第六話
一瞬の浮遊感の後、また穏やかな風が俺の頬を撫で始める。空気が変わったとすぐに分かった。
なんていうか。肌がちょっとピリピリしている。変な感じだ。けれど不快とまではいかない。気にしなければどうということもないだろう。
そんなことを思いながら、思わず閉じてしまったまぶたをゆっくりと開ける。
目の前に広がった光景は、まさに異世界、という言葉がよく似合うものだった。
「う、わー……」
驚きのあまり逆に平坦な声がでてしまう。
といっても、別にそこまで常識はずれな光景が広がっているわけではない。ドラゴンが空を飛んでいるとか、空が赤いとかそういうことはない。空は青いし、飛んでいるのは雲だけだ。
けど……視線を左右にふる。たぶんここはどこかの山道なんだろう。深そうな森が広がっていた。ずいぶんのどかな景色だ。――これだけならな。
再び視線を正面に戻す。そしてそれを見上げた。それは、大きな城だった。いや……
「マジふざけてる」
大きすぎる城だった。いったい何千人住んでいるのか、っていうぐらいの規模。まるで山だ。ここから結構距離が離れているはずなのに、存在感がすごすぎる。
推定だけど、高さ二千メートル近くはあるかもしれない。デザインとしては日本よりも外国寄り、特にヨーロッパにでもありそうだ。全体的に白く、所々とんがっている。
まあ、綺麗な城ではあった。ただ大きすぎて、でかい、という感想しか出てこないけど。
「……ユウさんが今何を思っているのか。なんとなく分かります。だから最初に言っておきますが実はあの城、魔法でつくったものなんですが、私が所属する組織の総本部なんです」
突然横から声が聞こえてきた。反射的にそちらへ顔を向ければ、すぐそばにアリーシャが立っていた。 彼女もまた、無表情で城を見上げている。
「え? あれも魔法なのか? ってかあれが総本部って、どんだけでかい組織なんだよ」
「いえ、組織自体はそこまで大きくはありません。メンバーも三桁はいませんし、うちは少数精鋭なんです。あの城は、なんというか……見栄とプライドが爆発した結果できたなれの果て、と言えば分かりますかね」
「なにその無駄過ぎる爆発」
心の底からそう思った。
「はい、私もそう思います。……が、残念ながら、私たちは今からあの城に向かわなければいけません。本当に残念ながら」
「めちゃくちゃ嫌そうだな。……ん? でもそれなら、もっと城の近くに転移すればよかったんじゃないのか?」
「それはできないんです。実はここから先、目には見えませんが強力な結界が何枚も張られていて、城の中以外は転移ができないようになっているんです。一応あれも私たちの総本部なんで、奇襲とかされたら大変ですからね」
「ああ、なるほど」
確かに転移なんて魔法があったら奇襲されほうだいか。そりゃあ対策ぐらいするよな。
でも、そうなると。
「じゃあ、あの城まで歩いていかなきゃいけないのか。でかすぎていまいち距離が分からないんだけど、ここからどのぐらい離れているんだ?」
「歩いて一時間程度といったところでしょうか。本当なら魔法で空を飛べば楽にいけるんですが、すみません。今私ほとんど魔力がないんです。なので面倒かもしれませんがつき合ってもらえませんか?」
「……まあ、陸上部の練習に比べれば楽だしな」
そう思うことにする。
しかしこれはまた、思ったよりもずいぶんのんびりとした始まりになりそうだな。俺の異世界生活。
色々と決意してこの世界にやってきたはずなのに……なんか出鼻をくじかれた気分だ。
「では、行きましょうか」
「ああ」
でも、これはこれで悪くないのかもしれない。少なくとも、いきなり命を狙われるよりは断然いいだろう。
それにこういった自然のなかをのんびり歩くというのは、どこか新鮮な感じがするからな。楽しいかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇
それからどれぐらい歩いただろうか。最初の頃は確かに新鮮味があってそこそこ楽しかった。
けど、そろそろ精神的にきつくなってきた。だって、景色が全然変わらないから。正直飽きた。
しかも相変わらず距離感がいまいちつかめない。まあでも、一応近づいてはいるんだろう。バカでかい城が、最初に見たときよりもさらに大きく見える。
なんかもう……魔法マジ魔法。その一言に尽きた。
「なあ、あの城つくった魔法使いっていったいどんなヤツなんだ? ってかほんとにあんな城つくっちゃう魔法使いよりも、俺のほうが魔力っての多いのか? やっぱ信じられないんだけど」
あんなの、つくれと言われてもまるでつくれる気がしない。いやまあ、たとえ出来たとしてもあんなデカブツつくりたくはないけど。絶対陰でなんか言われそうだし。
実際、アリーシャ嫌がってたしな。先ほどのことを思い出しながら、ふと隣を歩くアリーシャに視線を向ける。
「…………」
――と、なぜか彼女は死にそうな顔をしていた。
「ぶっ! お、おまっ、なにがあった!?」
「…………」
聞くが、アリーシャは何も答えない。ただ一応聞こえてはいるようで、顔だけは向けてきた。……完全に目が死んでいるけど。
「ほんとなにがあったっ!?」
よくよく見れば、彼女の体は小刻みに震えていた。しかも汗びっちょり。
見た感じ、なにかに耐えている様子だった。
「も、もしかしてどこか苦しいのか!?」
「…………」
しかし彼女はぎこちなく、ふる、ふる、と首を横に振る。どうやら違うらしい。
なら一体なにがっ、と軽くパニックを起こしそうになったが、ぎりぎり、俺はそれに気づいた。
それは彼女の足。アリーシャはどうしてか凄い内股になっていた。まるで生まれたての小鹿のように、ぷるぷると足が震えている。
――ま、まさか。
「もし違ってたらごめんだけど、もしかしてアリーシャ……トイレ?」
「…………」
と、返ってきたのは無言の肯定だった。それに気のせいだろうか。少し耳が赤くなっているような気がする。もしかしたら恥ずかしがっているのかもしれない。
いやいや、そんな場合じゃないだろっ。
「ちょっ、なんで言ってくれなかったんだよっ。もう死にそうじゃんっ。い、いや、今は先に問題を解決しようっ」
問題は、ここが森の中だということだ。たぶん近くにトイレなんて便利なものはないと思う。あるとすればあの大きな城の中。だけど、まだまだ遠そうだ。
もしこれが男だったら、最悪森の中でする、という選択肢もとれる。しかし相手は女の子。しかもかなり真面目な子だから、その選択肢は本当に最悪の状況、すべての選択肢が消えたときこそ選ぶべきだろう。
なんて言っても、他にとれる選択肢なんて……
「そ、そうだ! 魔法は!? 魔法でどうにかできないのか!?」
あれから数十分は経っているんだ。魔力がどのぐらいのスピードでどの程度回復するのか分からないけど、少しぐらいは回復していたりしないんだろうか。
「…………」
けれど、アリーシャは相変わらず黙って、こちらを見つめてくるだけだった。その場を動こうとしない。
やっぱりまだ魔力回復していないんだろうか。……いや、それとももしかして。
「なあ、もし俺のこと気にしてるんだったら気にしなくていい。目的地があんなバカでかい城だったら迷うわけもないし。もしまた襲われたとしても今度はすぐに逃げるからさ。だから、少しでも魔法使えるんだったら俺のことは気にせず使ってくれ」
そう言えば、図星だったようでアリーシャは目を見開き、やがて何事かを考えるように下を向いた。
ここで即答しないところが実に彼女らしい。別に考えることでもないと思うけどな。
そうしてしばらく待てば、まもなく彼女は顔を上げ、こくりと頷いた。そしてすぐに、
「おおー」
ふわりと浮かび上がると、
「うをっ!」
次にものすごいスピードで城に向かって飛んで行った。あっという間に見えなくなってしまう。
よほどヤバい状態だったんだろう。でもあれなら、ものの数分で城に着くはずだ。どうか間に合ってくれと切に願う。
だって、今まで何も言わず我慢していたのはおそらく、俺に迷惑をかけないため、とかいらない気をつかっていたからだと思うから。
それに、今気づいたけど昨日とかももしかしたら、真面目な彼女のことだから護衛対象から離れるなんてあり得ない、などと考えてトイレにも行っていないんじゃなかろうか。
なら、その間一体どうしていたんだと少し気になるところだけど、残念ながら聞く相手が今そばにいない。覚えていたら、また後にでも聞いてみよう。そう思いながら、俺は再び歩きだした。
「って、そうか。俺一人なら別にわざわざ歩いていく必要もないじゃん」
けどすぐに足を止める。
ここは魔法の世界なんだ。人の目を気にしなくていいんだったら、使えるものはどんど
ん使っていこう。
「ってことで、俺も飛んでいくか」
言葉にした瞬間、言いようのない興奮が腹の底から湧き上がってきた。
やっぱり、魔法で空を飛ぶとか男の夢だよな。
アリーシャのように飛ぶのは難しいかもしれないけど、でも、やってみるか。
目をつぶり、イメージする。自分が地を飛び立ち、空へ空へと浮かび上がっていく姿を。
今まで何度も魔法を使ってきたんだ。これぐらいなら簡単にできる。あとはそのイメージを現実の自分に重ねればいい。
俺は目を開け、自分が空へと浮かび上がる姿を幻想した。途端、
「お、おおー。おおおおー」
浮いた。浮いているっ。俺はどんどん空へと浮かび上がっていった。
よし。こうして魔法がうまく発動したなら、あとは頭の片隅で飛んでいる姿をイメージし続ければいい……んだけど、なんかこれ、自分で自分を操作している感じなんだよな。やっぱりちょっと違和感がある。
けど、まあいいや。それより空を飛ぶって、
「なにこれ。すげぇ気持ちいいんだな」
地に足がついていないだけで、俺は自由だー! なんて気持ちになってくる。なんだかとても清々しかった。
そうやってある程度浮かび上がったところで、ふと止まる。そして眼下を眺めた。
「これが、異世界の風景か」
第一印象はやはり、〝のどかだな〟だった。
当たり前だけど日本の風景とはまるで違う。全体的に自然が多かった。
まず、あのバカでかい城を囲むようにして広大な森が広がっていて、その森を抜ければ町らしきものがいくつか見える。またその先には、再び広大な森が広がっており、
「って、ん? なんだありゃ」
森の中に、ぽっかりと穴が空いたように草原が広がっていて、その中心に大きな石板みたいなのが建っていた。数十メートルはあるかもしれない。明らかに森の中で浮いた存在になっていた。
いや、さすが異世界だな。意味が分からん。
あれが一体何なのか、考えてもどうせ分からないから、俺は考えるのをすぐにやめた。視線をさらに先へと移す。
「で、その森を抜ければまた町らしきものがいくつかあって、町をこえれば今度は、うお、砂漠だ。ただっぴろい砂漠が広がっていて、その先に……おいおい、うそだろ?」
俺は自分の目を疑った。なんか砂漠の中心にふざけたものが建っている。砂漠にはまったく不釣り合いなものだ。
それは、真っ黒い大きな塔だった。いや、大きすぎる塔か。かなり遠くに建っているのに、ここからでもはっきりと見える。もしかしたら、あの真っ白い塔より大きいかもしれない。
ってか、ここまでくるとあれだな。この世界の人間はもしかしたら、でかい建物を建てることに一種の信念みたいなのがあるのかもしれない。やっぱり魔法の世界ともなると、そこに住む住人も軽くぶっ飛んだ考えを持っているんだろうか。
「俺、本当にこの世界に来て良かったんだろうか。元の世界に帰るとき、別人みたいになってたら嫌なんだけど……」
そしてそんなことを思ったときだった。
「ん?」
なにか聞こえる。なんだ? 反射的にそちらへ顔を向ければ、なにやらずいぶん遠くに鳥らしきものが見えた。
しかもそれは、だんだんこちらに近づいてきているようで、みるみるシルエットが大きくなっていく。
……お、おい、冗談だろ? あれってまさか。そして大きくなるたび、顔が引きつる。
だってあれ、う、うそっ、
「――ギャオーーーーーーッ!」
「ド、ドラゴンッ!?」
見るからにドラゴンですって風貌の巨大な生き物が、鋭い牙を生やした大口を開けてこちらに迫ってきていた。
「う、うわああああああああっ!!!」
ちんたらイメージなんてする余裕も暇もなかった。とにかく速く、もっと速く、もっともっと速く逃げろとひたすらに念じる。
……が、それは完全に失敗だった。
「うひゃあああああああ!!!」
次の瞬間、俺は頭が吹っ飛ぶんじゃないかってぐらい、そりゃあもうもの凄いスピードで空を飛ぶはめになった。思わずこぼした涙が風に混じってどんどん後ろへと流れていく。
あ。やばい。
「いしき、が……」
そしてまもなく、抗う暇すらくれずに俺の意識は、急速に闇の中へと落ちていった。