第五話
翌朝。俺はいつもよりだいぶ早い時間に目を覚ました。
時刻は午前五時ジャスト。音量は低めだけど寝起きの身には些かうるさい目覚ましを止め、のっそりと起き上がる。次いで軽く伸びをした。
「んんんーっ」
こんな早い時間に起きたのは結構久しぶりだ。正直まだ眠い。でも、意外と頭はすっきりしていた。
二度寝の誘惑を振り切るようにベッドをおりる。そしてそのまま窓際まで歩いていき、カーテンを開ける。たちまち朝日が目に染みた。
ある程度視力が回復したところで、外の景色をぼんやりと眺めてみる。
「…………」
見えるのは朝日に包まれた住宅街。毎日見ている景色だ。
なのに……どうしてこう、朝の景色を見ていると心が微妙に切なくなるんだろうな。人がいないからだろうか。
「って、まじか」
いや、人はいた。道路の真ん中に見覚えのある銀髪っ子が立っている。
彼女はじっと、家の二階に位置するこの部屋を、無表情で見上げていた。ちょうど目が合う。
アリーシャ、もう来たのか。それともずっとあそこで待っていたとか? ……あり得るな。
ちょっと手を振ってみる。ペコリとお辞儀を返された。
「はは、ほんと真面目な子だな」
待たせるのも悪いから、俺はすぐに窓から離れちゃっちゃと着替えを済ませると、静かに部屋を出た。
家の中はひっそりとしている。まだ誰も起きていないんだろう。こっちとしては好都合だ。できるだけ物音をたてないように抜き足差し足で廊下を歩き、階段をおりる。
そして軽く、洗面所でぱぱっと身だしなみを整えてから、リビングに向かった。
リビングにはテーブルを囲むように三つのソファーが置かれていて、その内の一つにリュックサックが乗っている。昨日、あらかじめ水筒やら食料やら必要そうな物を適当に詰め込んだリュックサックだ。それを背負うと、すぐにリビングを出た。
本音を言えばもう少しゆっくりこの朝の時間を過ごしたい。けど、そうしてしまうともしかしたら、せっかく決めた覚悟が鈍ってしまうかもしれないし、それに今外ではアリーシャが待っている。
だからそのまま立ち止まることなく玄関まで歩いていくと、扉に手をかけた。
「父さん、母さん、勇人」
そっと扉を開ける。途端、外の空気が我先にと家の中に流れ込んできた。
「――行ってきます」
それと入れ替わるようにして、俺は外へと身を乗り出した。
すると、冷たい朝の風がすっと頬を撫でていく。外は家の中同様ひっそりとしていた。遠くの方から時おり鳥の鳴き声や車のエンジン音などが聞こえてくるけど、昼と比べれば遥かに静かだ。
道路には相変わらず目当ての人物、アリーシャの姿しか見えない。駆け足で彼女の元に向かう。
「おはよう。いつからここにいたんだ?」
「おはようございます。いつからと問われれば、ずっと、でしょうか」
「は? ずっと? まさか昨日の夜からずっと待っていたのか?」
聞けば、アリーシャは何でもないことのように、はい、と抑揚のない声でうなずいた。
「いつまた誰が襲いにくるか分からなかったので、護衛の意味もかねて。もしかしてご迷惑だったでしょうか?」
「いや、そんなことはないけど……」
だったら声をかけてくれれば泊めるぐらいしたのに。真面目というか不器用というか。この子はほんと色々と損してそうだな。
「まあ、いいや。護衛ありがとな」
「いえ、お礼を言われるようなことは何も。それでユウさん、早速ですが答えはお決まりになりましたか?」
「……ああ」
頷く。と、アリーシャの目が少しばかり細まった。表情は変わらないが内心気が気でないんだろう。気持ちは分かるけど、俺はそんな彼女に対して手のひらを向けた。
「でもその前に一つ聞かせてほしい」
「? なんですか?」
「いや、もしこのまま異世界に行くとしても俺、いつかは必ずこっちの世界に帰ってくるつもりなんだ。でも、このまま異世界に行ったら当然こっちじゃ行方不明だなんだと騒ぎになっちゃう。それは困るから、こっちの世界に帰ってくるまでの間、俺に関する記憶や記録を、一時的にこの世界から消すこととかってできるのか?」
それは昨日からずっと気になっていたことだった。
家族や周りの人に心配や迷惑をかけないために、というよりも、どっちかっつーとこっちの世界に帰ってきたときにかかるだろう面倒事をなくしたかった。だから尋ねたのだけど、どうやらそれは杞憂だったらしい。
俺の質問に対してアリーシャは、ああなるほど、と納得げにうなずくと、
「それなら大丈夫ですよ。というより最初からそうするつもりでしたから」
「え、そうだったのか?」
「はい。もちろん記憶も記録もすぐに元に戻せます」
「……そうか。だったら何の心配もなく行けるな」
そう言った瞬間、アリーシャの瞳に期待のようなものが見え隠れし始める。案外分かりやすい反応だ。
俺はその瞳をまっすぐ見返し、頷いてみせた。
「ああ。本当に俺なんかが〝ルール〟とやらを壊せるかどうかなんて分からないけど、行くよ、俺。君らの世界に」
「――――」
アリーシャは静かに目を閉じた。何を言うわけでもなく、ただ黙ってその場に立ち続ける。彼女は今、閉じたまぶたの裏で何かを見ているのかもしれない。
少し予想外の反応……いや、そうでもないか。彼女らしい反応かもしれない。
ただ、それがしばらく続くとさすがに沈黙に耐えられなくなり、声をかけようとした。
けど、
「よかった……」
そう囁くように呟いた彼女の表情を見た瞬間、俺は出かけた言葉を思わずそのまま呑み込んだ。
だって、今まで頑なに無表情しか見せてくれなかった彼女が、確かに笑っていたから。
それは花が咲くような満面の笑顔じゃなく、口の端をちょっと持ち上げただけの笑顔というよりも微笑みに近いものだっただけど……でも、それはとても自然で、とても優しい笑みだと思った。
「本当に、ありがとうございます」
だからだろうか。
「うん、まあ……どういたしまして」
なぜか少しだけ照れてしまった。
はっきり『行く』と言ったからか、無表情ながらも少しばかり表情が柔らかくなった(気がする)アリーシャ。少し、元の表情に戻ってしまったことを残念に思ったけど、とりあえず話を進めることにした。
「それで、一体どうやって俺の記憶や記録をこの世界から消すんだ? やっぱり魔法か?」
「そうですね。それしか方法がありませんので」
「まあ、そうだよな。ってか魔法ってそんなこともできるのか。知らんかった」
「……一つお聞きしたいのですが、ユウさんはどれぐらい魔法について理解していますか? 魔法に大切なのがイメージだということは知っていますか?」
それは知っている。簡単なことしかやっていないとはいえ、一応これまでに何度も魔法を使っているんだから。基本的なことは知っているつもりだ。
確かに、イメージは魔法にとってなくてはならないもの……とまではいかないけど、大切なものだ。
例えば遠くにある物を触れずに浮かせたい場合、俺はまずその、浮かせたい対象物が実際に浮いている姿を頭の中でイメージする。そして――というか、もうすでにほぼほぼ魔法は完成しているんだけど――そのイメージを現実に重ねる、つまり今実際に見ている景色にそのイメージを重ねることで魔法は発動する。漫画やアニメのように呪文を唱えたりはしない。少なくとも俺が使っている魔法はそうだ。
といっても、別にいちいちイメージしなくても、実は念じるだけでも魔法は発動する。「浮け」と念じるだけでもそれだけで物は浮く。イメージは大切だけど絶対ではないんだ。
ただ、その場合、どれぐらいのスピードでどこまで浮けばいいのかイメージしていないから、急に物凄いスピードで見えなくなるまで浮き上がってしまう場合がある。要は効果がてきとうになるんだ。
だから、魔法にとってイメージは大切。それぐらいは理解している。
「知ってるよ。基本的なことはたぶん理解していると思う」
「そうですか。ユウさんがどのように魔法を理解しているのか分かりませんが、私たちの世界で魔法とは、〝この世の理を覆す力〟のことをそう呼びます」
……なんかいきなり難しい言葉がでてきたな。
「理はまあ、常識と言いかえてもいいかもしれません。この世の常識を覆す力。もしくは、人の願いや思いを叶える力、でしょうか。魔力さえ足りれば、魔法でできないことは何一つありません」
「……まじかよ。じゃあもしかして俺って、やろうと思えば何だってできちゃう?」
「何だって、かは分かりませんが、大抵のことならできると思いますよ。なにしろこの世の常識を壁に例えるなら、魔力は爆弾です。爆弾の数が多ければ多いほど大きな壁を壊せますよね?」
「な、なるほど」
例えというか、今の説明を聞いたら俺ってまんま爆弾じゃねえか。しかも相当ヤバイ。
よく今まで誤爆しなかったな。奇跡に近いだろ。
「魔力に関しては、魔法の強度など他にもいくつか話さなけばいけないことがありますが、それはまた後でということで。今は話を進めましょう」
「うん、頼む」
これ以上ショッキングな現実を突き付けられたら俺は思わず現実逃避してしまうかもしれない。いやマジで。
「実は、こうして魔法について尋ねたのには理由があります。ユウさんにやってもらいたいことがあるんです」
「やってもらいたいこと?」
「はい。ユウさんにはご自分でこの世界から、ご自身に関する記憶や記録を消す、というか封印していただきたいんです」
「封印? まあ、それはいいけど、どうやってやればいいんだ? 自分で言うのもあれだけど、今の俺ってたぶん、無駄に魔力をもってはいるけどとんだポンコツ魔法使いだぞ?」
正直にそう言うと、アリーシャは何かを考えるように、そうですね、とわずかに視線をそらしてから、
「無駄に魔力がかかってしまいますが仕方がありませんね。ユウさん、イメージは難しいと思うんで念じてみてください。この世界の人間、また世界から、ご自身に関するすべての記憶や記録が封印されますようにと」
「分かった」
言われたとおり念じてみる。はっきり、すべて、と範囲を決めているから、効果がてきとうになることはないと思う。
といっても、目に見えるものではないから本当に魔法が発動したのかも、念じたとおりに成功したのかも分からない。いまいち実感がわかなかった。
「やってみたけど、これでいいのか?」
「大丈夫だと思います。かなりの魔力を感じたので」
「ああ、そうなんだ」
ってことはもう、この世界に俺はすでにいないことになっているのか。実感はわかないけど……やっぱりちょっと寂しいな。
「でも、これで何の心置きもなく異世界にいけるわけだ。君らの世界がどんな世界なのか、ちょっと楽しみになってきた」
「そう言って頂けるなら私も嬉しいです」
言いながら、何か小さいものを二つ懐から取り出したアリーシャ。よく見ると、それらはあのフード男が使っていた黒い球体と同じものだった。
「これは、魔石と呼ばれている特殊な石で、微量ですが魔力を吸収する働きをもっています。大きな魔法を発動したいとき魔力の継ぎ足しに使います」
「え? そんなのあるのか? だったらそれを大量に使えば〝ルール〟を壊せるんじゃないのか?」
「……残念ながら、これはとても希少なものでして、あまり量がないんです」
「あ、いや、そうか」
そうだよな。そんなことができるならそもそも俺なんて必要ないし。
「で、今回はこれをつかってユウさんを私たちの世界にお連れしたいと思います」
「ん? それってかなり希少なんだろ? また俺が代わりに魔法をつかうじゃダメなのか?」
「ダメですね。今から私がつかう魔法は〝転移〟と呼ばれているものですが、これは行きたい場所の景色や風景を正確にイメージしなければいけないんです。だから先ほどのように念じるだけ、という方法は取れません。もし『異世界に転移』なんてイメージもせずに念じてしまったら、どこの異世界にとんでしまうか分かりませんよ?」
「そ、それは困るな」
「ですよね。だから今回は私がやります」
と、アリーシャは取り出した二つの球体を軽く握りしめた。
「ユウさん、忘れ物はありませんか?」
「忘れ物……」
これはおそらく、この世界でやり残したことや心残りがないか聞いているんだろう。なら答えは決まっている。
「大丈夫。行こう」
「……分かりました」
アリーシャは頷く。そして、フード男と同じように球体を握りつぶした。
本当にもう、迷いはない。不安も、寂しさもない。だって今俺は、とてもワクワクしているから。
「じゃあな、皆。またすぐに会おう」
直後、俺の視界は白一色に染まった。