第七話
…………
……痛い。なんだこれ。右の頬がなにかに引っ張られている。
俺は軽い痛みを覚えながら、ゆっくりと目を開けた。
途端、視界いっぱいに広がったのは、青々とした木々と、そのすき間からわずかにのぞく青い綺麗な空だった。
「……ここは、森? なんで森の中で寝て」
はっきりしない意識のなかで、記憶をぼんやりと思い返す。
確かドラゴンが現れて、次に空飛んで、なんか急に意識が、
「って、ドラゴンはっ!?」
慌てて起きあが――
「ぐえぇっっ!?」
――れなかった。
なにかに頬を引っぱられたのだ。しかももの凄い力で。
「おっと、すまん。放すのが遅れた」
「……っ」
遅れて、ぱっと頬が解放される。すかさず頬に手を添えた。ガチでちぎれるかと思った。
ジンジンと痛む頬を優しくさすりながら、俺は声の聞こえた方向、右隣へと視線を向ける。そこには見たこともない女の子の姿があった。彼女はぶらぶらと手を振りながらこちらを見つめている。
地面に直接座っているため、俺を見下ろす形になっていた。
「だが、いきなり起き上がるお前も悪い。もう少しゆっくり目を覚ませないのか?」
「……なんかいきなり、めちゃくちゃ理不尽なことを言われている気がする」
とはいえ言われた通り、ゆっくりと体を起こす。今度はすんなり起き上がれた。思わずため息がでてしまう。
「おい、なんだそのため息は。それではまるで私が『ウザいヤツ』みたいではないか」
「いや、さすがにそれは被害妄想すぎるけど」
再び少女へと目を向ける。
やっぱり見たこともない女の子だ。でもすごく可愛い女の子だった。
見た感じ同い年ぐらいだろうか。きらきらと輝く金髪を左右で結った、いわゆるツインテールの髪型に、どこか猫を思わせる強気そうなつり目。肌は透き通るように白い。
しかも彼女、黒い綺麗な着物を着ていた。この世界にも着物があるのかと少し驚いたけど、その姿がすごい様になっていたから、ついつい見惚れてしまった。
「まあ、たとえ『ウザいヤツ』と思われていようが別に構わない。私のことを例えどう思っていようとどうせお前は私のものだからな。とことん役に立ってもらうぞ」
しかし、それもほんの一瞬のことだった。
「は? なんだよそれ。どういうことだ?」
聞けば、少女はさも当たり前のようにそれを言う。
「空から降ってきたお前を助けたのはこの私だ。なぜ降ってきたのかは知らんがどちらにしろ、私がいなければ今ごろお前は死んでいたことになる。ならばお前の命は私のものも同然。よってお前は私のもの。そういうことだ」
「いやいや、なにそのあり得ない恩着せ。確かに助けてくれたのはマジありがとうだけど、さすがにそれは暴論すぎるだろ」
「なにが暴論だ。今のお前は言ってみれば一度死んで、また蘇ったようなものだ。そして当然蘇らせたのはこの私。ならば忠誠を誓うのは当たり前だろう?」
「…………」
この子の辞書には、遠慮という言葉が存在しないんだろうか。なんだか早くも日本が懐かしくなってきた。
「わ、分かった。だったらしばらくの間荷物運びぐらいはするからさ。それで勘弁してくれ」
「……まあ、いいだろう。と言っても、見てのとおり私は今、完全に手ぶらだがな」
言われてみれば、森の中だというのに少女はずいぶん軽装だった。まさしく着の身着のまま。荷物らしきものは何一つ持っていない。
これがこの世界のデフォルトなんだとしたら、思ったよりも魔法に頼りきりになってるんだな。この世界の人間は。
「って、荷物と言えば。なあ、この近くにリュックサックって落ちてなかったか?」
「ん? 知らんな。空から降ってきたのはお前だけだったぞ?」
「そうか……」
空を飛んでいたときにでもどこかに落としたんだろうか。
あのときはかなり動転していたからな。全然気づかなかった。
「つーかやべぇ。いきなり食料も水もなしで遭難かよ。ってかここどこだよ」
ドラゴンから逃げることに必死で、下をまったく見ていなかった。城からそう離れていなきゃいいけど。
「ここがどこかなら分かるぞ。あれを見ろ」
少女がどこかを指差す。つられてそちらへ目を向ければ、なにか、遠くに黒い物体が見える。木々のすき間からわずかにのぞいているだけだけど、ずいぶんでかそうだ。
「なんだあれ? 木、じゃないよな」
「あれはルールの〝核〟だ」
「え?」
弾かれたように少女の方を見る。彼女の横顔は真剣で、その瞳はどこか遠く、あの黒い物体よりもさらに遠くを見ているかのようだった。
「あれが……ルール?」
もう一度黒い物体へと視線を戻す。
てっきりルールってのは魔法だから、目に見えないもんだとばかり思っていたけど、それとも〝核〟ってのになにか関係があるのか?
まじまじと見つめてみる。でもやっぱりここからじゃよく見えない。
なんだかいきなり過ぎて若干混乱しているけど……とにかくあれがルールっていうんならあれがこの世界を苦しめる元凶で、俺の敵だっていうことだよな。じゃあ、
「さっき荷物運びをするって言ったばかりで悪いんだけどさ。君、ちょっと付き合ってもらえないか? 今すぐ行きたいところがあるんだ」
「それは別に構わないが、どこに行くというんだ?」
「あそこ」
俺が指さした先、そこには黒い物体、いや――ルールの核があった。
◇ ◇ ◇ ◇
目的の場所はそう遠くないところにあった。距離にしたら一キロもなかったと思う。
そこにたどり着くまでの間、ついでに彼女、和装少女と少し話をしてみた。
結果、いくつか分かったことがある。
まず分かったのは彼女の名前。ルゥ・アドレイアというらしい。年は十六で、やはり同い年だった。
あと彼女、自分のことを旅人と言っていた。なにかを探しているとも。
旅人にしては軽装すぎるだろうと思ったけど、魔法があるから大丈夫だとか。やっぱここ、魔法の世界だわ。俺の世界で言うところの「スマホあるから大丈夫」だろうか。にしても不用心すぎる。
そして彼女、色々とてきとう過ぎる。荷物に関してもそうだけど、「どうして気絶している俺の頬を引っ張っていたんだ?」と聞いたら、彼女少し間をあけてから、「なんとなく」と返してきた。
なんとなくで頬を引っ張られ、そのせいでわざとじゃないとはいえちぎれるんじゃないかってぐらいの痛みを経験したんだから、さすがに怒る。そこんとこ注意したら、今度はすねられた。マジめんどくせぇー、と思ったのも仕方がないと思う。
そんで、ルゥ(最初に「アドレイア」と呼んだら怒られた。なんでも似合わないからだとか。確かに)の機嫌を直していたら、目的の場所にたどり着いた。ひらけた場所に出る。
で、当然そこでルールの核とやらを拝見したんだけど、
「これが……そうなのか?」
俺は、それしか言えなかった。
目の前にそびえ立つルールの核。それは、意外にも一度見たことがあるものだった。あのときは空の上からだったけど。
それは――大きな石板だった。最初に見たときは遠かったこともあり分からなかった。でも、なにか文字らしきものが書かれている。読めない。しかしそんなことは今さして重要ではなかった。
この、ルールの核とかいうやつ……なんだかすごく怖い。寒気さえする。
「これは確かにルールの核だ。〝象徴〟とも言われているがな」
「象徴……?」
どうにか隣へと顔を向ける。
と、なぜかルゥは悲しげな表情をしていた。しかも彼女、おもむろに石板へ近づくと、優しく手までそえた。怖くないんだろうか?
「〝永遠に争いが続く世界であること〟」
「……? なんだ?」
「お前は字が読めないのか? これにそう書かれているんだ。ああ、まさに争いを生み出す〝絶望の象徴〟ではないか。ルールを発動した魔法使いは、とんだバカヤロウだな」
「バカ? ひどいじゃなくて?」
「バカだよ。大バカだ。ほんとうに」
そう言ってはいるが、その声から伝わってくる感情はどこまでも悲しみしかなかった。
不謹慎かもしれないけど、その声を聞いたら少し気分が落ち着いてきた。だからもう一度しっかりルールの核を眺めてみる。
ローマ字に似たものが筆記体で書かれているみたいだけど、やはり何が書かれているのかはまったく読めなかった。
まあ、当然か。ここは異世界なんだから。
「…………」
って、そういえば、今まで普通に話せてたから気づかなかったけど――なんで俺はこの世界の言葉が分かるんだ? それに相手もなんで俺の言葉が分かるんだ? 今更ながら不思議に思った。
俺は日本語を話しているはずだし、相手の言葉もなぜか日本語で聞こえる。外国ならまだしも、ここは異世界だ。分からない、伝えられない、読めないが普通なはず。
もしかしてアリーシャがなんかしたのか? ……いや、でもフード男の言葉も日本語で聞こえたっけ。よく分からん。
「なあ、ひとつ聞きたいんだけど――」
「あ? うそだろ? なんで今、てめぇがここにいる?」
と、そのとき、後ろから突然声が聞こえてきた。なんの気なしに振り返る。
「っ!」
直後、俺は息をのんだ。と同時に目を見開く。
「っていうかありえねえだろ。近くにルール以外の魔力は感じられないし、護衛もなしでここにきたのか? それともそこの嬢ちゃんが護衛だってか? 大した魔力もねえ嬢ちゃんが。……てめぇ、なめてんのか?」
「お前、は……」
鼓動が早まる。一瞬で、頭のなかを恐怖と絶望が埋め尽くした。
俺は、そいつが近づいてきているというのにまた、それを見ていることしかできなかった。
「あれは俺たちにとっちゃ神様みたいなもんだ。神を蔑ろにする信仰者なんているわけねえだろ。しかもその神を殺そうとしている、そしてできるヤツが現れれば尚更だ。それをてめぇ、ノコノコと」
男の声には、呆れと若干の怒りがこもっていた。深いため息をつきながら、まもなくそいつは足を止める。俺のすぐ目の前で。
――あのときと同じだ。それでもやはり俺は動けない。
そいつ、フード男はあのときと同じように手を振り上げ、剣を持ち、言った。
「もういいや。てめぇここで死――」
が、次の瞬間、彼は目の前から姿を消した。一瞬で。
「……え?」
かわりに轟音と、ルゥが目の前に現れる。
……というか今、速すぎてよく見えなかったんだけど……もしかして蹴った? あのフード男を。それで吹っ飛んでった? あそこまで。視線を横にスライドさせる。
なんか木に突き刺さっていた。比喩ではなく、マジで突き刺さっていた。しかも頭から。
あれ、死んでるんじゃないのか?
「それは貴様だ。私のものに手を出すな。ぶっ飛ばすぞ。それと言っておくが私は貴様の百倍強い。貴様こそなめるな」
「いや、もうぶっ飛ばしてるんだけど……って」
生きてた。突然ガッと木を両手で鷲掴みしたかと思うと、男は力ずくで頭を抜き出した。けど、その状態のまましばらく固まる。
「まじかよ。あれで生きてるとかどんだけ頑丈なんだよ」
「おそらくぎりぎりで魔法を使って、木の中身をなにか柔らかいものにでも変えたんだろう。思ったよりもやるようだ。それでも私のほうが九十八倍強いがな」
「お前、プライド高いな」
どうやら、俺の中にあった恐怖やら諸々も一緒に吹き飛んでしまったらしい。つっこむ余裕すらある。
「……おい、嬢ちゃん。あんた一体なにもんだ? 今のはかろうじて何とかなったが……正直、勝てる気がまったくしねえ」
やがて、フード男はおもむろに体を起こすと、こちらに振り返った。頭をぐるりと回し
ながら、両手を上げる。お手上げ、ってことだろうか。
「当たり前だ。私に勝てるヤツなぞいるわけがない。こんな、腐りきった世界にはな」
「いや、それは違う。あんたは確かに強いが一人だけ、俺は知っている。あんたよりも、この世界の誰よりもはるかに強い男をな」
「ほう」
たちまちルゥの視線が鋭くなる。それは怒りか、警戒か。
そんな彼女の視線も無視して、今度は俺に、男の目が向く。
「おい小僧。命拾いしたな。せいぜいそこの嬢ちゃんに感謝するこった」
「あ、ああ、そうだな」
思わず返事がぎこちなくなる。それは恐怖からくるものではなく、また違う理由からくるものだった。はっきり言えば、若干の気まずさか。
「まあ、一つだけ忠告しといてやる。てめぇはもっと自分が、今この世界でどれだけ重要な存在になっているのか理解したほうがいい。てめぇは良くも悪くも注目されてんだ。いろんな理由でな」
「…………」
フード男の言っていることは正しい。正しすぎる。
確かに俺は、理解していなかったかもしれない。救世主になる、ということを。俺は別に救世主として振る舞うつもりはまったくないけど、周りは違う。良くも悪くも注目し、接触しようとしてくるだろう。あいつの言うとおりだ。
ノコノコこんなところまで来るなんて、不用心すぎる。これはルゥのことをとやかく言えないな。
「ありがとう、ルゥ。助かった」
「べ、別にお礼を言われるようなことではない。ここで死なれてしまったらわざわざ助けた意味がなくなってしまうからな」
ああ、そうか。これで二度命を救われたことになるのか。いよいよ頭が上がらないな。
「……荷物持ち、頑張らせていただきます」
「おう。が、がんばれよ?」
慌てた様子でそう言うルゥが、なんだか少し、おかしかった