるで何か大きく重いものが――。



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